■ 春を待つ日 四話『風の噂話』 三年生を送る会を目前に控えた、月曜日。一限目の数学が終わって、やれ次の授業の用意、と言うところでトントンと肩を叩かれた。 「祐巳さん」 振り返れば、山口真美さんが何やらむず痒そうな表情で立っていた。実際にどこかが痒い、というわけでもなさそうだけれど。 「ちょっといいかしら」 「え、……うん」 そう言って立ち上がった祐巳に、付け足すように「次の授業の用意の手伝いを頼まれちゃって」と言った。なるほど確かに真美さんは今日日直だったけれど、何かここでは話しにくいことがあるのは分かった。 無言で教室を出て行くとき、真美さんはしきりに周りを気にしていた。つまりは、そういうことなんだろう。 「祐巳さんにこういう事を話すのも、憚られるのだけど」 真美さんは非常階段に出て扉を締めたところで、そう切り出した。コンクリートの手摺の向こうに、体育の授業の準備をする生徒たちが見える。 ふぅ、と息を一つ吐いた後で、真美さんは制服のポケットを漁った。 「これ。見てちょうだい」 そう言って出されたのは数枚の写真。その中には祐麒と、乃梨子ちゃんが写っていた。 「祐麒と……って、何、これ」 回りの状況から見るに、M駅の駅ビルの中にあるブックセンターだろう。二人はそこに入るでもなく、話をしているようだった。写真を繰ると、笑い合っている二人がアップで写っている。 「先週の金曜日、十八時四十一分、M駅の駅ビル内、某ブックセンター前」 「……だから」 「目撃した部員によると、二人は仲がよさそうに話し込んでいた、と。そして一緒に階下へと降りていった。それだけの話なんだけどね」 「じゃあ、偶然会って少し話して、帰っていった。それだけでしょ?」 「だったら祐麒さんは、ブックセンターの中に入って行くんじゃない? けれど彼はわざわざブックセンターに来たのにそこには入らず、ただ談笑してその場を後にした。一時の逢瀬……って決め付けるには、まだまだ情報が足りないんだけど」 真美さんはそう言って祐巳から写真を取ると、まとめてやぶいてしまった。ビリリ、と派手な音がして、半分になった写真はまた制服の中に隠れた。 「いいの? それっていわゆる、スクープ写真ってやつじゃ――」 「止めてよ。私は誰かと誰かがくっついたって記事なら喜んで書くけどね、破局に追いやるような記事は書かないわ。記者以前に、人間として終わっていたらそれまでじゃない」 少し怒った風に真美さんは言って、また一つ溜息。今日は本当に、溜息が多い。 「どうして私にその写真を見せようと思ったの?」 「こう言ったら凄く卑怯なんだけど、私だけで扱うには困るネタなのよね。祐巳さんはおそらく一番最初からあの二人のことを知っていただろうし、どちらのフォローも出来る。だから、祐巳さんには知っておいてもらおうと思ったのよ」 いきなりドカーンじゃ、祐巳さんも対応できないでしょ? 真美さんはそう言って、疲れたとでも言うように苦笑した。なるほど、ここにきて話が掴めて来た。 「ごめんなさいね、背負い込ませるっていうか、巻き込むような真似して」 「ううん、そうしてくれた方がいいよ。真美さんの判断、間違ってないよ」 確かに真美さんが言うとおり、万が一のことがあってから知ったのでは、祐巳だって上手くフォローできないだろう。勿論万が一のことなんて、起こるわけないと思っているけど。 「でもこれだけは言わせて。身内賛歌になっちゃうけど、祐麒は浮気なんかする男の子じゃないよ」 「分かってる。私だってそう思ってる。だから杞憂で終わる件だと思ってるわ」 このぐらいにしましょうか、と真美さんは腕時計を見ながら言った。気づけば後一分で、休憩時間は終わる。 真美さんは、非常階段の扉を開けながら言った。 「分かってると思うけど、この件は内密に」 「当たり前だけど、特に由乃さんにはね」 由乃は腕を組んだまま、もう遅いんだってば、と小声で突っ込んだ。寄りかかった非常階段の扉は、背中を白く汚しているかも知れないけど、身体を起こす気にもなれなかった。 真美さんが祐巳さんを連れ出したから何かあるなと思って来て見ればこれだ。二人とも、一つ下の階で聞き耳を立てている噂の本人がいるとは、露いささかも思わないだろう。 「はぁ……」 悪い予感は当たるものだ。聞かなくていいことを聞いてしまったのか、それともこれは何かの布石なのか。なんて妙に客観的に考えているところが、冷静じゃない証拠かも知れない。 二人の会話から読み取れるものは少ないけれど、決定的なもの。祐麒は先週の金曜日の十八時四十一分に、浮気と取れるような人と会っていた。そして私はその時間に、祐麒の家に電話かけていた、ってことだ。 相手は誰なんだろう。祐巳さんが知っている相手ということはおそらくリリアンの生徒で、そう考えると生徒会の付き合いがある山百合会の人間か。それとも全然山百合会とは関係ない生徒か、はたまたリリアンの生徒でもないとか。 (嫌だなぁ) こういうのを疑心暗鬼って言うんだろう。話を聞いても取り乱したりしないのは祐麒を信じているからで、相手が気になるのは疑ってるってこと。 別に直接祐麒に問い質したりするつもりはない。祐麒は誠実だから、もし由乃に興味が無くなって他の人を好きになってしまっても、それを正直に伝えてくれるだろう。そうじゃなかったら、それまでの人だったってこと。 (なーんて) そう考えはするものの、心は穏やかじゃない。ドラマの中の女優達ほど、由乃は大人じゃないのなんて、嫌と言うほど知っている。 思うに、由乃は自分に自信がないのだ。さっきの話を聞いてこんな風に考えているのが、何よりの証拠。由乃と祐麒じゃ、性格も全然違う。 そう考えると、祐麒は自分のどこを好きになってくれたんだろうな、っと思ってしまう。可愛いとは言ってくれるけど、由乃より可愛らしい女の子はいくらでもいると思うし、そう考えるとどんどん自信が削られていくのだ。 「……あ」 由乃をせかすように、チャイムが鳴った。急いで教室に戻らないと、黄薔薇のつぼみの面子が丸潰れだ。 行くしかない。教室であれ、恋であれ、どんな時でも前しか見ないのが由乃ではないか。 自分に自信がなくなるなんて、らしくない。いつもイケイケ青信号。何かもやるしかないんだって強く自分に言い聞かせて、由乃は非常階段の扉を跳ね開けた。
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