■ 春を待つ日
    五話『疑う無駄』
 
 
 
 
『終わったなー』
 
 祐麒がベッドに身体を投げ出すと、ふと体育館での小林の声がよみがえる。三月の頭、ようやく三年生を送る会は終わった。前日夜の九時までかけて、ようやく準備が終わった送る会は、大成功だったと言っていいと思う。
 本当にもう、こんなにこだわってどうするんだというぐらい必死だった。卒業していく先輩たちを気持ちよく送り出したいという気持ちは勿論あったけど、どちらかと言えば意地でここまで仕上げたのだから、理由としては不純かも知れない。それでも結果オーライになったのだったら、別に悪いことでもないだろう。
 
「終わったー」
 
 自信作であるくす玉が割れて、同じ顔をして驚く日光月光先輩たちが、今でも目に浮かぶ。その後ちょっと涙ぐんでいたのを、祐麒は見逃さなかった。
 ベッドの上で思いっきり伸びをして、天井を見ながら今日は早く寝ようと思った。身体の調子はと言えば、『疲労困憊』の四文字が相応しい。
 
「祐麒ー」
 
 と、目を閉じた瞬間、部屋の扉を叩かれた。言いようもない倦怠感が、ぐるりと身体を動き回ったような気がした。
 祐巳は返事を少し待ってから、「返事ぐらいしなさいよ」と言いながら部屋に入ってきた。パジャマ姿のその片手には、電話の子機。何度となく見た光景だった。
 
「はい」
「誰から?」
「聞かなくても分かるでしょ」
 
 それはどもっとも、と祐麒は子機を受け取った。保留のボタンが、薄桃色に光っている。
 
「電話、久しぶりなんじゃない?」
「……ほっとけよ」
 
 ぶっきらぼうに言ってから、保留のボタンを押して受話器を耳に押し付けた。祐巳は「照れちゃって」なんて言いながら、そそくさと部屋を出て行った。
 
『起きてた?』
 
 久しぶりに聞いた声は、何だかいつもとトーンが違う気がした。時計の短針は、九の数字を少し越えたところにある。
 
「流石にこの時間じゃ、まだ起きてるよ」
『でも今日は、そっちでも三年生を送る会だったんでしょ? 疲れてるんじゃないかと思って』
 
 ご名答、と祐麒は心の中で呟いた。だけどここで「うん」と言ってしまったらすぐ電話を切ってしまうだろうから、言わない。
 
「そっちでも、ってことは、リリアンもそうだったの?」
『うん、前言わなかったっけ?』
「うーん、どうだったかな」
 
 正直、前に話していたことは眠たかったこともあって、話半分に聞いていてよく思い出せなかった。当たり前だけど、そんなことは言えない――って、さっきから言えないことばかりだなと、自分の行動の軽率さに呆れてしまう。
 
『……まあいいや。次の日曜日は、十時集合のままでいいのよね?』
「え、あ、うん」
 
 そう言えば、次の日曜日は久しぶりに会う約束があった。これだけ会わなかったのは初めてだから、妙な気分だった。寂しいのか、嬉しいのか、それともまた別の感情なのか。
 
(あ――)
 
 そこで、ふと気付く。日曜日は確か、送る会の打ち上げで午後から集まる予定だった。由乃との約束の方がずっと早くから入っていたのに、それを忘れて別の予定を入れているなんて、どうかしている。
 
『……ねえ』
 
 由乃は一呼吸の沈黙を置いて、改まったように言う。祐麒の動揺には、少しも気付かないままに。
 
 

 
 
「土曜日も、午後から会えない?」
 
 由乃は少し五月蝿くなった心臓を押さえながら、何故か慎重にそう言葉にした。祐麒相手に、どうしてこんなに緊張しているのか。
 
『うーん……』
 
 最近の祐麒は、「え」とか「うーん」が多い。そして、それは今日も。
 
『ごめん、次は卒業式の準備があって』
「あ……そっか」
 
 その言葉を聞いて、ずどんと心が重くなるのを感じた。考えて見れば由乃だってそのはずなのに衝動でそんなことを訊いてしまって、でも祐麒はちゃんと自分のするべきことを把握している。その事実が、重い。
 何となく言葉を失ってしまって、由乃はぼんやり窓の外を見た。まだ冷たい空の下、祐麒のことが好きだって自分の気持ちに気付いたのもちょうどこんな寒さの時期で、何故だか随分遠くに感じてしまう。
 
「じゃあいいんだ」
 
 不自然な沈黙の後、由乃は苦し紛れに言った。そう、仕方ない。ちゃんと日曜日には会えるんだし、我慢ならもう覚えたはず。はずだけど――僅かな不満が、塵のように積もるのも、また事実。
 でもきっと、会えば吹き飛んでしまうんだろう。祐麒が由乃が知らないうちに誰かと会っているなんて不安だって、きっと顔を見れば嘘なんだって信じられる。
 
『由乃……?』
 
 ふと黙ってしまった由乃を、祐麒が呼んだ。はっとするぐらい、優しい声で。
 
『ひょっとして、疲れてる? 今日は何だか、声色が違う』
「ううん、そんなんじゃなくて」
 
 ちょっと緊張していたから、なんて言えるだろうか。そりゃ身体のどこかに疲れは溜まっているのだろうけど、他の誰かに気取られるほど参ってはいないつもりだ。
 それでも少しの変化に気付いて貰えた事が嬉しくて、言い当てられなかったことが少しだけ残念だった。お互いがお互いのことを全部分かっているはずがないなんて頭では分かっていても、少しのすれ違いが大きく感じてしまうのは、多分仕方ないのだろう。それだけ本気で考えてるってことなのだから。
 
『そんなんじゃなくて?』
 
 反問する祐麒に、上手い言い逃れを思いつけない。
 それはそうだろうな、と思う。今まで祐麒に嘘を言ったり言い逃れしたりなんかしなかったのだから。
 
「……ううん、やっぱり疲れてるのかも。自分じゃ気付かなかったけど」
『そっか……じゃあ今日は早く寝た方がいいんじゃない?』
 
 祐麒の細かな気遣いが、ちくりと胸に刺さる。何となく、話してるのが疲れるのかなとか、早く切りたいのかなとか思ってしまう。
 逆の立場だったら自分だってそう言っただろうに、それでも何だか納得できない。ただもっと話していたいなって気持ちを、分かって欲しいだけなのに。
 
「うん、……そうかも知れない」
 
 けど、駄目だと思った。これ以上話をしていたら、どんどん考えることが増えていって、頭がパンクしてしまいそう。
 
「……もう寝るね。日曜日、楽しみにしてるから」
『うん、おやすみ。ゆっくり休んで。俺も日曜日楽しみにしてる』
「ん、おやすみ」
 
 本当にそう思っている? そう訊きたい口を閉じて、由乃は受話器の切ボタンを押した。
 まったく、どうして。どんどんと疑心暗鬼の深みにはまっていく自分が情けない。人を信じることって、こんなに難しいことだっただろうか。
 
「日曜日、か……」
 
 まだ高鳴っている心臓の音は、自分を追い立てる不気味な靴音のように、由乃の中を響いている。
 
 

 
 
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