■ 春を待つ日
    二話『霞む約束』
 
 
 
 
「やっと出てきた」
 
 受話器の向こうで、由乃は嬉しそうに言った。時刻は二十一時を少し過ぎたところ。家の電話にかけても大丈夫だろう、と思われる時間ギリギリだった。
 
「二回電話かけても、まだ帰ってきてないんだもん。心配しちゃった」
「あぁ、……ごめん。最近立て込んでて」
 
 受話器から少しだけ口を離し、由乃に聞こえないように息を吐く。吐息と一緒に、疲れが抜けていくようだった。
 由乃に言った通り、ここのところ忙しくて帰りも遅い。子機を持ったままベッドに倒れこんで、去年祐巳が倒れた時もこんな感じだったのかなと考える。
 
「そうなんだ。体は大丈夫?」
「それを言うんだったら、そっちも。部活も生徒会もじゃ、大変なんじゃないの?」
 
 そうして言葉にして気付いたけれど、事実を並べれば由乃の方が大変なのだ。祐麒みたいに生徒会だけ、というわけじゃなく、剣道部というハードな部活にも顔を出さなくてはいけない。
 
「私は大丈夫。部活も融通が利くし、後輩がしっかり者だから」
 
 言われて由乃の後輩にあたる人たちを思い浮かべ、ああなるほどなと思う。祐巳は置いておくとして、山百合会はしっかり者揃いではないか。
 それに比べて自分たちは、お別れ会のラストを飾るくす玉の大きさを決めるのに二時間半もかかるなんて、要領が悪いったらない。というか、こういう時はっきりした意見を通せない辺りが同学年ばかりの弊害というか、祐麒のリーダーシップのなさというか。割と決断は早いつもりではいるけれど、みんな本番に向けて熱くなっているから、それぞれ譲れない部分とかがあって中々進まない。
 
「祐巳さんに聞いても、最近帰り遅いって言うし。次の土日が空いてないのも、その関係?」
「うん、ごめん」
「謝らないでよ。祐麒が悪いわけじゃないし」
 
 間を置かずそう言って貰えて、祐麒は少し安心した。何となく、寂しい思いをさせているんじゃないかと思ったから。
 ……なんて、少し自意識過剰だろうか。ふとした考えに、気恥ずかしくなる。
 
「それにしても、さ」
 
 由乃がさっきまでの会話を払拭するように、区切りを置いてから言った。
 
「珍しいよね、四日も連絡なかったのって」
 
 言われて、そう言えばと気が付いた。今まで最低でも三日に一度は、電話なり会うなりして連絡はあった。
 それがこのところ、連絡を取ってないな、と思いつきもしなかったのだ。その事実に、忙しさが身に染みた。
 
「寂しかった?」
「……寂しかったよ」
「そっか。よしよし」
 
 間が空いたのは、そう言うのが恥ずかしかったからじゃなくて、正直に話すという選択肢を捨てるのに時間がかかったから。気付かなかったなんて言ったら、彼女はきっとがっかりするどころか怒るだろう。
 そうなると、また疲れることになる。出来れば由乃の、無邪気な声を聞いていたかった。
 
「あ、そうだ。ちょっと聞いてよ。今日はね、祐巳さんがね――」
 
 そうしてまたいつものように、学校の話題や、あのテレビ番組が面白かったとか、次に会う予定であるとか。そんなことを、商品棚に並べていくように喋る。
 少しだけ寂しさが混じったような声はそれでも、疲れを解かしていく。おやすみが耳朶に響く頃、きっと身体に沈み込んだダルさが消えているんだろうと、信じて耳を傾けた。
 
 

 
 
 明けて、月曜日のことだった。放課後一番乗りで薔薇の館に入った後、祐巳さんが言ったのだ。
 
「どうしたの?」
「え……?」
 
 ポットに落としていた視線を引き上げて、由乃は思わず気の抜けた返事をしてしまった。だって祐巳さんの言ってること、あまりにも会話の前後感が無さ過ぎる。
 
「どうしたの、って、何が」
「何が、って。由乃さん、ポットを見たまま固まってるから」
 
 そう――だったのだろうか。自覚症状がないあたりに、うっすらと危機感を覚えた。
 見てみれば、カップを出してティーバッグを入れた所で動きが止まっている。
 
「考えごと?」
「うん、まあ……ね」
 
 隠しても仕方ないか、と正直に言った。祐巳さんは自分のことには疎いクセに、他人に対しては妙に鋭かったりするのだ。
 小さな濁音を立ててカップにお湯を注ぐと、祐巳さんの方を振り返った。思っていたよりも近い位置に瞳があって、いつもとは違っていて、何だか少しどきりとした。
 
「こんなこと訊くのは不躾かも知れないけど……。上手くいってないの?」
 
 祐巳さんが言わんとしていることは、間違いなく由乃と祐麒のことで。やっぱり自分が祐巳さんの立場なら心配するんだろうな、と考える。
 
「うーん、……そういうわけじゃないんだけどね」
 
 実際、仲が悪くなったわけではない。だけどこうも時間がすれ違うと、進展だってしない。度を越せば、ストレスにもなるんだろうなと考える。
 だからと言って、『充電』が切れたのかと言えばそうでもない。少し寂しいというぐらいで、一週間二週間ぐらい耐えられそう、――というか、そのぐらい耐えなくちゃなとも思う。いつも由乃には我慢が足りないのは分かっていたから、特別好きな人に対しては、そうでありたい。
 
「ただ、中々会えないだけなのよ。近いんだから、会おうと思えばすぐ会えると思うし、そんなに心配することじゃないわ」
 
 言った後、弁解にしてはあまり上手くないなと思った。祐巳さんは祐麒と同じ家に住んでいるんだから、帰りが遅いことを知っている。
 だけど祐巳さんは「そう」と頷いただけで、言及はしなかった。ただ複雑な表情をしていたから、小さな嘘はバレているんだと思う。
 
「あ、由乃さん、紅茶」
「っと、しまった」
 
 見ればカップには、底の方だけ深い色をした紅茶が入っていた。時間的に見て、これはかなり濃いだろうと思われる。
 話していたからって、今まで淹れている紅茶のことを忘れるなんてなかった。これは結構きてるんじゃないかと、自分を心配してしまう。
 
「ちょっと濃いかも知れないけど……飲めるわね。多分」
「うん。私ミルク入れて飲もうっと」
 
 あ、私も。言って由乃も、ポーションタイプのミルクを紅茶に落とした。スプーンでかき混ぜた紅茶に、白い渦が巻く。
 かれこれ薔薇の館について十分は経つだろうけど、未だに誰も来ない。由乃は何の気も無しに窓の見える席につくと、祐巳さんも隣に腰を下ろした。何かあるのかと思ったけど、祐巳さんは黙って紅茶を飲んでいるだけだ。
 
「祐巳さんは、さ」
「え?」
 
 由乃が話しかけると、それほど急だったというわけでもないのに、祐巳は驚いたという目でこっちを見た。今まで考え事してました、って表情だ。
 
「祥子さまと、どれぐらい会わないでも平気?」
「祥子さまと?」
 
 うん、と頷くと、祐巳さんは顎に手をやって考え出した。きっと必死でシュミレートしているんだろう。長いこと大好きな人に会えず、悶々としている自分を。
 
「一ヶ月ぐらいかな。でも大学に進学したら、もっともっと長いこと会えないかも知れないし」
 
 だからもっと強くならなくちゃ。そう言った祐巳さんの顔は、姉のようでもあり、妹のようでもあった。
 
『もっと強くならなくちゃ』
 
 祐巳さんの言葉を反芻して、自分に言い聞かせる。どれだけ好きでも状況が二人を引き離すことなんて、いくらでもあるのだ。
 扉も向こうからギシギシと階段を踏む音が聞こえて、段々と考え事の世界から引き上げられていく。そう、祐麒だけじゃなく自分にだって、今やらなくてはいけないことがあるのだから。
 
 

 
 
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