■ 春を待つ日
    - epilogue -
 
 
 
 
 日差しだけが温かい、四月になった。進級に伴って黄薔薇のつぼみから「黄薔薇さま」と呼ばれるようになった、初めての、ただ一度の春。
 まだ温かい紅茶からは、前髪を湿らすほどの湯気が立っている。そこで顎の近くまでカップを持ってきて、固まっていることに気が付いた。最近、こうして何かをしようとして途中で止まっていることが多くなっている。
 頬に手を当てて、泣いていないか確かめる。だけどそこに涙はない。夜が来るたび流した涙は、いつの間にか枯渇していた。
 
 あの日のことはなかったみたいに毎日は過ぎて、だけど何もかもが違っていた。きっと祐巳さんや令ちゃんは由乃が言う前から分かっていただろうし、だからこそ誰も祐麒とのことを話題にしなくなったのだろう。あのことを過去のことにするにはまだ早いから、その心遣いはありがたかった。
 
 ――周りを埋めていた全てが崩れ去って、まるで宙吊りにでもなっているみたいだ。
 
 どこかで読んだ小説の一説があまりにも自分にぴったりで、うっすらと笑ってしまう。漠然としか分かっていなかった喪失感、虚脱感というものが今はっきりとここにある。
 この感覚を自分なりに説明するなら、どうなるだろう。悔しさと悲しさのミックスジュースか、水を掻いても進まないクロールか。あまりにもセンスがなくて、考えるのを止めた。
 
「あれ、早いね」
 
 扉を開けたのは、『紅薔薇さま』だ。扉を開ける音でやっと人の存在に気が付くなんて、余程真剣にくだらないことを考えていたってことなのだろうか。
 
「うちの班は、掃除を当番制にしてるのよ」
「あ、それって聖さまと一緒だ。昔聖さまも、そんなことしてたよ」
 
 やっぱり三年生にもなると要領が違ってくるよね、なんて言いながら、祐巳さんは紅茶を入れる為に流しに向かって、そこでやっとポットが楕円テーブルの上にあることに気付いた。こういう所は、紅薔薇さまと呼ばれるようになっても、何も変わらない。
 
「それで、由乃さん」
 
 さっきの行動はなかったかのように、祐巳さんはカップに紅茶を注いでから言った。心なしか、目が輝いている。
 
「今日は菜々ちゃんに――」
「声はかけてないわよ。というか、最近見かけていないからそんな機会もないし」
「あら、そう」
 
 祐巳さんは急につまらなさそうに、キラキラした目を仕舞った。祐巳さんは最近、この手の話ばかりをする。
 
「お節介かも知れないけどさ、菜々ちゃん狙ってるんならもっと積極的になった方がいいよ。うかうかしてると、二年生に取られちゃうかも」
 
 まさか祐巳さんに『積極的になった方がいい』と言われる日がくるとは。それが何だか面白くて、由乃はくすくすと笑った。
 似たようなことは、祐巳さん以外からも言われる。そして由乃はその度に、こう言うしかない。
 
「今はその時じゃないのよ」
 
 言い直すなら、今はそんな気分じゃない、ってことだ。
 きっと祐巳さんは妹が出来れば、いくらかは心を埋めてくれると思って、しきりに菜々を話題にするのだろう。だけど今の由乃を見て、菜々は何て言うのか。きっと由乃はどの角度から見たって、面白くない人間だ。とてもじゃないけど、菜々じゃなくたって誰もついて来ないだろう。
 
「またそんなこと言っちゃって。由乃さんが要らないなら、私が貰っちゃおうかなぁ」
「何言ってるのよ、妹がいる身で」
「そう、だから孫に菜々ちゃんを貰おうかな。でも瞳子と菜々ちゃん、あんまり合わないかも」
 
 どうなんだろうね、と祐巳さんはカラカラ笑う。こうやって冗談でも言って気遣おうとするなんて、祐巳さんも器用になったものだと思う。
 まったく不甲斐ない話だけど、きっと今は時間が必要なんだと思う。徐々に思い出すのが減っているのが、何よりの証拠だ。
 
「はぁー」
 
 祐巳さんが大きく伸びをしたから、由乃も真似して伸びて見る。少し頭が冴えたような気分になって、心地よい。
 
「ねえ、由乃さん」
 
 祐巳さんは窓から零れる日差しに、目を細めながら言う。
 
「なに?」
 
 由乃は背中にその日差しを浴びながら、そう短く返す。
 
「すっかり春だねぇ」
 
 その何気ない言葉に、ふと心が揺さぶられる。出会いと別れの季節だ、なんて言葉を、思い出してしまったから。
 だけど同時に、分かりきっている事実がある。時が流れを止めないように、季節が巡らないこともまたない。
 
 心の雨は降り止まないけれど、まだまだ心は寒いままで、時々ちくりと痛いけれど。いつか雨は止み、春を通り過ぎて、痛みが和らぐ日が来るだろう。
 今はそれをただ待つだけでもいい。きっと今まで、走り過ぎていた。
 
 椅子にもたれて、差し込む日差しの中で瞳を閉じる。また頭の中で追いかけてくる、雨の足音を追い払うように。じっとずっと、春を待つように――。
 
 

 
 
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