■ 愛、しあう?
    三話『風呂と料理とリベンジと』
 
 
 
 
 カポーン、なんて。
 そんな音が聞こえてきそうだった。この借り切り風呂というものは。
 
「……はー」
 
 祐麒は肩まで温泉に浸かりながら、辺りの景色を眺めていた。
 手をお湯から出せば、滴るのは白く濁った湯。その手を瞬時に冷やして行くのは、冷たい朔風。つまりこの貸し切り風呂は、露天風呂だった。
 三方とは壁に囲われているものの、残る一方は吹きぬけ。そこからの望むのは先ほど超えてきた川で、いつの間にか降りだした雪がライトアップされている。
 
「……」
 
 由乃さんはまだこない。……というのも、自分から誘ったくせに一緒に服を脱ぐことを嫌がったせいである。この露天風呂の前に身体を洗うための小さな風呂場があり、祐麒がそこで軽く身体と髪を洗っていても入ってこなかったから、実は結構恥ずかしがっているのではないかと思う。
 
(これしかなかったのか……)
 
 何だかトントン拍子で話が進められてしまったが、本当にこれでよかったのか。そりゃ祐麒自身は嬉しいけど、由乃さんはあれで恥ずかしがっているみたいだったし。
 一番の問題は、祐麒がこの試練とも呼べる状況に耐えられるか、ということである。興奮して襲いかかる、……という可能性は低いと思うけど、女の子とお風呂に入るなんて未知の領域の話だ。万が一、という場合もある。
 ――そう、万が一。
 もしそれが起こってしまえば、祐麒は後悔するのだろう。由乃さんが拒絶しなくても。
 それはあってはならないことだ。第一時間的にも無理があるし、ゴムだって――。
 
「あっ」
 
 そこで祐麒は、重大なミスに気が付いた。避妊具を、鞄に入れてきていない。
 というのも、昨日の晩に散々悩んだせいだ。情欲に流されて抱くことの是非を追いすぎて、自らを戒めるために持って行かないか、それとも持って行くべきか悩んでいた。結局情欲に流される云々の煩悶は解決されず、一応持っていくことに決定したのだが、それは眠りに落ちる数分前のこと。出発の朝はごたごたしていて、すっかり忘れてしまっていた、というわけである。
 
(……どうしよう)
 
 売店とかに、置いてないだろうか。いや、そもそもこの旅館の中に売店があるのかどうかすら知らない。
 爪はちゃんと切ってやすりがけしてあるクセに、どうしてこういうことを忘れるのか。祐麒がそう頭を抱えていると、不意に入り口のドアが開く音がした。
 
「うわーっ、寒い!」
 
 そして、一声。祐麒が振り向けば、当然由乃さんがそこいた。
 ――白い肌を、白いバスタオルで覆い隠して。
 
「あー、寒い、寒いっ」
 
 由乃さんはダーッとお風呂に駆け寄ってくる。濡れた桧の床でこけたりしないだろうかとか、湯船を囲う岩につまずいたりしないだろうかとか。そんな心配は、掛け湯もそこそこに湯船に入ってくる由乃さんの太ももに瞬殺された。我ながら俗だと思うけど、初めて見る生足はそれだけ魅惑的だった。
 
「うわ、温泉は温泉で熱いしっ」
 
 由乃さんは祐麒そっちのけで、一人でハイテンションだった。祐麒は祐麒で、髪をアップにした由乃さんの姿に静かにテンションが上がってきているし。
 ……温泉が濁り湯で、本当によかった。
 
「あ、いつの間にか雪降ってる」
 
 祐麒のことなんかそっちのけで、由乃さんは開け放たれた方角へと膝立ちで歩いて行く。揺れる水面と濡れたうなじを見ながら、「ひょっとしたら俺のことを無きものとして考えている?」なんて思っていると、不意に由乃さんが振り返る。
 
「どうしたの? 祐麒もこっち来てよ」
「あ、うん」
 
 どうやら祐麒のことを忘れていたりはしないようだ。祐麒は少しだけ安心しながら、由乃さんの隣へと移動する。そこからは先ほどと変わらずに降る雪と、ライトアップされた冬山の雪景色。川のせせらぎさえ聞こえてくるほど、自然に面した光景だった。
 さっきまで一人で見ていた景色も、隣に由乃さんがいると随分違って見えた。例えば、さっきまで人里離れた冬山としか思えなかったこの場所も、二人だけが見ることを許された風流な世界のように思える。
 心細(うらぐわ)し、とはこの為にあるのだろう。こんな時、由乃さんの存在の大きさがよく分かった。
 
「はー。やっぱりお高い旅館だけあるわねー」
 
 その光景に満足したのか、由乃さんはグデッと岩にもたれかかった。白くて柔らかそうな肌が、水気を含んで艶やかに光る。
 
「見て、肌も早速スベスベになってきた感じ」
 
 ばっと岩から離れると、由乃さんは祐麒に腕を見せてくる。これは触ってみてという意思表示なのだろうか。普段なら触れ合うことにドキドキなんてしないのに、今はそれが酷く緊張する。
 しかし由乃さんは祐麒が動き出す前に、祐麒の腕に触れた。そして自分の腕と、祐麒の腕を触り比べる。
 
「やっぱり、祐麒の方が長く入ってるからスベスベしてる」
 
 風呂に入る前までは恥ずかしがっていたというのに、いつの間にかいつも通り。無邪気な笑顔もいつも通りで、祐麒は毒気を抜かれた。襲うとか襲わないとか、そんなことを心配していた自分がバカらしい。
 
「そうかな。由乃の方が、スベスベしてると思うけど」
「私のは、元からだもん。祐麒の方が、元に比べてスベスベしてる、って言っているの」
 
 祐麒が腕を摩ると、由乃さんはくすぐったそうに目を細めた。
 じわりと滲んだ汗に濡れた、柔らかそうな後れ毛。それに触れてみたくて、不意に手を伸ばす。祐麒の指が耳の上を撫でると、由乃さんがジッとこちらを見ていた。
 
「――祐麒」
 
 祐麒の手を逃れるように由乃さんが傾いだかと思うと、唇に柔らかな感覚。首に回された腕で、やっとキスされたんだと分かった。
 
「……何で?」
 
 短い口づけの後、祐麒は無為にそう訊いた。何故あのタイミングなのか、よく分からなかった。
 
「うん? だって今日はずーっと二人でいるのに、キスしてなかったなって思って」
 
 由乃さんは少しだけはにかみ、祐麒の首の後ろで手を組んで言った。
 ――ああ、どうして。
 人の心は、こんなにも変わり易いのだろう。さっきまで襲う襲わないの話なんてバカらしいと思っていたのに、今は大きく揺れている。抱き締めたいとか、貪ってしまいたいとか、――深く情欲を燻られる。
 
「由乃――」
 
 抱き寄せ、顔を近づける。嫌がるそぶりさえ見せない彼女の唇を、情熱を灯した舌で割る。
 
「う……んっ」
 
 舌までふやけそうだ。ついでに、脳も。
 聞こえる水音は、お湯の立てる音か、それともお互いの唇なのか。――それは前後不覚に陥るほど、深く熱かった。
 
「……っはぁ」
 
 唇を解くと、由乃さんは額を祐麒の額と擦り合わせて言った。
 
「何だか。……もうのぼせちゃいそう」
 
 小さく、可愛い声が、理性を、瓦解させていく。
 もう駄目だと思った瞬間、由乃さんは祐麒の手から逃れるように後ろに引いた。
 
「えいっ」
「うあっ!?」
 
 そして思いっきり、お湯をかけられた。水をかけられたわけでもないのに、ハッと我に帰る。
 ――祐麒は一体、何をしようとしていたのだろう?
 
「な、何すんのさ」
「何って、お湯かけた」
「その理由は?」
「そんなに本気で訊かないでよ。ちょっとふざけただけじゃない」
 
 尚も由乃さんは笑いながら、「えいっ、えいっ」とお湯をかけてくる。このままじゃ一方的にやられるだけだと思ってお湯をかけかえせば、由乃さんはきゃあきゃあとはしゃいで逃げる。
 
(何やってんだろ)
 
 祐麒は心底そう思いながら、先ほどまでの情欲を思い返す。
 ――あの凶暴性が、恐ろしい。あの情動に流されることは、本当に。
 時の流れは無情にも、刻一刻と時を刻んでいく。気が付けばもう、入浴可能時間は五分もなかった。
 
 

 
 
 由乃が髪を乾かしてから部屋に戻ると、先に帰っていた祐麒君が安心したような顔で寝室から出てきた。
 
(……何?)
 
 そう不思議に思っていると、由乃が帰ってきたことに気付いた祐麒君は『ギョッ』とした顔をして驚いた。本当に、さっきから何なんだろう。
 
「お、おかえり」
「おかえりじゃないわよ。どうして待っていてくれないの」
「いや、それは……」
 
 由乃が軽く睨んで言うと、祐麒君はしどろもどろになる。これは寝室に何かあるな、と思って覗きこんでみたら。
 
(うわ……)
 
 あった、布団が。それも二人用の布団が、一組だけ。
 仲居さんも、いい感じに気を利かせてくれたものだ。……まあ、「お風呂は一緒に入ります」なんて言ったから、こうなったんだろうけど。
 由乃は浴衣の胸元を締めながら、『いやでも』と思った。これは予想通りなのだ。何故祐麒君が安心しているかは、ちっとも分からなかったけど。
 
(もしかして、ちゃんと一組の布団しかなかったから?)
 
 そういうことなら、布団が二組あったらがっかりしてたんだろうか。それは別に、大した問題じゃないと思うけど。
 
「……祐麒」
「……何?」
「えっと……。何でもない」
 
 流石に、まだしないだろう。だって、まだ晩御飯さえ食べてないのだ。時間的にも早すぎる。
 由乃はそう判断すると、付属室の椅子に腰掛けた。すると祐麒君も、無言で向かいの椅子に座る。
 
「……」
 
 静かだった。さっきまではしゃいでいたのが嘘みたいに、沈黙の時間が続いた。
 多分、お互い緊張しているんだと思う。これまで沢山の時間を一緒に過ごしてきたのに、今更。
 
「あ」
 
 そこで祐麒君は、小さく声を上げた。そしてすっくと立ち上がると、流しの方へ向かう。
 やがて戻ってきた祐麒君の手には、高山寺のマークが描かれた清水焼の湯呑み。
 
「お風呂上がりには、水分を取っておいた方がいいよ。それとお茶菓子が置いてあったけど、あれはデザートにしよう」
「……うん、ありがと」
 
 祐麒君の言動で、停滞していた時間が再び動き出す。やっぱり祐麒君って、よく気が利く。
 
「雪、まだ降ってるね」
 
 由乃は両手で湯飲みを持ちながら、窓から外を眺めた。二重の窓の向こうでは、尚も雪が舞っている。
 
「今更だけど、観光とかは無理だね」
 
 祐麒君は湯飲みを傾けたからそう言ったから、由乃も一口お茶を飲んでから頷いた。
 ここが温泉街なら色々観光もできたんだろうけど、こう雪の中だと無理だ。散策しようにも寒すぎるし、万が一遭難したら嫌だし。
 
「こういうところって、雰囲気を楽しむものなのかな」
 
 由乃が柄にもなくそういうと、祐麒君は優しい声で「そうかもね」と言った。
 ただこれだけ山奥だと、実は逢引に使う為にあるんじゃないかと思う。芸能人とか、偉いさんとか、そういう人たちのための隠れ宿。そう考えると値段が高い理由もつくし、布団が一組で出される理由が一つ増える。
 
(ああ、また同じこと考えてる)
 
 今はまだそんな時間じゃないっていうのに。
 その考えを裏付けるように、部屋の扉がノックされる。
 
「失礼します。お食事をお持ちしてもよろしかったでしょうか?」
「あ、はい。お願いします」
 
 時計を見れば、もうそんな時間。由乃が返事をすると、仲居さんは次々と料理を運んできては居間のテーブルに置いていく。
 
「失礼いたしました」
 
 慣れた手付きで料理を並べ終えると、仲居さんは一礼をして去っていった。
 
「さ、食べよっか」
 
 山道を歩いてきたこと、お風呂ではしゃいでいたこともあって、もうお腹はぺこぺこだ。由乃が率先して座椅子につくと、向かいに祐麒君も座る。
 
「いただきまーす」
「いただきます」
 
 由乃は元気よく、祐麒君は幾分落ち着いた声で言うと、食事が開始される。
 料理は懐石料理が中心で、お造りと鍋物がメイン。こんな山奥なのにしっかり蟹もあり、和牛のステーキまであった。
 
「やっぱり、豪華よね」
「うん……」
 
 由乃は酢の物から先に手をつけると、祐麒君は行者にんにくの薬味がのった湯豆腐を食べる。
 あれが美味しい、これは初めて食べる、この食感がいい――。
 色々なものに箸をつけては、口々に感想をつけていく。それは一人で食べるより何倍も楽しく、何倍も美味しく感じられた。
 
「由乃、これも美味しいよ」
「どれ? ……あ、これか」
 
 祐麒君が箸で摘んで見せたものを、由乃も摘んで食べてみる。
 蓮根の煮付け。確かクリスマスイヴにデートした時も、料亭で同じような料理が出された。
 
「む……」
 
 けど食べてみて、まったくの別ものだと認識する。何て言うか、味が濃すぎる。
 
「私には合わないみたい。祐麒が食べてよ」
 
 勢いづいて咀嚼している最中に掴んでしまった蓮根を、祐麒君の方へと向けた。彼はそれを寄り目で視認すると、少し躊躇った後に口に含む。
 
「由乃はこういう味、嫌い?」
「嫌いってわけじゃないけど、ちょっと味が濃すぎかな」
 
 由乃はそのまま鍋へと箸をつっこみ、野菜をとる。いい野菜を使っているのか、ただ煮ただけなのに美味しい。
 
「由乃は、どれが一番好き?」
 
 暫く黙って食事を続けていた祐麒君は、不意にそんなことを聞いてくる。
 どれが一番好きか。……どれも(蓮根以外は)美味しいから、中々難しい問題だ。
 
「強いて言えば、この煮しめかな」
 
 由乃はさっきまで根菜の煮しめが存在していた皿を指す。煮しめなんて中々食べないものだけど、味がよく染みていて美味しかった。
 すると祐麒君は、残っていた自分の分の煮しめを箸で掴み、由乃の口元に向ける。
 
「じゃあ、俺の分もあげるよ」
「な、何で?」
「だって、さっき由乃が蓮根くれたから」
 
 でもこれじゃ、まんま「はい、あーん」ではないか。
 そう考えた瞬間、由乃はさっきの自分の行いを反芻した。あれ以上蓮根を食べたくなかったからとは言え、今の祐麒君と一緒のことをしたのだ。由乃は。
 祐麒君の顔を見詰めれば、少しだけ意地悪な笑み。何だか負けているようで悔しい。――だから、由乃は。
 
「あーん」
 
 負けじと祐麒君の箸に食らいついて、煮しめを味わう。
 これでどう――?
 そんな笑みを祐麒君に向けると、すぐに視線を外してしまった。それが何故だか面映(おもはゆ)くて、由乃も顔を背ける。まったく、恥ずかしがるならしなければいいのに。
 
「……」
 
 それからは黙々と食事が続き、やがて夕食の時間は終わる。普段あまり食べない由乃でも、ほとんど完食だったのが驚きだ。
 
「さて」
 
 少しの休憩のあと、由乃は髪を三つ編みに編む。
 こうなったら、リベンジ。由乃を恥ずかしがらせた落とし前を、しっかりつけてもらおうではないか――。
 
 

 
 
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