■愛することが罪なら
七章『Not forever,I wish...』
 
 
 
 
 
 
 あれから、どれだけ歩いただろう。
 落としたロザリオを探して、どれだけ時間が経っただろう。
 
「ない……」
 
 ロザリオは、まだ見つからない。走って逃げてきたせいで、来た道をあまり覚えていなかったのも失敗だった。
 気付けばもう夕刻。足は休息を求めて悲鳴をあげ、冷たい空気に晒され続けた肺は軋んでいる。靴には雪が入り込んで冷たいし、立ち止まれば身も凍るような風が汗を冷やす。一言で言うなら、最悪な状態。
 
「――はぁ」
 
 走るのも歩くのも、もう限界。私はバスの待合小屋を見つけると、倒れ込むように腰かけ、全身から力を抜く。木製の待合小屋は温かな雰囲気で、風雪をしのいでくれる。
 ぐったりと、動けない。もう自分がどこにいるのかすら、分からなかった。ただ分かっているのは、山中のバス停ということのみ。温泉街から近いのか遠いのか、それすらも曖昧だった。
 ゴーッ、と、目の前を車が通り過ぎていく。小屋は谷側に向いて作られているので、対面の山がよく見えた。
 
「ああ」
 
 山の稜線に沈んでいく、朱色の夕陽。降りかかった夜の帳の中、赤い光線を撒き散らしながら消えて行く。太陽が沈んでしまえば、この山間道には足元を照らす光さえない。ロザリオは、見つからない。
 絶望的で、それだからこそ美しく、夕陽はどんどん欠けていく。隣に志摩子さんが居てくれたら、あの頃のまま、私の横で微笑んでいてくれたら、どんなに良かっただろう。きっともっと夕陽は綺麗に見えて、いつまでも心の中で輝いているはずなのに。
 
「乃梨子」
 
 そう。こんな風に優しく。
 私の名前を呼んでくれたら――。
 
「え……?」
 
 私は椅子から跳ね起きると、目を擦った。夕陽に縁取られた、愛しい人のシルエット。それが私に、語りかけてきたのだ。
 
「志摩子……さん」
 
 やがてはっきり見えてくる、志摩子さんの顔、――その姿。
 
「――ごめんなさい」
 
 擦れた、私の声。
 誰より、会いたかった。けれど、合わす顔がなかった。だから、また走り出す。
 ロザリオを無くした私は、志摩子さんの障害物にしかならない私は、もはや妹を名乗ることすら図々しい。
 
「待って!」
 
 小屋の外に出ようとする私を、志摩子さんは体当たりするように阻む。志摩子さんに包まれるように足を止められた私は、駄々っ子のようにもがく。
 
「離して、離してよ――!」
 
 このまま抱き締めていてくれたら――。そんな都合のいい空想をかき消し、自分に鞭打って、身体を捻る。腕を引き剥がそうとする。
 けれど、志摩子さんの腕は強く私を抱きとめたまま、鎖のようにびくともしなかった。私に振り解けるだけの力が残っていなかったのか、それともどこかで志摩子さんを傷つけるのを恐れているのか。
 
「乃梨子」
 
 もう一度名前を呼ばれて、私はもがくのを止めた。澄んだ声色は鋭ささえ孕んでいて、身体を動かせという命令を断ち切られたみたいだった。
 それから、沈黙。待合小屋の中、響くの二つの呼吸音。抱き締められているのに、志摩子さんが温かいのに、身体が震えた。安堵なのか緊張なのか、それすら判別できず、ただ震えていた。
 
「……どうして、ここが分かったの?」
 
 言ってから私は、身体を支えられる力を失って、椅子に座る。ふわりと志摩子さんも隣に座って、ようやく震えが止まった。
 
「足湯」
「え……?」
「足湯で乃梨子の足を見た時、思ってたより小さいなって、思っていたのよ。だからあなたの靴の大きさを思いだして、足跡を追ってきたの」
 
 微笑んで言う志摩子さんに、思わず目頭が熱くなる。あんな小さなことですらちゃんと覚えてくれていたことが、素直に嬉しかった。今なら奇跡という言葉も、すんなり受け入れられるような気がした。
 
「乃梨子、私の話を聞いてくれる?」
「……うん」
 
 こくりと、一度だけ頷いた。
 もう逃げる気も起きない。きっと志摩子さんは、逃げればいつまでも私を追ってくるだろう。
 志摩子さんの答えを聞くのは怖かったけれど、――今度こそ覚悟を決める。どんな答えだろうと、例えそれが私を打ち砕こうと、真正面から受け止めよう。
 そんな気概込めた目で志摩子さんを見ると、ゆっくり頷き、口を開いた。
 
「私たちが一緒にいられる時間は、永遠じゃないわ。時間には限りがあるし、何が起こるかだってわからない。それでも乃梨子は私のことが好きだって、愛してるって言うの?」
 
 その質問は静かで、とても深くて。私の中にゆっくりと浸潤する。
 答えなんて、決まっていた。志摩子さんを想う気持ちは、何よりも純粋だと信じている。この気持ちだけには、嘘をつきたくない。
 
「それでも、私は志摩子さんのことが好きだよ。愛してる」
 
 この先何があったって、いずれ別れが来ると知っていたって。
 志摩子さんを好きな気持ちは変わらない。例え同性愛者だと言われても、奇異の目で見られようとも、この気持ちが揺らぐことはない。志摩子さんが、志摩子さんである限り。いや、例え変わってしまったって、今までの志摩子さんの面影を愛し続けるだろう。
 
「永遠が欲しいんじゃないの。永遠はどこにもないんだって、分かっているから」
 
 諸行無常、この世で変わっていかないものはない。
 永遠があるのだとしたら、それは死だけ。曲げようも変えようもない、その事実だけ。――けれど、そんな道は悲しすぎるから。
 
「ただ志摩子さんとの未来が欲しい。手を繋いで、笑い合って、一緒に歩いていける明日があればいいの」
 
 言いきって、私は安心した。もう、これで伝えたいことは全て伝えた。これで志摩子さんがどんな答えを返しても、潔くそれを受け入れられるだろう。
 冷たい風が、小屋の中まで吹き込む。志摩子さんの髪の毛がふわりと浮いて、視界を遮る。――だから、自分の身に何が起こったのか、よく分からなかった。
 
「……」
 
 冷え切った私の唇を塞いだのは、もう一つの唇。押し付けるだけの、拙い口づけ。
 
「志摩子、さん」
 
 やがて自由になった唇で、その人の名を紡ぐ。その人は、微笑む。
 
「私も、あなたのことが好き。純粋に愛してる」
 
 まっすぐな言葉は私の心に響いて、涙腺を緩ませる。
 泣きそうなぐらい嬉しい。――でも、悲しい。
 
「ダメ、だよ。志摩子さんは、敬虔なクリスチャンでしょ? シスターになるんでしょ? そんな教えに反するようなこと――」
 
 ああ、やっぱり私は邪魔をしてしまった。志摩子さんの道を、夢を、私という存在が邪魔してしまったのだ。
 
「ええ。そうかも知れない」
 
 けれど志摩子さんは何故か清々とした微笑みで、「でも」と続けた。
 
「あなたを愛することが罪なら、私は償いながら生きる。例えどんな罰が与えられようと、あなたの為なら喜んで受け入れる。乃梨子のこと、本気で愛しているから、この気持ちは止められないもの」
 
 志摩子さんは、微笑を浮かべながら泣いていた。
 頬に涙が伝って、夕陽できらきらと輝いていた。
 
「志摩子さん、志摩子さん――っ」
 
 優しく手を差し伸べる志摩子さんに縋りついて、泣いた。もう我慢もなにもできなくなって、言葉にならない声で叫び、赤子のように泣きじゃくった。
 ずっと堪えていたせいか、いくら泣いても涙は途切れてくれなくて。けれど志摩子さんは、それを全部拭ってくれた。何よりも大きな優しさで、涙を乾かしてくれた。
 
「ねえ、乃梨子」
 
 まだぐずぐずと鼻をすする私の背中を撫でながら、志摩子さんは言った。
 
「私は、あなたの姉に相応しくないのかしら?」
「そんなこと!」
 
 私は驚いて、志摩子さんから身体を離す。そして目の前に現れたのは、十字架。失くしたはずのロザリオが、そこにあった。
 
「志摩子さん、それ……!」
「これは、捨てたわけじゃないのよね?」
 
 志摩子さんはロザリオの輪を広げ、問いかける。唖然として言葉を失った私は、ただ頷くことしかできなかった。
 
「あなたはまだ、私の妹でいてくれる?」
「……当たり前だよ。私は、志摩子さんの妹じゃなきゃいやだもん。ずっと、支えになるんだから」
 
 そう言って、笑う。ぎこちないだろうけど、精一杯の笑顔で。
 私が志摩子さんの妹として、志摩子さんを向かえるために。
 
「――ありがとう」
 
 少しだけ掠れたその声は、優しく鼓膜を撫でる。少しだけ震えるその手は、緩慢な動作で私にロザリオをかける。
 ロザリオが私の胸の前で揺れるのを見ると、志摩子さんはまた瞳を曇らせた。
 
「志摩子さん、また泣いてる」
 
 志摩子さんの頬に指をあて、涙を拭ってあげる。涙の温かさは、志摩子さんの温もりそのものだった。
 
「乃梨子だって、泣いているじゃない」
 
 私がそうしたように、志摩子さんも私の頬に指をあてる。冷たい空気に晒され、涙が冷え切る前に、それを拭ってくれる。
 今だけは、いくら泣いてもいいんだと思う。これは嬉し涙なんだから。これはお互いがお互いのためだけに、流した涙なんだから。
 
 
 
 ――ねえ、志摩子さん。
 あなたを愛することが罪なら、私も一緒に償うよ。
 曖昧で不透明で、優しくて残酷なこの世界の中。
 雪みたいに真っ白な気持ちで、愛しているから。
 
 

 
 
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