■ 春を待つ日
    七話『望む決心』
 
 
 
 
 月曜日の放課後、祐巳は思い切って言った。
 
「一体、どうしたの」
 
 何の説明もなしにそれはないよな、なんて思いながらも、一度出した言葉は引っ込まない。それぐらい祐巳の言葉は、長い沈黙の後に、あまりにも唐突だった。
 
「どうしたの?」
 
 それに振り返った由乃さんは、怪訝そうな顔をして祐巳を見たから、なんだか怖気づいてしまう。わざとゆっくりと歩いたせいで、白薔薇姉妹とは距離があいている、そんな薄暗い帰り道。
 
「えっと、今からお節介焼いていい?」
「は? 何それ?」
「えっと、だから、あんまり無闇に口を出すのもどうかと思って」
「……そんなの、今更よ。何を言うか大体分かってるけど、煮るなり焼くなり好きにしたら」
 
 どうやら、祐巳の言いたいことを理解してくれたらしい。そう言う由乃さんの口調はあまりにも否定的だったから、それが強がりだって分かる。だからと言ってここで祐巳が言いたいことを引っ込めたら、それこそ不快さを増すだけだろう。
 前を行く志摩子さんと乃梨子ちゃんが校門に消えた後、祐巳は歩みを止めた。半歩前に行っていた由乃さんが振り返って、自然と対峙するような格好になる。
 
「前、こんなことがあったんだ」
 
 うん、と真剣に応える由乃さんを前に、祐巳は「慎重にしゃべらなきゃな」なんて緊張感を覚えた。
 
「家で祐麒と、由乃さんの話をする時ね――ああ、これは大体私が話を振って、っていう感じなんだけど、祐麒は『由乃』って呼び捨てにするじゃない?」
「……うん」
「だから私、それを冷やかしたことがあったんだ。そしたら祐麒、意固地になっちゃって、家では『由乃さん』って言うようになった。ただ不意を突かれた時だけ、というか、気持ちに余裕のない時はうっかり『由乃』って呼び捨てにしてた」
 
 由乃さんは黙って祐巳の話を聞いていた。何が言いたいのか、さっぱり分からないって顔で。
 
「それが昨日、帰ってくるなり『由乃の行きそうな場所に、何か心当たりはある?』って言うんだもん。何かあったって思うのは、当然だよね」
「……そう」
 
 由乃さんは「あーあ」って顔で、そう呟いた。大きく伸びをする腕が、「もういいや」って言っているような気がした。
 
「何か、あったの?」
「なかったって言えば、嘘になる」
「……訊いてもいい?」
「それは祐巳さんに言いたいわよ。本当に」
 
 伸ばしていた手がバッと下ろされると、由乃さんは投げやりにそう言った。最後の言葉、さっぱり意味が分からない。つまり深入りする覚悟があるのか、ってことなのだろうか。
 もしそうなら、もう遅いだろう。必然的に祐巳は二人に最も近くて、最も二人の幸せを願っている。覚悟とかどうとかは分からないけど、どんなことでも協力はしたい。由乃さんから話を訊いて、それで二人の仲が悪くなるなんてこと、まずないはずだ。
 
「私は、由乃さんが話してくれるなら聞きたいし、相談にのりたい」
「……そう言うと思ってた」
 
 じゃあ言うけど、と由乃さんは続ける。
 
「私ね、デートの途中で帰っちゃったんだ。祐麒と一緒にいるのが嫌になっちゃって、走って逃げちゃった」
「え……っと」
「何でかって言うとね、一緒にいると自分が惨めに思えてくるからよ。祐麒が浮気してるんじゃないかって、疑う自分が嫌で嫌で仕方がなかった」
 
 え、と祐巳は硬直した。祐麒が浮気、って言葉があまりにもショックで、でも心当たりみたいなのはあって、でも由乃さんはそれを知らないはずで。
 
「先々週に撮られたっていう『あの写真』には、祐麒と誰が写っていたの?」
 
 ――チェックメイト。というか、もう祐巳の負け。いや、勝負をしていたわけじゃないけど。
 由乃さんは、祐巳と真美さんの密談の内容を知っている。でも多分、写真は見ていない。じゃなかったら、「一緒に写っていたのは誰」なんて訊かないはずだ。
 
「……聞いてたんだ」
「後悔したけどね。でも遅かれ早かれこういうことになるんじゃないのかな、って」
 
 バツが悪いって、まさにこのことを言うのだろう。親友に隠しごとってだけで十分後ろめたいのに、内容があれなんだから。
 こういう時、祥子さまはどうするんだろうなって考える。そもそも密談を聞かれるなんて失態はしないのかも知れないけど、祥子さまならこの場をどうまとめるか、教えて欲しかった。
 
「言ってよ。疑心暗鬼って、凄く怖いの」
 
 由乃さんの一言にはっとした。今は心の中でお姉さまにすがっている場合じゃない、由乃さんのことを考える時なのだ。
 じゃあ祐巳が由乃さんになったとしたらどうだろう。凄く好きな男の子がいて――という状況がまず思い浮かべられないけど、この際お姉さまを仮定しよう。その人が誰かと特別に近しくしていて、それが誰か分からない。――それって、多分想像以上に、不安だ。
 
「聞いても何もしないって、約束できる?」
「祐巳さん、私を見くびってるの? 私はそこまで落ちてないわ」
 
 由乃さんが毅然とそう言ったので、その言葉を信じることにした。そうじゃないと、また親友に隠しごとを作ることになる。それはなんだかもう、嫌だと思った。
 
「――乃梨子ちゃん」
「……そう」
 
 そう言って、自然に校門に視線が行った。そこに消えた二人は、もうバス停について、祐巳たちがいないことを訝しがっていることかも知れない。
 
「でも、そうって決まったわけじゃないし」
「ううん、ほとんど決まっちゃったんだ。私が『誰と一緒にいたの』って直接祐麒に訊いた時、マズいって顔してたもの。それから帰ったら、留守番電話のメッセージで『来週また会おう』だって。何かもう、ばっかみたい」
「だからって、それだけで決め付けるのは早いよ」
「でも、やましいことがなかったらそんな顔しないでしょ?」
 
 由乃さんの、強い口調に反して悲しそうな表情に、祐巳は何も言えなくなった。
 きっと昨日、ずっと泣いていたはずで、でも祐巳はそれに気付けなくて。由乃さんじゃない、祐麒を見てでしか二人の異常に気が付けなかった。なんだかそれが悔しい。もし由乃さんの言う通りだったとしたら、そっちの方がだけど。
 
「……私、乃梨子ちゃんに直接訊いてくる」
「やめなさいよ。私と祐麒が付き合っているのを知っているのに、『はい仲良くしてますよ』なんて言うはずないじゃない」
 
 それは、ごもっとも。でも信じたくはない。乃梨子ちゃんは平気な顔して人の幸せを切り裂くような子じゃないはず。志摩子さんさえいれば、真っ白な笑顔を浮かべる、真っ直ぐで心の綺麗な子なのだ。
 
「やっぱり私、信じられないよ」
「……何が?」
「祐麒も乃梨子ちゃんも、そんなことするような人間じゃない。絶対、絶対何かの手違いと勘違いが混ざってるんだよ。それにそんな後ろ向きな考え方、由乃さんらしくない」
「らしくない?」
 
 訊き返した由乃さんに、そうだよ、と言い切った。こんな由乃さん、祐巳の知っている由乃さんじゃない。
 
「だってそうじゃない。いつも前向き、前しか見ないで突っ走って行くのに、今は後ろに向いてトボトボ歩いてる。そんなの全然、由乃さんらしくないよ」
「でも、そう考えるのが普通じゃない。一体どうしろって言うのよ」
「祐麒のこと、信じてないの? 来週会おうって言ってきたの、きちんと申し開きたいからじゃないの? そうじゃないなら、もし浮気してるのなら、もう会おうとしないんじゃないかな」
「きっと違うわ。律儀な祐麒のことだから、会って直接言いたいのよ。どんな言い訳するのか、それとも事実を坦々と述べるのか、想像もつかないけど」
「――安心した」
「は……?」
 
 祐巳の一言に、由乃さんはあんぐりと口を開いた。一体何を言っているのか分からない。さっき祐巳が唐突に「どうしたの」って言った時のような顔だった。
 
「それだけ信用してるなら、まだ大丈夫だよ」
「あのさ、それ全然大丈夫じゃない、っていうか、言っている意味が分からないんだけど」
 
 はぁ、と白い息を吐いて、由乃さんは解せないという表情をした。確かに、無理のない話かも知れないけれど。
 
「大事なのは、信じることだよ。ね」
「……よく無責任にそんなこと言えるわね」
「無責任じゃないよ。祐麒は私の弟だもの」
 
 だから、というわけじゃないけれど、信じて欲しかった。祐巳は由乃さんと同じような立場になった時、それが出来なかったけど。でもそれで二人の間に亀裂ができるようなこと、あってはならないことだと思った。
 
「会うよね? 来週」
 
 祐巳が顔を覗き込んで言うと、由乃さんは無言で歩き出した。ねえ、と後ろから声を掛けながら、祐巳もその後を追う。
 校門を抜けると、バス停に白薔薇姉妹の後ろ姿があった。乃梨子ちゃんはとても楽しそうに、幸せそうに志摩子さんと歓談している。
 
「会うわよ、ちゃんと」
 
 由乃さんはバス停にいる二人よりもずっと遠くを見ながら、確かにそう言った。
 
 

 
 
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