■愛することが罪なら
五章『Criss Cross』
 
 
 
 
 
 
 それは住宅の並ぶ区画とは少し離れた、鬱蒼と木々が生い茂る山中。
 明るい色のレンガで建てられた教会は、屋根に重たそうな雪を載せながら、ひっそりと私たちを待ち構えていた。
 
「やっとついたわね」
「ほんと、遠かった……」
 
 時刻はもうすぐ三時といったところ。往路とは別ルートのため交通手段が少なく、私たちは温泉街に近いこの区画まで、ほとんど徒歩で移動しなければならなかったのだ。
 
「うう、寒い。早く中に入れてもらおう」
 
 一秒でも早く外気から逃れたい私は、教会の扉をノックする。はい、と低い声の後、暫くして扉が開く。
 そして建物の中から姿を現した神父さんは、私たちの姿を視認するやいなや、「ああ」と呟いた。
 
「お待ちしていました。どうぞ中へ」
 
 神父さんに招かれ、中に入る。事前にアポイトメントを取ってあるので、このあたりはスムーズだった。
 歩きながら牧師さんは、この教会についての歴史を説明してくれる。誰々という宣教師が司牧にあたっていたとか、名物のステンドグラスがここにある経緯など。一通り話し終えると、神父さんは立て込んだ用事があったらしく、すぐに奥へ引っ込んでいった。
 
「綺麗なところね」
 
 改めて教会内を見回し、志摩子さんは呟いた。
 白亜の壁と、四列の長椅子。祭壇は扇形で、その中央に説教台と十字架、端には一対のステンドグラス。そこから光が差し込み、礼拝堂内に幻想的な美しさをもたらしていた。
 
「うん。綺麗……」
 
 大理石で作られた洗礼盤や、祭壇のすみに置かれた聖櫃を眺めた後、私たちは何を言うでもなくお祈りを始めた。教会を訪問する時はいつもそうだ。示し合わせてではなく、本当にどちらともなくお祈りを始める。
 ああ、こんな所までいつも通り。
 いつの間にかそれを、受け入れかけている自分がいる。気持ちを押し付けて、拒絶されて、いつも通りを演じること。それはなんと甘やかで、残酷なことだろう。
 愛とは、その対象かけがえのないものと認め、それに惹かれること。何よりも大切にしたいと思うこと。そういう意味でなら、私は志摩子さんを愛している。世界中の誰よりも、志摩子さんを愛している――その気持ちは、殺されたまま。
 
「……はぁ」
 
 私は溜息と同時に、瞼を上げる。見上げた先には、白い十字架。
 こんな私に、何を祈ることがあるだろう?
 非生殖的な性行為への無理解で、それを戒めた十字架に。
 
「――――」
 
 私は無言で立ち上がると、志摩子さんの方を見た。
 床から天井まで伸びるステンドグラスから漏れる光。それを受けた志摩子さんは、何よりも神々しい。あのマリア像でさえ、志摩子さんの美しさには敵わないだろう。
 そんな人を、私は愛してしまった。シスターになりたいと、深くキリスト教を信仰する人に、私は惹かれてしまったのだ。
 
「外で待っているから」
 
 私は小さな声でそう言うと、礼拝堂を後にする。一秒だって、ここに居たくなかった。
 ギィ、と重い扉を開けると、雪が降っているのが見えた。外の空気は張り詰めた糸のような雰囲気でもって、私を迎えてくれる。それでも教会の中に戻ろうなんて、微塵も思わなかった。
 教会の敷地内には、クリスマスの名残なのか電飾が飾られたままの木が、寒そうに佇んでいる。私はその木に近づくと、そっと幹に触れた。
 私たちは似たもの同士だ。葉を散らし、寒そうなその身体に巻かれたのは、光を灯さない無数の電飾。
 
「どうして……」
 
 心の内に収まり切らなかった想いが、声帯を震わせる。
 どうして私たちは、こんなにも優しく傷つけ合わなければいけないのだろう?
 ロザリオを首から外し、問いかける。このロザリオは絆だった。心と心を、姉妹という名の下で係累する、堅固な絆。それがどうして、こうも私たちを締めつける。
 
(もう嫌だ……)
 
 偽りの日常も。不透明な言葉も。
 今までどんな小さなことでも話し合ってきたからこそ、この絵空事は身に堪える。それに埋もれてしまいそうになる自分が、嫌になる。
 泡沫夢幻。私たちの関係は、そんな儚いものじゃなかったはずだ。きっと何よりも強い絆だと信じているから。だから――。
 
「志摩子さん」
 
 私は背後に立つ、その人の名を呼んで。
 ゆっくりと、振り返った。
 
「……乃梨子?」
 
 困惑と驚嘆を混ぜた表情。
 それはそうだろう。――首にかけられているはずのロザリオが、私の手の内にあるのだから。
 
「私、全部正直に話すね。だから志摩子さんも正直に答えて」
 
 言いながら、歩み寄る。
 張り詰めた糸のような空気の中。一陣の風が吹き、木々に積もった雪さえも散らせる。
 こんなにも寒い。この寒さは耐え切れない。それならば温もりを求めるか、いっそ凍えるのを選ぶか。
 
「私はね、志摩子さんのこと好きだよ。すごく、愛してる」
 
 ロザリオのクロスを握り込み、その拳を私と志摩子さんの間に突きだす。その動作はひどく緩慢で、無感情。
 
「でもこの気持ち、志摩子さんにとっては枷にしかならないよね。迷惑なら、そう言って欲しい。志摩子さんを好きでいることは止められないけど、もうキスしようとなんてしないから」
 
 捲くし立てながら、声が震えていく。突きだした拳で、志摩子さんの表情は見えない。見るのが、怖い。
 私はそっと手のひらを開いた。トップのクロスが零れ落ちて、チェーンが手首に絡まる。ロザリオが、揺れる。
 
「私の存在が志摩子さんの道を邪魔するなら、ロザリオを返せって言って」
「乃梨子、やめて……」
「絶対に返したくないけど、志摩子さんが言うなら、私」
「もうやめて!」
 
 悲痛な叫びに、私はなすがままロザリオを下げた。
 その時になって、やっと志摩子さんの表情が見えた。
 
「……ロザリオを返すなんて、言わないで」
 
 端正な顔立ちが、悲しみに歪んでいる。私を映す瞳は曇り、切なく揺れる。まるで世界の終わりが目の前に迫っているような、そんな表情。
 私のバカ。こんな表情の志摩子さんは、二度と見たくないと思ったのに。こんな悲しそうな、絶望している顔をさせてはいけなかったのに。
 
「――っ!」
 
 その現実から逃げるように、私は駆け出した。渾身の力を込めて地を蹴り、ただ走った。
 この場を去ることが解決にならないなんて、分かっている。それでも、あんな表情をした志摩子さんを見ているのに耐えられなくて、私は逃げることしかできなかった。待ち受けている答えが怖くて、志摩子さんを傷つける自分の存在が怖くて、逃げることしか。
 
「乃梨子!」
 
 追いかけてくる声には、振り返らない。答えなんて聞かなくても、顔で全て語っているようなものだ。今更ロザリオをかける気になれなくて、かける資格なんてないと思って、コートのポケットに乱暴に突っ込んだ。
 なんて不器用で、なんて臆病。自らの浅慮が、心底嫌になる。
 
「はぁ……はぁっ……っ!」
 
 雪に足をとられて、二回ぐらいこけた。これだから雪は嫌いだ。どうして私の行く先々を、こうも邪魔してくれるのだろう。
 堪らなく惨めで、涙が滲んできたけど、今は泣かない。それが私の、精一杯の強がりだった。
 
「乃梨子!」
 
 遠くで叫ぶ声が、耳朶(じだ)に触れる。
 立ち止まらない、振り返らない。
 もはや私には、あなたにかける言葉はないから。
 
 
 ごめんなさい――志摩子さん。
 さようなら。愛してる。
 
 

 
 
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