■愛することが罪なら
三章『here without you』
 
 
 
 
 
 
 雪の舞う夜空の下、私は歩いていた。
 土産屋、温泉旅館、茶屋、それに小さなスーパー。陽も落ちて久しいというのに、温泉街は賑やかだった。
 
「……」
 
 しかしその喧騒は、私には到底似合わない。結局どうすることもできなくなれば逃げることしかできない、弱い私に相応しいのは、こんなところじゃない。
 揺蕩(たゆた)うようにさほど多くない人波を泳ぎ切ると、私は温泉街の中心を流れる川に出た。川幅五十メートル以上あろうかという川に、人影はない。私は土手から川原に下りると、はぁと息を吐いた。一面に雪が積もる中、橋の街灯だけが唯一の明かりだった。
 
(どうして――)
 
 私は少し前のできごとを反芻する。目を瞑ってすぐに思い出すのは、乃梨子の絶望した顔。――あんな表情をさせたのが自分だという事実に耐え切れず、私は逃げてしまった。乃梨子がどうして唇を交わそうとしたのか分からなくて、なのにその先に待っているものが分かってしまって、私は逃げた。
 キスがいやだったわけじゃない。乃梨子のことは、好きだ。愛している。何があっても乃梨子だけは失いたくないと、守りたいと願っている。
 
 だからこそ口づけが、その後が怖かった。
 
 教えに反するということも、頭の片隅にはあった。同性愛が厭われる理由は、ノアの箱舟を作る原因となった大洪水を引き起こしたのが、ソドムの罪――同性愛行為だということ。しかしこれは旧約聖書で、キリストが誕生する前の話であるし、ローマ法王は「同性愛は個人のチョイス」であるという。結局キリスト教においての同性愛は、周囲の理解とともに捉え方が変わってきているのだ。
 だから、一番の問題は別にある。口づけの後どうなるか、だ。
 私はお姉さま――聖さまと栞さんのことについては知っていた。その結末についても。
 
『何を抱え込んでいるの?』
 
 ふと懐かしい声が、心中で木霊する。それは聖さまの妹になって暫くした後、薔薇の館で二人っきりになった時に発せられた言葉だった。
 聖さまは顔を伏せて黙り込んだ私に、「志摩子には知っていて欲しいから」と、栞さんとのことを語って聞かせてくれた。そしてその後、言ったのだ。
 
『私はあなたに癒され、許された。じゃあ志摩子は?』
 
 ――と。
 私はその言葉で暫く動けなくなり、そして気付いたら喋っていた。家庭の事情も、心の中の孤独も、全てさらけ出していた。話し終わって泣き出した私に、聖さまは「難しいね」と言って抱き締めてくれた。今でも、その温もりを覚えている。
 
「あぁ――」
 
 私はずるい。大切な妹を一人置き去りにしたくせに、自分はお姉さまにすがっている。乃梨子には私しかいないのに、私一人だけ救われようとしている。
 私は乃梨子のことを知っているつもりでいたけど、その実何も理解していなかったのかも知れない。軽いキス程度なら、私は何も考えずに受けることができただろうけど、乃梨子の本気の顔を見て分からなくなった。心は遠眼で、近づきすぎて見えないのだろうか。
 
「……っくしゅ」
 
 小さなくしゃみの後に、私は浴衣にカーディガンを羽織っただけという、寒々しい格好だったことに気付く。ひらひらと舞う雪は、昼間より少しだけ大きくなっているようだった。
 私は無言のまま、手のひらを広げる。ひとひら、またひとひらと舞い落ちる雪は、私の手に触れては消えていく。嘲笑うかのように、儚く。
 
(私たちは――)
 
 橋の上から漏れる光につつまれた川原。その中心で、いくつもの雪が消え行くのを見ている。
 私たちの関係は、こんなに儚いものだったのだろうか。感じていた幸福は、どうしてこんな風に消えていく――?
 風が吹く度、身体より心が冷えた。私に触れた雪たちは、瞬く間に溶けて姿を変えていく。
 
「乃梨子……」
 
 あなたは私に何を求めるの?
 私があなたを救うには、どうしたらいい?
 
 乃梨子のことをこんなにも大切に思っているのに、愛しているのに。愛を交わせば、別れがあなたを傷つける。永遠を望んだ末路に、あなたを連れて行けはしない。
 
 愛することが罪なら、私は。
 私は、どうしたら――。
 
 

 
 
 バカなことしたな、私――。
 志摩子さんのいなくなった部屋の中、私は佇立するかのように布団に突っ伏していた。まるで鎖で縛り付けられたかのように動けない。立ち上がって、寒い中で彷徨っているだろう志摩子さんを、連れ戻さなくちゃいけないのに。私には、それができない。
 会って、何を言えというのだろう。
 ごめんなさい、なんて言うのは簡単だ。だけどそれで済まされることではないと思うし、謝ってしまうのは自分が間違っていたと認めること。勿論、敬虔なクリスチャンである志摩子さんに口づけしようとしたことは、罪深い。間違いだったのだろう。だけど謝ってしまえば好きという気持ちすら否定してしまう気がして、私は素直にそれができない。
 
「バカだな、私……」
 
 今まで何度、自身を痛罵しただろう。志摩子さんにあんな悲しそうな顔をさせた自分が、どうしようもなく憎い。
 こんなにも好きだという気持ちを、伝えたかっただけ。こんなにも好きなのは私だけじゃないって、確かめたかっただけ。その結果がこれだ。
 
「ああ――」
 
 呟き、転がって仰向けになる。ぽっかりと宙を穿(うが)つように光る照明は、今は何の役にも立たない。ここに志摩子さんはいないのだ。私一人を照らして何になる。
 私は照明を消すとまたうつ伏せなって、枕を抱いた。
 心はカラカラに乾いて、亀裂が入ったまま。そこに風が吹いて悲鳴じみた音を立てるのを、私はただ聞いている。
 
(何だか、失恋したみたい……)
 
 生まれてこのかた明確な恋心を抱いたことがないから分からないが、多分失恋とはこんな気持ちなのだろう。私が志摩子さんに向ける好意は、同性故に恋とは呼べない。しかしその好意は、跳ね返されてしまったのだ。
 ただ、悲しい――。こんなにも打ちひしがれているのに、涙すらでない。
 思えば、はっきりと好きと言葉にすれば良かったのだ。二条乃梨子は本来、物事に怖気ずくタイプじゃない。それなのに臆病になってしまうのは、相手が志摩子さんだから。志摩子さんという存在は、どうしてこうも私の心を乱すのだろう。どうしてキスしようとするなんて、情動に駆られてしまうのだろう。
 
 好き。愛している。
 
 リリアンに入学したての頃は、伝統ある女子校の風習にクラクラしていた私が、今やこれだ。
 それでも、想いは止まらない。心に枷をつけることは出来ないように、抑制がきかない。私の心は、こんなにも志摩子さんに支配されている。
 
「会いたい……」
 
 でも、会いたくない。
 もう一度あの悲しそうな目をみたら、私はどうなるだろう。会ってかけるべき言葉を、私は持ち合わせていない。
 早く探しに行けと、思考が叱咤する。しかし反対に私の身体は重い。まるで暗闇と沈黙に、押し潰されているように。
 
 
 
 それから一時間もしただろうか。
 すーっと障子が開く音とともに、志摩子さんは帰ってきた。照明は落としたままだから、姿は見ていない。ただ、気配で分かった。
 
「……」
 
 顔はあげない。動きもしない。この闇の中で、そうすることは無意味だった。
 
「……風邪をひいてしまうわ」
 
 優しい声とともに、私の背に布団がかけられる。
 いつも私を温めてくれた、その声。なのにどうして、今はこんなにも寂しいのだろう。
 私は首筋を撫でる布団の冷たさに、身をすくめることしか出来なかった。
 
 

 
 
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