■ 春を待つ日 九話『三月のレイニーブルー』 「……もう、別れよう」 由乃は一瞬何を言われたのか、分からなかった。その意味を噛み砕こうとして、だけどそれを頭が拒否している。 別れよう、――別れよう。頭の中を、何度も木霊しても、さっぱり意味が分からない。 「どうして、そう言うことになるのよ」 湧いて出てきた感情は、間違いなく怒りだった。理不尽な言動に対してなのか、浮気を肯定するような発言に対してなのか、はたまた絶望に染まりそうになる心を多い尽くす為なのか。いずれにせよ、祐麒の言葉は由乃の心のをかき乱すには十分だった。 「私より、乃梨子ちゃんの方がいいって言うの?」 訊きたくて、ずっと喉につかえていた言葉だったから、それはすんなり出てきた。 祐麒は、顔を歪める。 「それは違う、由乃の勘違いだ。あの日は偶然会って、立ち話してただけだよ」 「だったら! ……どう、して」 声が震えていた。浮気じゃないって分かったのに、ちっとも嬉しくない。 他の誰かに気持ちが移ったわけじゃないのに、別れようと言われた事実を確認するのは、余りにも怖かった。心臓の手術を受ける時よりも、ずっと。 「……ごめん。もう、疲れたんだよ、由乃に振り回されるの」 だけど事実は容赦なく突き刺さる。いつか、祐麒じゃない誰かにも言われた言葉。 きっと由乃は、あの時と同じ目をして祐麒を見ている。もしかしたら、もっと情けないかも知れない。心が、祐麒の存在に縋りつくのを感じた。 「何よ、それ……」 身体に空洞が空いたみたいだった。ぽっかりと空いたその穴に、今度こそ深い色の絶望が染み込んでくる。だんだん頭が、事実に追いついてくる。 違う、こんなの間違っている。聞きたかったのはそんな言葉じゃない。浮気なんてするわけないってきっぱり否定して、好きだよって抱き締めてくれれば、元通りになるはずだったのに。 「何よ、なんなのよそれっ。私のこと飽きたって言うの!? そんな簡単に気持ちが冷めたってこと? ちゃんと言ってよ、ねぇ!」 縋りつくような思いで、由乃は祐麒を掴んだ。そこでやっと、祐麒のしているマフラーが由乃のプレゼントした物だと気付いて、尚更どうしてという疑問が強くなる。 溢れ出した感情は痛みにも似て、留まることを知らない。由乃は自分の手が痛くなるぐらい強く、祐麒の巻いているマフラーを握り締めた。 「違う。ただ、考えてみてよ。バカみたいに疲れている時に、ただ誰かと話していただけであれやこれやと振り回されてさ」 祐麒は、由乃から目を逸らした。 「なんで、そんなことで……そういうこと言うのよ」 「そんなこと、って言うけどさ、それを『そんなこと』で片付けられなかったのは由乃の方だろ? この先ずっと由乃の顔色見ながら付き合って行くのかなって考えたらさ、……もう駄目だと思った」 「やめてよ。別れるなんて言わないでよ、私が、悪かったから……っ」 さっきまでの怒りはどこかに行って、気付いたら頬に涙が伝っていた。責めていた言葉は「ごめんなさい」の一言に変わって、祐麒の存在に縋っていた。 何もかもが裏目に出て、追い詰められた。駄目だと分かっていて直せなかった部分を、これでもかと突き付けられている。逃げ場も言い訳もなくて、後悔だけが背中に張り付いていた。 「……ごめん」 「私、祐麒が嫌なところは直すから、我慢だってするから……っ」 「我慢なんて由乃らしくないし、そうしなきゃ続けられない関係は俺が我慢しているのと変わらないよ」 「どうして、どうしてよっ。好きって言ってきたの、祐麒の方からじゃないっ。別れる、なんて……っ、言わないでよ。嘘って言ってよ!」 まるで世界と自分とを分断されたかのような孤独と、手のひらを零れ落ちていく空しさ、胸に響く鈍痛。余りにも純粋な、喪失感。 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ! 離れたくない、誰よりも一緒にいたい。そう願った、色んな覚悟もした、どんなに言葉にしても伝えきれないほど好きで、愛してると何度も囁き合った。守って欲しかったし、どんなことでもして上げたいと思っていたのに。 全部、全部が消えてしまう。過去になってしまう。他に代わりなんてない、唯一の人が由乃を置いて行ってしまう。 「……本当に、ごめん」 そう言って祐麒は、縋りついていた由乃の両肩を押した。開いた距離は三十センチかそこらで、そこには空気しかなくて、だけどどうしようもなく二人を別っていた。 祐麒も由乃も、口を閉ざして立ち尽くした。祐麒は由乃を見つめていたけど、その目を見たら抱き着いてしまいそうだったから、下を向いている。黙ってポロポロ泣いていれば何も言わず抱き締めてくれるような気がして、万に一つの可能性にすら縋っていた。 「……」 だけど、何も起こらなかった。踵を返す音が聞こえて、遠ざかっていく足音だけが、風の音を縫っていた。 待って――。そう叫びたいのに、嗚咽が邪魔をする。 由乃が泣き崩れても、その足は止まらなかった。やがて足音は消え、姿も見えなくなって。 思い出になっていく公園の中で、由乃はついに一人になった。きっと今までの、どんな時よりも。 真っ暗な空に星を探して歩いた日のことを、今でもよく覚えている。祐麒が由乃に告白した日も、初めてデートした日も、こんな風に空を見ながら帰路を辿っていた。 「はぁ……」 あの時は、こんな溜息なんかでなかったなと思って、思わず苦笑する。あの時はもっと気持ちが浮ついて、まるで空を歩いているような気分だった。 今はどうだ。あんな泣き顔を見て、気分なんていいはずもない。後悔はしてないつもりでも、本当にあれでよかったのかと問い質す心の声は尽きなかった。 だけど、由乃に言ったことは全て事実だ。自分でもこんなに早く限界がくるなんて思いもしなかったし、別れることを考え出すまで自分が我慢しているなんて分かってもいなかった。 本気で好きになれなかった、というわけじゃない。何もかもが愛らしく感じていたけれど、その時間が過ぎただけの話だった。互いの好意で盲目気味になっていた視界がようやく晴れたというか、俗に言う『恋の魔法』とやらが解けてしまったのだろう。そうして見えた世界は、やけに色褪せていた。 よかった思い出ばかりを反芻するようになった頃から、もう崩れ始めていたのだろう。些細なことが大きく感じられて、違和感ばかりが膨らんでいった。 『嘘って言ってよ!』 今でも頭の中を木霊する言葉は、その光景は、祐麒の心を締め上げた。泣き顔を見て、思い直したり抱き締めたりできなかった時、完全に終わってしまっていた。 どうして、こんなに。こんなに簡単に、終わってしまったのだろう。さっきから考えていることはずるずるとループして、考えるほど空しさが募っていく。 歩き慣れた家路はいつもよりも寂しげで、冷たい。家の明かりを認めても、何の感慨も浮かばない。嫌な疲労感だけが、身体から滲んでいた。 「あ、おかえりー」 玄関をくぐると、祐巳の明るい声が聞こえた。酷く後ろめたい気持ちになって、急いで二階に上がって自室に入った。 マフラーを外そうとして、そこが気が付く。少しでも昔の気持ちを思い出せたらと巻いたマフラーが、ほつれている。 『クリスマスプレゼント。自分で編んだから、出来はイマイチかもしれないけど』 はにかんでそう言った、由乃の顔を思い出す。実際に、そう時は経っていないけれど。 二人の恋愛というのは、このマフラーのようなものだったのかも知れない。拙いが故に温かくて、すぐにほつれる、この世にただ一つだけのマフラー。 その瞬間、溢れ出すように思い出が蘇った。モノクロの心に、突然に、鮮明に。 初めてのデートで遅刻した時ほど、焦ったことはあっただろうか。クリスマスに交わしたキスほど、幸せなことはあっただろうか。初めて身体を交わした時ほど、誰かを愛しいと思ったことがあっただろうか。 記憶の中の由乃は笑っていたり、怒っていたり、コロコロと表情を変える。そのどれもに幸せが詰まっていたことを今更実感して、自分から手放したクセに潰れそうなほどの喪失感が押し寄せた。 クリスマスプレゼントとしてこれを貰った時、どれだけ嬉しかったか、今でもはっきりと思い出せる。思い出して、嬉しかった分だけ、胸は締め付けられて苦しくなる。 ぽつんと一つ、ブラウンのマフラーに雫が落ちた。そうして祐麒は、やっと自分が泣いていることに気が付いた。 あれからどこをどう歩いてここにいるのか、よく分からない。あれから由乃は電車やバスにも乗らず、彷徨う様に歩き続けて、ようやっと知っている道に出た。 目を真っ赤にして歩いている由乃を、道行く人はどう思っただろう。誰の顔も見ないように歩いたからその反応は知らないし、ひょっとしたら誰も由乃のことなんて気にもかけなかったかも知れない。 日の落ちた三月の夜は冷たくて、叫び出したくなるほど、――辛い。泣き出すのを我慢するのも、限界が近いように思えた。 それでも、これ以上惨めにはなりたくなかった。こんな時でも強がることだけはできるんだと、それに少しだけ安心する。 涙のトリガーは既に引かれていて、たださっき泣き過ぎたせいで詰まってしまったのかも知れない。胸に何かつかえたような気分で、由乃は片手でコートの襟を締めた。 ――もう嫌だ。 今日あったことを、全て忘れたい。今日の始まりに戻って、祐麒に会わなければ答えは違っていただろうか。そんなことまで考える。 いつの間にか夜の帳は下りていて、暗い雲が月を隠した。風前の灯のように明滅を繰り返す街頭が、不安を煽る。 急ごう――。早く家に帰って、お風呂に入って、ベッドで少しだけ泣いて、明日になったらいつも通りに。いつも通りに、なれたらいい。 鼻をすすって歩き出すと、更に足元は暗くなる。いつもは祐麒が送ってくれていたな、なんて考え出すと、また泣いてしまいそうだった。 由乃を追いかけるように、暗い雲は広がっていく。そして気付いた時には、雨の足音が聞こえていた。 後ろから追いかけてくる音は、すぐに由乃を追い越した。夜が世界を包み込むように、雨もまた。 「あ――」 涙よりも冷たい雫が頬に落ちると、心の中で何かが途切れた。 「ああ、あぁ――」 雨の音しか聞こえなくなると、涙を繋ぎ止めるものが何もなくなった。膝から崩れて、気付けば声を上げて泣き出していた。さっきまでの我慢は、どこに行ったんだってぐらい、簡単に。 雨がこれほど優しいと思ったことはない。冷たく由乃を包み込むそれは、泣きたいと思っていた気持ちを汲んでくれたように思えた。 悲しい、悲しい、その感情の分だけ涙は流れて、体中の水分が無くなってしまうんじゃないかと思った。咽びが喉を削って、呼吸が苦しくなる。 ここで泣いていたって、もう誰も来ない。誰か通りかかったら、きっと変な子だって思われる。 そう思っても、凍りついたように身体は動かなかった。雨の冷たさが身体に染み込んで、体中の力を洗い落としていくみたいだった。 雨がやんだら、泣きやむことができるだろうか――。 涙に霞んだ視界には、やはり夜よりも重たそうな雲しか見えなかった。
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