■ 春を待つ日
    三話『或る偶然』
 
 
 
 
 適度な揺れと雑音は眠りに入りやすくする、と祐麒に教えてくれたのは誰だったろうか。
 小林だったか、アリスだったか、それとも高田だったか。――そんなことを考えながら、バスの窓に頭を預けた。
 午後十八時を過ぎたM駅発の循環バスは、放課直後とは違って学生の変わりにサラリーマンが乗っているような様相。ちゃんと座れたのは、運が良かったと言っていい。
 
「はー」
 
 疲労感の滲んだ溜息を吐くと、窓の外の景色が霞んだ。やはりまだまだ寒い。
 全くどうしてこうも、やることばかり増えていくのだろう。外はもう夜の帳に覆われているけれど、今日なんかは早く帰れた方なのだ。
 原因を考えて見れば、一々方向転換してはいけないと思いつつも、やはり良いと思った方を採ってしまうのが悪いのだろう。盛り上げたいという一心故にのことだけど、身体がいくつあっても足りない。
 少しの疲労を感じて、目を閉じた。バスが揺れるたび、ゴツゴツと額が窓に当たる。
 そのままうつらうつらしていると、どうも軽く眠っていたらしい。気付けばM駅に着いていて、人がごそごそと動く気配ではっと身を起こした。
 
「終点、M駅です。お忘れ物の無いように――」
 
 何かに憑り付かれたように淡々と運転手が言って、祐麒も人の流れに乗ってバスを降りた。ひんやりとした夜の空気が頬を撫でて、きりりと頭が覚醒する。
 さて、と次のバス停に向かおうとして、ふと思い立つ。そう言えばこのところ忙しくて、いつも購入している雑誌を買いそびれていた。
 どうせ次のバスまで少し時間がある。そう考えて駅ビルの中にあるブックセンターへと向かった。少し寝ていたお陰か、身体は軽い。
 
「あ」
 
 ブックセンターに入ろうかと思った、その時だった。見知った顔に遭遇して、一瞬固まる。
 それは相手も一緒だったようで、祐麒と同じく「あ」と発したまま同じ表情をしていた。
 
「ご無沙汰しています。こんな所で奇遇ですね」
 
 一瞬の硬直が解けたのは、相手が先だったようだ。乃梨子ちゃんはさらりと髪を揺らして、軽く会釈した。
 
「本当だね、久しぶり」
 
 敬語を使うべきかなとも思ったけど、今は生徒会は関係していない。というか、年下なのだから、そこまでの気遣いは要らないだろうと思われる。
 
「今おかえりですか? 忙しいんですね」
「あー、まあ……。それ言ったら乃梨子さんもでしょ?」
 
 ちゃん付けかさん付けか迷った挙句、後者を採った。特に変な顔をされなかったから、これで良かったのだろう。
 
「いえ、私はその……立ち読みしていただけですし」
 
 見れば乃梨子さんは、ブックセンターの袋を手にしていた。何の図鑑かって言うぐらい、サイズの大きな物だ。
 
「何を買ったの?」
「まあ、簡単に説明すると仏像の写真集です」
 
 仏像の、写真集。その単語を聞いて、そう言えば去年の文化祭の顔合わせで、仏像鑑賞が趣味だとか言っていたのを思い出した。何だか、渋いとかそういうのを通り越した次元の話だなと思う。
 
「仏像の、写真」
「詳しく言うと、主に鎌倉時代の物です。……って、そんなに興味はないでしょうけど」
「いや、うちは仏教系だから、そんなことはないんだけどな」
 
 相手の趣味を否定しちゃ悪い、ということは考えなかったわけではないけれど、祐麒は咄嗟にそう答えた。事実、奈良や京都に修学旅行に言った時、そのスケールの大きさに感動したものだった。
 
「何だっけな……前に京都に行った時に、熾盛光如来っていうのを見たよ。何でも秘仏とかで――」
「それって、青蓮院のですか?」
「あー、確かそんな名前だったような気がするけど」
「羨ましい! あれは今開帳の予定がなくて、前立ちしか拝観出来ないんですよ」
 
 前立ちとは何ぞや、と思いながら、「そうなんだ」と相槌を打つ。一気に瞳に活力が漲ったあたり、間違った話題選択ではなかったらしい。
 
「京都へは、仏像鑑賞の為に?」
「いや、修学旅行で行ったんだ。中等部の時だったかな」
「へぇ、流石花寺ですね。開帳のタイミングで修学旅行なんて」
 
 本当に開帳に合わせて修学旅行の予定を組んだのかは知らないが、よほど乃梨子さんに取っては重要なことらしい。
 それからしばらく何を見た、あれを見ただの話していると、あっと言う間に時間が過ぎて行った。
 
「っと、ごめんなさい。お引止めしてしまいましたね」
 
 ふと我に帰る様に、乃梨子さんは腕時計に目を落としてから言った。そう言えば、もう次のバスが来る時間だ。
 
「いや、いいんだ。それじゃ、下まで行こう」
「あれ、ブックセンターに用があったんじゃないんですか?」
「うーん、別に今日じゃなきゃ駄目ってわけでもないから。それにバスの時間もあるし」
「……すいません、つい話し込んでしまったせいで」
 
 深く頭を下げそうになる彼女を、「いいんだ」と手で制した。雑誌を買うのなんて、いつでも出来る。
 
「行こう。あんまり遅くなると、家の人が心配するよ」
「はい、その通りですね」
 
 乃梨子さんは小さく苦笑すると、祐麒に並んだ。隣ににいる制服姿が由乃じゃないっていうのは、また妙なシチュエーションだと思う。
 
「それじゃ、また」
 
 駅まで降りると、乃梨子さんはそう言って小さく会釈して去っていった。
 外の空気は、さっきよりも随分と寒い。時計を見れば、バスの出発時刻まであと一分もなく、それを確認するや否や走り始めた。
 
「まずい」
 
 カシュ、と音を立てて締まるバスの扉に、大きく手を振って合図をする。そしてそれを見た顔見知りの運転手は、やれやれという顔で扉を開けてくれるのだった。
 
 

 
 
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