■ 愛、しあう? 二話『青信号的決断』 旅行当日の、午後四時過ぎ。 バスの車窓から降り積もった雪を見て、祐麒は「本当に旅行しているんだな」と実感していた。 高速バスからローカルの私鉄へと乗り換え、旅館の最寄駅で乗り換えたバスの車内。雪の山道を運行するバスはその深くへと進むにつれ乗客を減らしていき、現在は祐麒と由乃さんしかいなくなっていた。 「ここまでくると、もうすぐって感じね」 由乃さんは祐麒と同じく、楽しげに辺りの景色を眺めている。ゴーッと五月蝿いエンジンと、ガタガタ揺れる車内とは反対に、辺りの景色は本当に静かだった。 何層も積み重なった雪の断面が道を作り、黒く痩せた木に雪の白が映える。東京では、異常気象でも続かない限り拝めない光景だ。 「旅館って、どんなところだろう」 由乃さんは相変わらず楽しそうに、握ったままだった祐麒の手を少しだけ引っ張る。 その由乃さんの髪は、初めてデートした時と同じ髪型。サイドの三つ編みの先には、当然のように祐麒がプレゼントしたリボンが結われている。このスタイルは、祐麒と出かける際の定番となりつつあった。 「さあ。ついてからのお楽しみ、ってやつだろうね」 祐麒は言いながら、旅館の紹介記事を思い出した。その旅館の紹介ページに載っていた写真は、露天風呂と館内の様子のみ。旅館の周りの写真とかがなかったから、一体どういうところに建っているのかは分からない。 ただこの状況を見る限り、山奥にあるのは間違いない。雪山の景色が見たい、という時点で、この可能性は十分にあったことだけど。 「ところでさ」 祐麒は、由乃さんの手に指を絡めながら言った。 「今更だけど、何で旅行なの? 別に出掛けたいなら、街に出るだけでもよかったと思うんだけど」 「……はぁ。祐麒は分かってない」 由乃さんは呆れたような溜息を吐くと、祐麒の手に指を絡め返してくる。そしてそれを強調するように、一つになった手を持ち上げる。 「だって、中々完全に二人っきりになれなかったんだもん。どこにいたって、誰かに邪魔される可能性があったし。でもこれだけ人気のないところなら、そういう心配もないでしょ?」 ね、と首を傾げる仕草に、思わずクラッときた。恐らく天然でこういう仕草が出てくるのだろうが、言っていることと併せて可愛らしすぎる。 確かに、お互いの部屋じゃ家族の存在を気にすることが多かった。外にいてもそう……という割には、結構ベタベタしていた気がするけど。 「だから雪山の景色が見たいって言ったの?」 「違うわよ。それは純粋に見たかったの。今まで、雪山なんて行ったことなかったから」 そう言うと由乃さんは、スカートのポケットを探りながら「それにね」と続けた。 「ほら見て。健康運のところにも、『概ね良好。旅行などで気分転換するとよい』って書いてあるでしょ?」 スカートのポケットから取り出されたのは、この前の初詣で引いたおみくじだ。読んで見れば、確かにそんなことが書いてある。 「そうは書いてあるけど。体調が悪いってことはないよね?」 「もちろん。睡眠時間も十分だし」 そりゃ、そうだろうなと思う。何を隠そう、由乃さんは高速バスに乗っている時、祐麒の肩を枕に眠っていたのだから。 だから、体調を崩す可能性は少なさそうだ。顔色を見る限り、調子もよさそう。それは何より、祐麒にとって喜ばしいことだった。 「本当に、熱とかないよね」 「ないってばー」 祐麒が空いている手を由乃さんの額に当てると、彼女はくすぐったそうにそれを振り解く。触った感じ、熱はなさそうだった。 そうこうしている間に、バスはどんどんとバス停を追い越して行く。車内にある案内板が次のバス停が目的地であることを示し、それを認めた由乃さんが降車ボタンを押した。 「さ、降りるよ」 少しだけ危ない感じのするブレーキの音に続いて、緩やかにバスが停車する。祐麒は由乃さんの旅行鞄も持とうとしたけど、そうする前に「いいから」と断られてしまった。 「ありがとうございましたー」 運賃箱に小銭を流し込んで、バスから降りる。東京とは違って、運賃の支払いは後払い。しかも乗った距離の分だけお金がかかる。 祐麒たちはギュムと雪の大地に足を降ろすと、深呼吸をして辺りを見渡した。夕間暮れの山間、その景色は美しいけれど。 「……何もないわね」 「うん……」 辺りに、温泉街らしきものはない。道はひたすら山頂に向かっていて、自動販売機はおろか、家屋さえなかった。 祐麒は再び、雑誌に掲載されていた情報を思い出す。確か駐車場は無く、最寄のバス停から徒歩二十分。そりゃ目的地が見えるわけがない。 「予約入れるとき、近くに案内板が立っているって聞いたけど。……あ。ねえ、あれじゃない?」 そう言って由乃さんが指差したのは、車道の山側に立てられた一枚の看板。雪のせいで分かりづらかったが、確かに存在している。 近づいて読んでみれば、大きく宿泊先の旅館の名前が書かれた下に、旅館までの案内図が載っている。それによると、旅館までは一本道であるらしい。 「一本道、ねぇ」 「……うん」 その一本道というのは、案内板の隣から伸びる細い道のようだが。 「何か、思いっきり登山道って感じがしない?」 「そうだね。そう思う」 旅館へと続く道は深い木々と雪の中。ラッセルしてあるため辛うじて分かるその道は、名前も知らない木の純群落の中へと続いている。 そういえば旅館の紹介記事は、秘湯の紹介ページの端っこの方だった。なるほど、これだけ山の中にあるから『秘湯』であるわけだ。 「こんなことなら、『迎えの者を寄越します』って言われた時、断らなきゃよかった……」 由乃さんはガックリと肩を落とし、それでも旅行鞄を力強く持ち上げた。 「さ、行くわよ」 「由乃、荷物は俺が持つよ」 「もう、いいってば。過保護にしないでよ」 祐麒が由乃さんの旅行鞄を手を伸ばすと、ブンと振り払われてしまった。そしてそのまま、先陣を切って道へと歩き出していく。 (過保護、ってなぁ) 本当にあんな荷物を持ったままで大丈夫なのかなと、祐麒は思った。 結果だけで言えば、ダメだった。 由乃は自分の口から漏れる白い息が悔しくて、少しだけ唇を噛む。たった十分少々歩いただけなのに、足が悲鳴を上げていた。 「だから言ったのに……」 祐麒君は由乃の背中をさすりながら、同じく白い息を吐く。祐麒君のそれは、由乃のものより幾分落ち着いている。 現在、約五分の休憩中である。理由は言わずもがな、由乃の体力不足。荷物の重さを考えずにハイペースで飛ばした結果がこれだった。 まったく、何て口惜しい。最近はそこそこ体力がついてきていると思っていたけど、そこは雪山の山道。それは想像以上に手強い敵であった。 「ん、……もう大丈夫」 由乃は心臓が落ち着き、呼吸が整ってからそう言った。 さあ行こう。と思って鞄に手を伸ばすと、横からそれを掠め取られる。 「……祐麒」 「今度こそ、俺が持つ。由乃がなんと言おうと」 「うん、……ごめん」 まあ、こんな状況じゃ仕方ないかと思って、素直にそれを受け入れることにした。本当ならどちらかに頼るようなことはしたくないけど、これ以上予定を遅らせたくない。 それから暫く歩くと川が見えてきた。それを橋で渡り、またまた山道を歩いていくと、木々の向こうに人工的な光が見える。何とか陽が落ちる前に、辿りつけたようだ。 「きっとあれね。ほら、早く行きましょ」 目的地が見えると途端に元気が戻ってきて、由乃は少しだけ早足になった。それを荷物を両手にもった祐麒君が「うおぉ」なんて言いながらついてくる。流石に荷物二つもあるときついらしい。 「由乃、走ると危ないから。それと俺がついていけない」 「あ、うん。ごめん。ここからは自分で持つね」 由乃は祐麒君が何か言う前に、鞄をその手から奪い取る。そして光が見えてから三分もしない内に、ようやく旅館の前へとついた。 見上げた旅館の佇まいは、純和風。見た感じの造りで言えば数寄屋造りで、あまり飾りっけがなかった。しかしそれほど古めかしいものじゃないから、創業何十年とかいう老舗ではなさそうだ。 「こんにちはー。お世話になりまーす」 由乃が意気揚々と玄関の扉を開けると、受付らしい着物姿の女性が「ようこそおいで下さいました」と微笑んだ。 「あの、予約を入れた島津ですけど」 「はい。二名さまですね。部屋にご案内いたします」 女性、いや仲居さんは、通りがかった仲居さんらしき人に一声かけると、由乃たちを案内してくれる。荷物をお持ちします、という申し出には、二人とも丁重に断った。 黒光りする廊下は使い込まれた光沢ではなく、手入れの行き届いた光沢。古過ぎず、新しすぎない建物の雰囲気には、それなりの人の温かみが宿っているように思える。つまり、一言で言えば「いい感じ」ということだった。 「こちらになります」 厚めの引き戸が開けられ、室内へと案内される。上がり框の右手には流しが見え、戸の数から察するに部屋数は二つ以上あるらしい。 「やっとくつろげるわね」 由乃は正面にある居間に入ると、座椅子に腰を下ろした。見回してみると、やはり部屋の数は二つあって、居間と寝室が分かれている。 凹室には掛け軸と活けた花、襖の上には組子の欄間。一段下がったところにある風除室のような付属室には、肘掛け椅子と小さなテーブルが置いてあった。流石は一泊で万単位もする旅館、と言ったところか。 そんなことを考えながら、どんどん上がってくるテンションを落ち着かせるようにコートをたたむ。テーブルで向かい合った祐麒君を見ると、由乃と同じく感嘆しているような表情を浮かべていた。 「ところで、お客さま」 ふとそこで、居間の入り口の方から仲居さんが顔を出した。流しでお茶を淹れてくれているものだと思っていたけど、その手にお盆はない。 「貸し切り風呂のお時間となっておりますが、大丈夫ですか?」 その言葉にハッとなって、腕時計に視線を落とした。時刻は既に貸し切り風呂の予約を入れた時間になっていて、もう残り三十分程度しかない。 (しまった……) もう少し、予定に遅れることを想定しておくべきだった。 由乃はお風呂に二十分ぐらいはかかるし、祐麒君だってゆっくり浸かりたいだろう。三十分では、交代で入ることは難しい。 「あの。他の時間に変更できませんか?」 「申し訳ありません。本日はすでに予約が入っております」 「じゃ、じゃあ明日の午前中に変更とかは?」 「重ね重ね申し訳ないのですが、明日の午前は定期点検と一部改修工事が入っておりまして」 何て間の悪い。どうしよう、と祐麒君の方を見れば、目で「俺はいいから」なんて言っているし。 これじゃ行きの山道で由乃がバテたせいで、祐麒君だけ貸し切り風呂に入れなくなってしまう。祐麒君だって、楽しみにしていたはずなのに。 じゃあ由乃が譲ったらいいだろうという話になるのだけど、祐麒君の方がそれをさせてくれないと思う。いつだって由乃のことを優先で考えてくれる彼のことだから、それは絶対。 無理矢理祐麒君に入って貰うという手もあるけど、由乃だって入りたいのである。なら、どうすればいいか。 「明日の午後からなら空いておりますが」 「いえ」 明日は午前中に出発するから、それは無理だ。 つまり、これはもう、最終手段に踏み切るしかない――。 「二人で入るから、大丈夫です」 由乃がニッコリ笑って言うと、祐麒君は「えっ!?」、仲居さんは「左様ですか」と言った。 「それでは、お茶は後の方がよろしいですね。お盆に茶請けと急須を用意しておきましたので、お風呂上がりにどうぞ」 それでは失礼します。そう言って仲居さんは、「若いっていいわねぇ」とでも言いたげな笑みを残して部屋を去った。 さて、残された祐麒君はと言うと。 「よ、由乃? 本気で言ってる?」 「本気じゃなきゃ言わないわよ」 当然ながら、由乃は本当に本気だった。だって、それしか他に手はないのだから。 「でも、恥ずかしいでしょ?」 「……恥ずかしくない」 そりゃ強がってはいるけど、恥ずかしいか恥ずかしくないかで言えば恥ずかしい。 しかし、それが何だって言うんだろう。こっちはもう、一応抱かれる覚悟をしてきたのだ。裸を見られるぐらい覚悟の上だし、お風呂ならバスタオルを巻いていたっていい。 順番から言えば逆だろうけど、それはケースバイケースだし、これはある意味ステップバイステップ。うじうじと悩むより、さっさとお風呂に行った方が長く楽しめる。 「さあ、早く行きましょ」 「ちょ、ちょっと待ってよ。俺は別に貸し切りじゃなくてもいいから」 あー、もう。何なんだ。 そう言ってくることは予想していたけど、それじゃ由乃が納得できないっていうのに。 「今更何よ。し、下着脱がそうとしたことあるクセに」 本当はもっとビシっと言ってやるつもりだったけど、やっぱり恥ずかしくて少しどもる。まともに目が見れない。 由乃は目を逸らしたまま、無言でお風呂の用意を始めた。祐麒君も、それに倣ってくれればいいと思って。 「……分かったよ」 小さく声がして、鞄を開ける音が聞こえる。 その声を聞いて、「ああ、まただ」と思った。あの声は、由乃のわがままを受け入れる時の声だ。 「――祐麒」 「何?」 「私とお風呂に入るの、嫌?」 「いや、そうじゃなくて。……何て言うか、本当にいいのか驚いただけだよ。逆に嬉しいぐらいから、全然嫌じゃない」 逆に嬉しいぐらい。これは、殺し文句。 我ながら単純だなぁ、と思いながらも、深く安心した。優しい笑顔に嘘吐きの曇りは全くなかったから、そうやって信じられる。 「よし。それじゃ行きましょ」 由乃はそう言って代えの下着をハンドバックに入れ、浴衣を持って部屋を出た。
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