■ 春を待つ日 一話『彩る刻限』 「ん……」 起こさないように気を使っていたけど、結局その努力は無駄だったらしい。どれだけ祐麒が注意深く行動していても、TVから漏れる音声は防ぎきれなかったということだ。 「あれ、寝ちゃってた?」 「うん、ぐっすりと」 「やだ、よだれとか垂れてないよね?」 由乃は頭を預けていた肩から起き上がると、急に産気づいた人みたいに口元に手を当てた。その例えはどうなのかと、祐麒は頭の中でつまらない考えを巡らせる。 見れば映画は、もうラストシーンらしい。主人公とヒロインが叫び合うシーンが、由乃の目覚ましだった。 んー、と由乃が背伸びをして、きゅっと瞑られた目が猫みたいだと思った。そんなことを考えていたら、手の甲で目まで擦り出して、思わず笑ってしまう。 「なんで、笑うのよ」 あくびを噛み殺しながら、由乃が言う。 「別に。本当によく寝てたなと思って」 「もう、だったら起こしてくれたらよかったのに。映画、全然内容が分からないし」 身体でも文句を言うように、由乃はポンポンと祐麒の膝を叩いた。二人の腰掛けたソファは、その軽い衝撃さえも受け止めて、心地よい揺れに変える。 「由乃、いびきかいてたよ」 「嘘よ。私生まれてこの方、いびきかいてたなんて言われたことないもん」 「うん、嘘。もし本当にかいてたら、すぐに起こしてるよ」 祐麒がカラカラと笑うと、由乃は「もう」と少しだけ頬を紅くした。最近見えるようになったこの仕草が、祐麒は好きだった。 本当のことを言えば、純粋に寝かして上げたかっただけ。三年生も登校しなくなって、肩に重みが増すこの季節。その大変さは祐麒もよく知っている。 更に理由を付け加えるなら、祐麒は嬉しかったのだ。祐麒の肩を枕に眠ってしまえるぐらいの安心を、由乃に与えられていることが。眠ってしまうぐらい安らげる存在になれたことが、堪らなく嬉しかった。 「どうしよ。この映画、令ちゃんに見るって約束しちゃったんだ」 「じゃあ、由乃が寝出したところまで巻き戻そうか」 「んー。うん、そうする」 祐麒がリモコンを取ると、その手に由乃が触れた。右手がにわかに温かくなる。 「ねえ、祐麒」 「うん?」 画面はコマ送りで、どんどんとシーンを遡って行く。目的の場面まで戻ると、ボタンを押してそれを止める。その瞬間由乃は、祐麒がリモコンを落とすぐらい強く手を握った。 「次はいつ会える?」 その質問に、思わず「うーん」と唸った。本当ならば、来週の休みにと答えたい。可能ならば、明日かな、と言いたい。 だけど、このところ祐麒も由乃も多忙だった。それぞれ三年生を送る会の準備に追われているし、何より由乃には部活もある。いつ会える、なんて訊いても、その日は由乃が駄目ということも、今まで何度かあった。 「再来週、かな」 「うーん……平日でもいいから、会える日はないの?」 「平日、か。帰りがいつになるか分からないから、難しいな」 長いよ、と由乃は小さく言った。祐麒もその通りだと思った。 以前までは、平日でも無理して会っていたこともあったけれど、最近はそれも難しい。働いているわけでもないのに、ことごとく時間が合わないのだ。 祐麒の肩に頭を乗せたまま目を閉じている由乃を、ぐっと引き寄せる。少し重くなった空気を、払拭したい。 「あ……」 二週間、十四日、三百三十六時間。これほど長い時間を、埋められるだろうか。付き合い出してから、これほど会えない時間が長かったこと、あったろうか。 誰かが、充電なんて言葉を使っていたな。祐麒はそう考えながら、由乃の顔に陰を一つ落とした。 「ちーっす。お、ユキチ。早いな」 生徒会室の扉が勢いよく開かれると、見知った顔が元気よく言った。坊ちゃん刈りは、寒さに負けることなど知らないらしい。 まあな、と短く返して、祐麒は机に向き直った。そこにはまだ未記入の用紙が、束になって鎮座している。何か特別なことをしようという時には、必ずこの面倒な作業と向き合わなくてはならない。 黙々と仕事を進めていると、何度か扉が開いて、その度に仲間が集まっていく。気が付けば、三年生以外の生徒会役員が集まっていた。 「これから大変ねぇ」 アリスが、計画表を見ながら言った。 「何か、人事みたいな言い方だな」 「そんなつもりはないけど。何だか気が遠くなっちゃって」 アリスがそう言うのも分かる。計画、とは名ばかりで、実際は目途の立っていないものばかりの計画表だった。 だけどそれも、自分たちで選んだ道だ。本年度の生徒会長は他でもない自分。去年と全く同じような生徒会活動にするつもりなんて、さらさらなかった。 祐麒は、柏木先輩のように何でもそつなくこなすタイプの人間でもなければ、様々な部活を掛け持ちできるほど器用でもない。能力に差があるのは明白だったけれど、今年の生徒会は去年よりも、なんて話は聞きたくなかった。 自分は自分らしくやればいい、とは何でも自身に言い聞かせた言葉だけれど、こういうところで気張ってしまう当たり、結構なコンプレックスだったのかも知れない。それが昨今の忙しさたる原因だった。 「あ、そうだ。これ見積書。職員室のFAXに来ていたって」 アリスに渡された紙を見ながら、何だか本当に仕事をしているみたいだなと思った。イベント設営の会社の仕事、と思えば、かなり似ている。 そして黙々と作業……に打ち込みたかったけど、集中力が切れ出すと中々止まらない。その内雑談の数が多くなって、その時になって色々といい案が出てきたりして、どんどん収集がつかなくなっていく。 「うーん、やっぱ土日も出てくるのは必至かな」 祐麒が椅子の背もたれに身体を預けて伸びをすると、小林が返す。 「あのさ、別に土日どっちか来なくても大丈夫だぞ。ユキチがいなきゃ何も出来ない、ってワケじゃないんだからさ」 「ありがたいんだけどさ、やっぱそれは出来ない。信用してないって意味じゃないけど」 「うーん、まあそう言うと思った」 けど本当に、無理しなくていいんだからな。そう言うと小林はトントンと書類を束ねた。さんざ祐麒と由乃の間柄について弄ってきたと思ったら、最近はやっかむ所かこんな風に気を利かせてくれるのだ。 でも、小林の気持ちは嬉しいけど素直に首を縦に振れない。こんな時に一人だけデートで抜けるなんて、生徒会長の肩書きが聞いて笑う。 薄い紙束でトントンと机を叩いて、祐麒は立ち上がった。さっきまで茜色に染まっていた空は、すっかり冷たい色に入れ替わろうとしている。 春はまだまだ遠いな――。 そんなことを思わせるような、星の少ない夜の空だった。
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