■ 春を待つ日 六話『違う展開』 その日を待ちわびていてもそうでなくても、時間は誰にでも平等に流れ、必ずその日はやってくる。 日曜日、天気は快晴。 今日まで曇りと雨を繰り返していた天気も、ようやく元気を取り戻してくれた。滅入りっぱなしだった気分も、単純なことにいくらかマシになっている。 というか、何故気が滅入る必要があったのだろう。いつも会う前は、鼻歌が飛び出すぐらいウキウキして、誰かしらに冷やかされるぐらいだったのに。 どうしたらこのしがらみから抜け出せるのだろうと考えて、考えれば考えるほど悪いことばかり考えて、結局最後は自分に都合のいい答えだけ取って。そのクセ気分が優れなかったのは、きっといつも不安だったからだ。 「由乃」 名前を呼ばれた瞬間、何かが背中を走った。初めて味わう感覚に、僅かな戸惑いを覚える。 振り返れば、祐麒が軽く手を上げてこちらに歩いてくるところだった。見慣れた姿、だからこそ、何だかいつもと違うと感じる。見れば祐麒の目の下には、クッキリと隈が出来ていた。 「祐麒――」 自然と手が祐麒の頬に当てられて、人差し指の腹で目じりに触れた。自分でも驚くぐらい自然に、まるで涙を拭うみたいに。 「な、何?」 由乃がいきなりそんなことをするものだから、祐麒は少し後退った。その何でもない反応に、一瞬だけ心が締められた気がした。 「目に、隈ができてる」 「え? ああ、これ」 自分でも分かっていたのか、祐麒は空いている方の目の下をなぞると、力なく笑う。 「昨日、三年生を送る会の打ち上げでさ。泊まり込みだったんだ」 由乃は「ふーん」と答えながらも、複雑な心持ちだった。普通、デートの前日にそんなことするか、とか、でもちゃんと遅れずに来たのは偉い、とか。 すっと祐麒の頬に当てていた手を下ろすと、そっとその手に由乃の手を滑り込ませた。祐麒がいつものようにその手を握り返してきて、待ち合わせしていた広場を出ようと歩き出す。 「えへへ」 ああ、そうだ、これだ。由乃が忘れていた、ずっと恋しかった感覚。温かくて、心の中で膨らんだ風船が空の彼方へ飛んでいくような幸福感。 ついでに反対の手で祐麒の腕に抱き突いて寄りかかると、「どうしたんだよ」と言って祐麒も笑う。 大丈夫、元通り。 それを言ったら、何が元に戻ったのか、私たちは変わってしまっていたのか、って話だけれど。 いきつけの喫茶店は今日も込み過ぎず空きすぎず、そこそこの人入りだったけどうるさいという訳でもない。最も人がたくさん居た所で、シックなこのお店の中で騒ごうなんて人、滅多にいないだろうけど。 由乃は届いたばかりの紅茶の湯気を軽く吹き飛ばしながら、店内をぼんやりと見ていた。名前も知らないジャズの名手たちがかつて奏でた音楽が、シーリングファンにかき回される。 今日は、特に予定を決めていない。最初の頃はどこに行こうとか事前に決めて出かけていたけど、近頃はそういうことをしなくなった。だってアミューズメントセンターやショッピングに行く為に祐麒を会っているんじゃなくて、祐麒と会う為に外に出ているのだ。目的地なんてなくてもいい。 「ふぁ……」 祐麒はコーヒーに砂糖を入れてかき混ぜた後、口に手を当てた。 (八回目) 何を数えているんだと思いつつも、心の中でそうつぶやいてしまう。だってやたらと、欠伸の回数が多いのだ。 遊び疲れた状態でデートに来る彼氏、ってどうなんだろう。ついついそんな考えだって浮かんでくる。 我ながら心が狭い、とは思うけど、そう考えてしまうのはどうやったって防げない。不意に出た一言がその人の人間性を語るように、自然と考えてしまうことこそが自分にとっての真実なのだ。 「そんなに眠い?」 ごしごしと大きな猫みたいに目を擦るもんだから、思わずそう訊いてしまった。むしろ訊けとばかりに、連発するから。 「そりゃね、前からちょっと寝不足だったし」 こんな時、素直に労いの言葉が出てきたら、どれだけいいことだろう。きっと大抵の人が思い描くような、『いい彼女』で居られるんだろう。 だけどこうして何か不服を感じると、つい令ちゃんと比べてしまう。令ちゃんだったら、祐麒と同じ状況だったらどうするだろう。祐麒は令ちゃんみたいに、何でも由乃を優先にしてくれないのかな、なんて。もうこれじゃ、テレビに出てくるような、典型的な自己中心女だ。 「じゃあ、もう帰る?」 「……え?」 言った後、「何を言ってるんだ」って自戒する。今言うべき言葉は「お疲れ様」だってこと、分かっているのに。 「まあ、DVDとか借りて行って観るのも悪くないけど、前もそれだったし」 「そうじゃなくて」 そう言って由乃は、やっと自分が言いたいことが分かった。自分が今どう言う状況なのか、どうしたいのか、パッと明かりに照らされたみたいに。 あれだけ会いたがっていたのに直前で怖気づいて、会ってみていつも通りだと安心して、でも今は一緒にいたくないなんて考えてしまっている。一緒にいると、どんどん自分の考えの未熟さやズルさ、不安ばっかりが見えてくる。 つまり由乃は、今この上なく、この状況から逃げ出したい、――と思っているのだ。 「……ごめん、私、帰るね」 引き止めて欲しい。けど、引き止めて欲しくもない。飲みかけの紅茶をそのままに、席を立った。 逃げるのは、好きじゃない。だけど今自分の中にある感情が、ただただ怖かった。大切な物が抜け落ちていく錯覚は、不安を閉じ込めていた扉を開けていく。 「ちょっと、由乃」 何やってるんだろう、本当に。負の感情とか思考って、不意に降ってくるから怖い。それで失うものがあるとすれば、それが大きすぎるから、尚。 祐麒の声を振り切って、店を出る。その三十秒後、遠くで同じ扉を開けるベルの音が聞こえた気がした。耳を塞いで、大股になって、待ち合わせに使っていた公園の広場を横切って行く。 「由乃!」 急に近くで声が聞こえて、腕を掴まれる。振り返りたくなかったけど、無理に身体を回転させられて、祐麒と向き会う格好になる。 不意に現れた瞳には、泣きそうな由乃の顔が映っていた。ああ――なんて顔してるんだろう。 「どうしたんだよ、いきなり」 「だって祐麒疲れてるから、家でゆっくりしていた方がいいかなって」 「そんな顔して、嘘つくなよ」 いわゆる『いい彼女』を装った浅はかな嘘は、すぐに見破られる。ビルの間を吹き抜けて行く風は、公園の寂しい木々で音を立てている。 「どうしたのか、ちゃんと言ってよ。それじゃ全然分からない」 「だって」 言えるわけがないじゃないか、こんなバカみたいな不安。こんなちっぽけな自分を、晒すようなこと。 「由乃!」 振り切って走り出そうとした由乃を掴んで、祐麒が叫んだ。一瞬道行く人の視線を集めて、みんなそわそわと通り過ぎて行く。 じっと祐麒は見つめてくる。泣きそうだった瞳の中の顔は、今は諦めに似た表情をしていた。 「聞いたって、いいことにはならない」 「でも放って置けば、悪い方向にしか転ばないんじゃないの?」 祐麒の言うことはもっともだった。由乃は私は逃げようとしているだけで、決して事態をよくするような行動なんかじゃない。 どこまで自分は身勝手なんだと、そう思った。分かって欲しいのに、嫌な部分は見せたくない、知って欲しくない。自分の行動は、まるで矛盾している。 「……由乃」 「じゃあ言うけど、心当たりはないの」 え、と固まった祐麒の瞳に、「胸に手を当てて聞いてみて」と言った。――この反応は、由乃の杞憂は杞憂じゃなかった、ということなのだろうか。 「先々週の金曜日」 「――あ」 やっと祐麒の硬直が解けて、間の抜けた声を出す。次の瞬間、「マズい」とでも言いたげな顔になって、由乃は確信した。現実がナイフみたいに突き刺さって、心を覆いたくなるような痛みが走る。 ――やっぱり、そうだったんだ。 小さく、小さく呟いた。祐麒の瞳が、真剣さを増した。 「聞いて、由乃。あれは――」 祐麒が言い終わる前に、耳を塞いで走り出した。言い訳を聞いたって、惨めになるだけで気休めにもならない。 「由乃――!」 遠くに聞こえる叫び声を、頭の中から消していく。わざと人ゴミの中に入って姿をくらませて、細い路地を闇雲に走った。 高鳴る心臓は、こんなことの為に治したんじゃないのに――。 涙が伝った頬を拭って、それでも走り続けた。声が聞こえなくなるまで、そうやって由乃は、祐麒から逃げ出した。 由乃が帰宅したのは、午後八時を少し越えたあたりだった。両親には晩御飯は食べてくると言ってあるし、何より真っ赤な目をして帰るわけにはいかなかった。 だけど予想に反して、島津の家には誰もいなかった。たまには夫婦水入らずで、と外食にでも行ったのだろうか。真っ暗な家の中に見えたのは、ぼんやりと光る電話の留守電メッセージ再生ボタンだった。 『……』 電話は一時間置きに、五件あった。どれも違った電話番号から、「メッセージをどうぞ」の後、少しして受話器が置かれる音がした。 「……っ!」 全部のメッセージを聞き終わった瞬間に電話が鳴り出して、思わず身を竦めた。やはり知らない電話番号からの着信。取るか、取らないか。迷っているその間に留守番電話に切り替わる。 『……次の日曜日』 今度は、沈黙の後に受話器を置かれる音はなかった。由乃がそこにいるのが分かっているように、聞きなれた声は語りかける。 『今日と同じ公園で待ってる。雨でも雪でも』 そして優しく受話器が置かれる音がして、電話は切れた。
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