■ 春を待つ日
    八話『昔の並木』
 
 
 
 
 約束の日曜日は、週間天気予報を大きくそれることなく、見事なまでの曇天だった。三月の空には重たい雲が鎮座して、しっかりと地上を冷やしている。
 待ち合わせの公園へ向かう足も、やっぱり重い。何時に待ち合わせ、とは決めてないから、いつ行ってもいいという事実が足を鈍らせる。だけどこんな寒空の下で待たせるのも可愛そうだなんて、そんな中途半端な気持ちのまま、今日と言う日は来てしまった。
 祐巳さんにああ言った手前、もう『逃げる』なんて選択肢は消えていた。あったとしても、選んだかどうかは分からないけれど。
 
(いた)
 
 一週間前と同じ場所、少し遅い時間。そこに祐麒の姿はあった。とにかくもう、悩んでも仕方がないし、言うこと、訊きたいことは決めてある。
 道行く人と同じ歩幅で祐麒に近づいて行くと、突然その目が由乃を捉えた。考え事をしてるみたいに真正面ばかりを見ていた顔が、本当に突然に。
 
「――由乃」
「え?」
 
 瞬間、祐麒が視界から消えて戸惑った。頬には髪の感覚と、いつもの香り。抱き締められていると気付くまで、二秒はかかった。
 
「来てくれないかと思った」
 
 言いたいこと、訊きたいこと、全部考えてあったのに、全部どこかへ飛んでいってしまう。無意識に腕を祐麒の背中に回して、全身で温もりを欲した。
 これは一体、どういう意味だろう。いい意味で取ってもいいのだろうか、どうなのか。じゃあ逆に悪い意味で、と考えても想像がつかないから、好意的に解釈してもいいのだろう。
 抱擁が解かれて、由乃は「だけど」と心の中で言う。だけどただ抱きしめるだけで、終わりにしようなんて思わない。祐麒だって、それはしないはずだ。
 
「私が逃げるようなこと、すると思った?」
「俺に呆れ果てていたなら、あるいは」
「あら、呆れられるようなことした自覚、あるんだ」
 
 由乃が突付くようにそう言うと、祐麒は苦く笑った。表情は複雑で、何がいいたいのかまでは分からない。
 
「行こうか」
 
 そう言って祐麒が歩き出したから、由乃は黙ってついて行く。まだ喋る気にならないなら、それでいい。何か考えがあってそうしているのだろうし、それならば尊重したい。
 だから由乃は、何も言わずに歩いた。後ろで組んだ両手には、気を向けないようにして。
 
 

 
 
 数分歩いて辿り着いたのは、見覚えのある映画館だった。基本的に映画を見に行こうと言ったらここ、という場所。ゆっくり話の出来る場所に移動するのかと思ったら、あまりにも想像を外れていた。
 何時に待ち合わせ、ということをしていたわけではないけど、由乃が来るのは少し遅かったのだろう。映画はもう始まっていて、前に座っている人たちの邪魔にならないよう、後ろの方の席に座った。
 映画はヒューマンドラマ。家族愛をテーマにした物語で、祐麒がこういう映画が好きなんて聞いたことはないし、勿論剣客物でもない。
 これにどんな意味があるのだろう。そう思って寝ないように頑張って観ていたけど、考えれば考えるほど解らなくなった。映画の中には浮気とか嫉妬とか、そもそも恋愛自体に対してほとんど描かれていなかったし、気付いたら終わっていた、と言う感想だ。これが今でなければ、普通に楽しめたのにな、と思う。
 
「次はどこに行こうか」
 
 映画館を出て、祐麒は屈託無くそう言った。またも予想とは違った展開。何か考えがあって、今日会いたいと言ったのではなかったのか。
 
「とりあえず、ご飯食べたいんだけど」
「ああ、そう言えば」
 
 時刻は昼食時、という時間をとっくに過ぎていた。祐麒は空腹にも気付かないぐらい、映画に夢中だったのか、それとも考えごとでもしていたのか。
 それから祐麒とご飯を食べて、その間に「前行きたいって言っていた水族館に行こう」と言って、その後実際に行って観てまわって。腫れ物を扱うように、避けなければいけない話題はあったけれど、後はいつも通りだったように思えた。
 
「あの魚、誰だっけ、この前観た番組の司会をやっている人に似てる」
「ああ、K1とかのゲストによく出てくる人?」
「そうそう、それだよ」
 
 行き先は、ただ漠然と。
 何も進んでいないような空虚な感覚と、いつも通りの安心感。その中を規則正しく過ぎていく時間だけが、蝕むように由乃を急かした。
 まさか、ただ普通にデートして終わらせるつもりじゃないだろうか。これではい元通りだなんて思われていたら、安く見られたものである。
 いつも通り、いつも通り。それを繰り返して重ね合わせて、またそうでないものを見つけてしまう。一緒にいればいるほど遠くに感じてしまうこの感覚は、前に会った時と良く似ていた。
 
「帰ろうか」
 
 何となく集合場所だったK駅の方まで戻って、祐麒はそう言った。ちょうど待ち合わせに使っていた公園をぶらぶらしていた時だった。
 もう、訳が分からない。もしも浮気が本当だったとして、祐麒はそれについて何も言わない、謝ったりもしない。もしも浮気はなかったとしても、今日会った瞬間に抱きしめる意味が分からなければ、今の今まで何も言わない意味も分からない。
 
「祐麒」
 
 夕日で朱色に染められた目で、祐麒は由乃を真っ直ぐに見詰める。
 もう、止めようと思った。埒が明かない。言いたいことずっと黙っているなんて、由乃らしくなかった。
 
「言わなきゃいけないこと、あるんじゃないの」
「――分かってるさ」
 
 祐麒は由乃から視線を外して、だけどはっきりと言った。歩みはまだ、止めない。
 由乃は祐麒の視線を追って、真っ直ぐと前を見た。その瞬間、既視感と郷愁を混ぜたような、奇妙な感覚に包まれる。
 ――ここは、知っている。
 いや、知っているどころじゃない。K駅の近くにあるこの都立公園は、何かと待ち合わせ場所に使われることが多かった。だけど都立公園は広い。この場所、この道には、まだ一度しか訪れていないのだ。
 思い出していく度、今日の出来事が繋がっていく。あの映画館は、祐麒との初めてのデートで行った、試写会のあった場所。お昼ご飯を食べたカフェは、その後に立ち寄った店。そしてこの場所は、初めてキス――をしたと見せかけた、遊歩道。
 
「由乃」
 
 重たい唇が、やっと開いた。
 遊歩道の脇の木々には、もう緑と紅葉の混じった葉はない――。
 
 

 
 
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