■愛することが罪なら
六章『Miss a thing』
 
 
 
 
 
 
 小さくなる背中と、パタパタと見える靴裏。相変わらず降り続く雪。
 
「待って!」
 
 自分でもこんなに大きな声が出せるのかってぐらい、叫ぶ。けれど聞こえているはずなのに、その顔は振り向かない。長めのスカートが邪魔で、上手く走れない。
 どんどん離されていく。やがて住宅の密集している区画に入り、何度も角を曲がって、見えなくなって。人通りの多い通りに出ると、もう足跡を追うことすらできなくなっていた。
 
「まだ、何も言ってないじゃない」
 
 錆びて文字の読めなくなった看板に向けられた言葉は、何の響きも持たずに消えた。
 私はまだ、何も乃梨子に伝えていない。想いの一つですら、声に出していないのだ。
 乃梨子と一緒にいたい、乃梨子のことが可愛くて仕方ない。共に歩きたい、笑いたい、時を共有したい。苦労しても、辛くても、乃梨子と一緒なら構わない。それですら、きらきらと輝く思い出になるだろうから。乃梨子と過ごす時間は、何より満たされているから。
 
 私の心は、こんなにも乃梨子を渇望している。
 
 乃梨子の手の中にあるロザリオを見た時、喉元にナイフを突きつけられたかのような気分だった。
 姉妹の解消、それは二人の世界の崩壊。
 確かに乃梨子はロザリオを受け取る前、「ロザリオを貸すつもりで」と言ったが、今までそんなこと考えつきもしなかった。今までもこれからも、そんな可能性はゼロだと信じて疑わなかった。
 けれど、ロザリオは乃梨子の首から外された。返せと言われれば返すと、可能性が示されてしまった。
 
「乃梨子……」
 
 微かな呟きは、風に流されていく。気付けば、温泉街を流れる川のほとりまで来ていた。
 何がいけなかったのだろう、と、鼻先と手先に冷たい痛覚を覚えながら、私は考えた。
 私が乃梨子の気持ちに答えなかったから?
 いつも通りを演じるのが苦痛だった?
 答えはどちらもだろう。私の態度が、全てが乃梨子を追い詰めた。傷つけるのを(いと)って繕った言葉は、しかし重い鎧となって乃梨子をがんじがらめにしていたのだ。
 
 だから、私はまた駆け出す。見失ってしまったけれど、まだ遠くには行っていないはずだ。会って、そんな鎧は脱がさないと。私の気持ちを伝えないといけない。
 温泉街を横切り、人気のない場所を探す。乃梨子があの状態で人ごみを好くとは思えないから、どんどんと山側へ。やがて家屋が途切れとぎれになってくると、反対に田畑が多くなってくる。あぜ道ですら乃梨子の跡を探し、彷徨い求めた。
 
「はぁ……は……」
 
 どれだけ走っただろう。いつの間にか息は上がり、スカートの裾は濡れてしまっている。
 乃梨子は、こっちには来なかったのだろうか。そう思い始めた時、道端に何か落ちているのを見つけた。何故だか見覚えがあって、それを拾い上げる。
 
「嘘よ……」
 
 それを見て、愕然とした。
 足から力が抜けて、雪の上にへたり込んだ。
 
「――どう、して」
 
 どうして、ここに『これ』が落ちているのだろう。
 どうしてロザリオが、こんな所に、投げ捨てられたみたいに。
 
 

 
 
 雪は、空の吐いた溜息みたいだ。
 私は当てもなく林道を歩きながら、空に向かって苦笑を一つ。
 知らなかった。志摩子さんのいない世界は、こんなにも虚しく見えるんだって。
 
「はっ……」
 
 自らの考えのバカらしさに、思わず失笑。何が『志摩子さんのいない世界』だ。自分が置いてきたクセに。
 降り止まない雪に目を細めながら、私はこれからのことを考える。私と志摩子さんは、これからどうなるのかな、と。
 恋人関係が時間と距離と置いて自然消滅するように、私たちの関係も消えてしまうのだろうか。紡いできた絆は、そんな風に綻んでいくのだろうか。
 そんな終わり方は、絶対に嫌だ。ロザリオを返せばもっと絶対的に、完全に終わらせることができるだろう。しかし、私にはそれができそうにない。あんなことを言っておいて尚、私は志摩子さんに惹かれているから。この身体は、本能的に志摩子さんの温もりを求めているから。
 まったく、未練がましいったらありゃしない。私は無為にコートのポケットに手を突っ込み――そこにあるはずの感触がないことに気付いた。
 
「あれ……?」
 
 ポケットの中をまさぐり、裏返す。しかしそこから出てきたのは、僅かな糸くずのみ。
 
「――ない」
 
 無い、ナイ、ない。――ロザリオが、ない。
 他のポケットにも、ブラウスのポケットにもない。体中まさぐってみても、ロザリオはどこにもなかった。
 
「嘘……」
 
 指先がかじかむほど寒いというのに、冷や汗が流れる。血の気が引いて、眩暈すら感じた。
 ロザリオは飾りだったけれど、私たちの絆に他ならない。決して落としたり、失くしたりしていいものじゃない。
 
「……あの時だ」
 
 もし落としたとしたら、足がもつれてこけた時。何度か転んだから、その拍子に落としてしまったのだろう。
 私は進行方向を百八十度回転させ、来た道を駆け出す。
 私はどこまで愚かしいのだろう。何度失敗を繰り返せば気が済むというのだ。
 首にかけてさえいれば、落とすことはなかった。例えロザリオをかけている資格がないと思っていても、志摩子さんに縋りたいならかけていればよかったのだ。
 勿論、それは酷く欺瞞(ぎまん)に満ちた行動だろうけど。
 
 こんな終わり方は嫌だ。
 終わらせなくてはと思っているけど、終わらせたくない。
 まだ私は、こんなにも志摩子さんの存在を求めているから。
 
 

 
 
 悲しくて、希望の欠片も見えなくて、それでも涙が出ないのは何故だろう。
 ショックが大きすぎて、涙の仕組みが壊れたのか。どこかでこれはただの悪夢なんだと、信じ込んでいるからか。
 
「どうして……」
 
 何度も同じ言葉を吐き、連ねる。手には白薔薇を名乗るものに継がれたロザリオ。私が乃梨子の首にかけた、形ある二人の絆。
 それが、落ちていた。投げ捨てられたかのように、雪にまみれていた。
 
(こんなの、違う)
 
 嘘だ、間違いだ、と。人通りのない田畑の脇道で、現実を全て否定する私が一人。
 認めてしまっては、壊れてしまう。剛速球が壁に当たれば、また鋭い速度で襲いかかってくるように、信頼の代価は大きい。ロザリオの鎖がカチャカチャと音をたてる度、心が()がれていくようだった。
 
 私は、どうしてこうも弱いのだろう?
 
 私は乃梨子に支えになってもらっていただけではなく、甘えていた。無条件に私を受け入れてくれる存在に癒され、心を預けてしまっていたのだ。
 姉という肩書きが聞いて呆れるぐらい、寄りかかっていて。そして支えは傾きだし、私は自分で立つことすら出来なくなる。――それが今の私だった。
 
 思えば私には、主体性や自律性というものが著しく欠けていた。乃梨子にロザリオを渡した時もそう。祥子さまの後押しがなければ、私はずるずると思考に溺れていただろう。
 私はあらゆる意味で、山百合会の仲間に救われてきた。そして、その仲間たちは強い人たちだった。梅雨のあの時期、由乃さんも祐巳さんも姉妹関係において深刻な問題をかかえていたけど、ちゃんと自らの力で解決した。
 それに比べて私はどうだろう。今その姉妹の危機に直面して、私は何をしているんだろう。
 
(どこに、いるの?)
 
 乃梨子に会いたい。会って、話を聞きたい。例えそこに、私の望まない未来が待っていたとしても構わない。
 ここに私を後押ししてくれる仲間はいないのだ。乃梨子を失いたくないのなら、私はこんな風にうずくまっているべきじゃない。
 
 私は立ち上がる。前だけを向いて、歩きだす。
 もう迷わない。
 私はあなたと向きあい、全てをぶつけたい。例えロザリオを返されたのだとしても、もう一度受け取らせてみせる。
 
 もう一度、あなたと共に歩きたいから。
 ただひたすらに、まっすぐに、あなたを愛しているから。
 
 

 
 
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