■愛することが罪なら
四章『Mind Forest』
 
 
 
 
 
 
 カチリ、と。食器同士が軽くぶつかる音。
 テーブルの上には、ご飯、味噌汁、お新香、焼き魚と、質素な朝食が並んでいる。
 
「乃梨子。お醤油取ってくれる?」
「あ、……はい」
 
 言われて私は、近くにあった醤油差しを手渡す。
 山間の朝らしい、ピリッと引き締まった空気の中、私たちは黙々と朝食をとっていた。
 
「あらごめんなさい。エアコンの時刻設定を間違えていたみたい」
 
 ふとそこに、追加のおかずを持ってきた女将さんが現れる。女将さんは手早くエアコンのスイッチを入れると、テーブルに納豆とだし巻き卵を並べながら言った。
 
「二人とも寒かったでしょう?」
「いいえ、慣れていますので」
 
 志摩子さんは、いつものように微笑して返す。私も真似するように、「大丈夫です」とだけ答えた。
 
「そう? 若い子にしては珍しいわねぇ」
 
 女将さんは「ほほほ」と笑うと、部屋を後にする。
 そして再開される、食事の音。
 
「このだし巻き卵、美味しいわね」
「……うん」
 
 そして何気ない会話も、再開。
 まるでいつも通り。志摩子さんの声も、仕草も、表情も。昨日のことなんてなかったかのように、いつも通り。
 勿論元のような関係に戻れるのが一番いいけれど、昨日のことはそんな簡単に流せることじゃない。聞きたいことだって、たくさんある。
 私の気持ちは、迷惑にしかならないの?
 過去の過ちって、何?
 けれどその答えを聞くのが怖かった。きっと私の気持ちは、志摩子さんの枷にしかなりえない。問いただして志摩子さんがまた悲しい顔になるのは、何より避けたかった。
 聞きたいけど、聞けない。なんて浅はかな葛藤。いつから私は、こんなに臆病になってしまったんだろう。
 
「……乃梨子?」
「え?」
「どうしたの、箸が止まっているようだけど」
「ううん。何でもないの」
 
 私はそう返すと、また箸を繰る。
 何もかも、いつも通り。
 私の心はまるで森のようだ。木々に視界を阻まれ、ただその深みへとはまっていく。
 ずるずると、出口を求めて。
 
 

 
 
 午前八時半。出発の時刻になった。
 この鑑賞旅行は二泊三日。昨日と明日は移動日で、寺や教会を訪問するのは今日だけだ。
 
「晴れてよかったわ」
 
 私の気分とは裏腹に、天気は快晴。透き通った蒼穹(そうきゅう)には雲ひとつなく、新雪が目に眩しい。
 今日の午前中に山中のお寺を訪問し、午後は往路と別ルートで教会によって、またこの民宿に戻る。移動距離は大したことないはずだけれど、交通手段が限られてくるせいで、丸一日くってしまうのだ。
 
「本当、いい天気」
 
 気温は氷点下に程近いけれど、日差しは温かい。
 よかった、と。心から思う。これでどんより曇っていたりなんかしたら、もっと気持ちが沈んでしまうだろうから。
 
「乃梨子、日焼け止めは塗った?」
「うん、大丈夫」
「そう。それじゃ行きましょうか」
 
 いつも通りで、予定通り。見せ掛けだけの、順風満帆な旅路。
 
「志摩子さん」
 
 足と視線はバス停の方向へ向けたまま、私は志摩子さんの名を呼ぶ。
 
「どうしたの?」
 
 応える声に、色はない。いや、感じられないのだろう。取り繕った関係の上から、込められた想いを読み取るのは難しい。
 
「寒いね……」
 
 私はそれだけを呟き、志摩子さんの手を握った。手袋はどうしたとは訊かず、志摩子さんはただ「そうね」と言って手を握り返してくる。
 触れ合った肌の部分だけ、温かい。二人の距離は限りなくゼロに近いけれど、心は南極と北極ぐらい離れている気がした。
 
「……」
 
 黙々と、雪を踏みしめながら歩く。脳裏を掠める記憶の欠片。この沈黙を、私は知っている。
 初めて小寓寺を訪れた時、志摩子さんが私をバス停まで送ってくれた時も、こんな雰囲気だった。言葉が無くても通じ合えるという、互いを理解しきった末の沈黙ではなく、言いたいことがあるのに言えない沈黙。それはなんと重く、苦しいことだろう。
 右手で志摩子さんの存在を感じながら、左手を胸元にもってくる。コートの中で揺れる、ロザリオのクロス。それがやけに重い。
 きっとこの重さは、志摩子さんの感じていた重さではないんだと思う。これは志摩子さんの危惧していた白薔薇(ロサ・ギガンティア)としての重みではなく、志摩子さんの妹としての重みなのだから。
 
 

 
 
 光陰矢の如しとはよく言ったもの。
 午前の時間は瞬く間に過ぎていった。勿論時間の流れる早さは変わらないはずだけど、交通手段の切り替えや、目的地の探索で思いの他時間をくってしまったために、そう感じるのだろう。気付けばもう正午も近い。
 
「どうぞ」
 
 住職に招かれ、私と志摩子さんは本堂に入る。
 この寺は、仏像鑑賞のために訪れる最後のお寺だった。すでに三件の寺を回ってきたけど、正直あまり記憶に残っていない。
 それもそうだろう。本来仏像は、心を空にして観るもの。頭の中を別のことが占領しているのに、心から仏像を観られるわけがない。
 
「――はぁ」
 
 私は溜息をひとつ吐くと、なるだけ心の中を空にする。このままじゃ、折角の仏像・教会鑑賞旅行が台無しだ。それにこの寺の菩薩像は、撮影禁止のため事前の情報が少なかった、最も観たかった仏像なのだ。この機会を逃すまいと、私は一念発起して視線をあげる。
 
「…………」
 
 瞬間、息が詰まった。
 目の前に鎮座する仏像は、怒りに目を見開いているわけでもなく、諭すように落ち着いているわけでもなく、まったくの無表情。しかしその奥から、深い悲しみが私の心に浸潤して、酷く胸を締め付ける。
 なんの感情も灯さない、素朴な菩薩像。それがおぞましい位の衝撃を持って、私を向かえてくれた。
 
「志摩子さん――?」
 
 私は志摩子さんの反応が気になって、不意に横を向く。そこにあったのは、私と同じく衝撃に射抜かれた表情。志摩子さんも、この菩薩像に何か感じるものがあったのだろう。
 
「説明をいたしましょうか」
 
 志摩子さんのお父さんよりやや細身の住職は、深く静かに言った。
 
「この菩薩像は作者不明。製作時期も記録に残されていませんが、損傷の程度から鎌倉時代のものと言われています」
 
 住職の説明を聞きながら、私たちはまた菩薩像へと視線を戻した。その菩薩像はひたすらに静謐と、悲しみ、切なさ、やるせなさを湛えていて、観れば観るほど自身とシンクロナイズされていく。
 まるで心の闇を見詰めているよう。それが辛いのに、何故だか目を離せない。
 
「この菩薩像に残されている言い伝えはただ一つ。この仏像は心の奥底にある感情を、観る者に示すといいます。そしてその感情を払拭できるように努めるのが、覚者への道となるのです」
 
 住職の話を聞き終わると、私たちは揃って視線を交錯させる。そしてそれを見た住職は、表情を緩めて言った。
 
「お嬢さん方は、この菩薩に何を見ましたか?」
 
 

 
 
「志摩子さんには、あの仏像はどう見えた?」
 
 私は寺から伸びる石段を下りながら、さっきの住職と同じ質問をした。
 外は相変わらず寒い。いつ雪が降ってもおかしくない程の冷気に、志摩子さんはコートの襟を立てながら答える。
 
「……そうね」
 
 そう言うと志摩子さんは、視線を足元へ。私たちは苔むした石段に足を滑らさないように、慎重に山を下りていく。
 鬱蒼と茂る木々と、降り積もった雪。私たちの会話を遮るものは、何もない。
 
「凄く悩んでいるように見えたわ」
 
 私を邪魔するものも、音もない世界。だからこそ志摩子さんの声は、私の心にわんわんと響く。
 
「そして、悲しそうだったの。凄く――」
 
 そう、悲しそうだった。私が見ても、志摩子さんが見ても、悲しそうだったのだ。
 心の奥底にある、その感情。それを取り除くことが、私たちの道。
 
「そっか」
 
 私は呟き、それっきり口を噤む。
 数十段の下に見える、舗装された道。そこに出るまでは黙っていようと思った。我ながら、どうしようもないことを訊いてしまったなと感じていたから。
 
「……乃梨子は」
「え……?」
 
 しかしその静寂を破ったのは、志摩子さんの方だった。
 
「乃梨子は、あの仏像を見て何を感じたの?」
 
 無為に、階段を下る足が止まる。
 私を真っ直ぐ見てくる志摩子さんの目は、微塵の偽りも許さないと言っていた。
 
「……私にも」
 
 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
 脳裏に蘇るのは、あの無表情な菩薩像。感情を表現する彫りが徹底的に排除されたあの像は、思い出すだけでも私の心を締め付けた。
 
「悲しそうに見えたよ」
 
 この悲しみを終わらせること。それが私たちが歩むべき道ならば。
 仏の示した道は、なんと冷徹なことだろう――?
 
 

 
 
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