■ 愛、しあう? 一話『二人の進度と深度』 「旅行に行きたい」 その言葉にハッとなって横を見れば、サイドの髪を後ろで結った女の子がいる。 ああ、やっぱりその髪型も可愛いな、とか頭の片隅で考えながら、祐麒は一応聞き返した。 「由乃。今なんて?」 「だから、旅行に行きたいの」 なるほど、旅行に行きたい。 しかしそれには、ちょっと唐突過ぎるのではないだろうか。だってついさっきまで、昔のドラマの話で盛り上がっていたのだ。その話も一区切りついて、たった五秒間が空いただけでその発言。まったく脈絡がない。 「どうして?」 祐麒は頬杖をつきながら、紅茶を一口すすった。 やっぱり、由乃さんの入れてくれたお茶は美味しい。最初はドキドキしながら入ったこの部屋も、いつしかリラックスできる空間になってきている。もちろんそれは、由乃さんの部屋でこうして語りあっている時間が多かったことに起因しているのだが。 「だって、この冬休みの間、どこにも行ってないじゃない」 「行ったじゃん。イルミネーション見に行ったし、初詣も行ったし、K駅のカフェだって――」 「それだけでしょ? 休みももうすぐ終わるっていうのに、それだけしか行ってない」 これは由々しき問題よ、とでも言いたげに、由乃さんは腕を組んだ。 確かにそれだけと言ったら、それだけだった。冬休みに入ってから、三日に一度は由乃さんと会っていた割には少ないと言える。 思い出して見れば、大半がどちらかの部屋で喋ったり、ベタベタしていたりするだけだった。映画なり何なりと遊びに行けばよかったのだろうけど、ただ喋っているだけで楽しかった、というのが本当のところ。だから今のところ祐麒にとって不満はないのだが、由乃さんにとってはそうでもないらしい。 「確かに、あんまり出かけてはないけど」 「何、金銭的な問題でもあるの?」 「そうじゃなくて、ちょっと急だったから驚いたっていうか」 お金の方は、お年玉のお陰で問題ない。問題があるとすれば、それは時間だ。 「でも、旅行って言ったっていつするのさ。後三日しかないのに」 冬休みは残すところ後三日。今年は例年に比べれば長めの冬休みだけど、今から宿の予約をするには急すぎる。 ――そうだ、宿。 旅行ということは、恐らく泊りがけ。この前『あんなコト』があったばっかりなのに。 あの時のことは、今でも思い出す。残念なような、それでいて少し安心している、あの時のこと。 祐麒は健全な男子高校生なのだから、当然由乃さんを抱きたいという気持ちはあった。しかしそこに生じる、由乃さんのを欲望のまま汚さずに済んだことへの安心は二律背反。あるいは、ジレンマ。 正直、祐麒はどうするべきか迷っていた。抱きたい、でもその欲望のまま由乃さんを欲するのは、間違いだと叫ぶ自分がいる。 でも由乃さんの方から『それ』を仄めかす言動があるなら、この間のようなことにならないとも言い切れない。由乃さんだってこの前のことを忘れているはずはないから、もしかしたら彼女の方から歩み寄って来ているのかも知れない。 「そこよ。後三日だからこそなの」 ……しかし、由乃さんにそんなことを考えているような素振りはない。あくまで純粋に、旅行に行きたがっているように思える。 「いい? 大抵の社会人って、今日か明日から仕事でしょ? けど私たち学生は後三日もある。おそらく空くであろうその三日間にかけるのよ」 そう言って由乃さんは、傍にあった本棚から一冊の雑誌を取りだした。何てことはない、ただの温泉情報誌である。 「やっぱり冬に旅行って言ったら、温泉よね。温泉に行きたがるであろう社会人の皆様方はお仕事なワケだから、きっとどこもガラガラのはずよ」 ちなみにその雑誌、昨日由乃さんが書店で見かけ、「ああ、こういう所行きたいなぁ」と衝動買いした本であるらしい。それで、急にこんな話を持ち出したと。 「……本当に行く気なんだ」 「本気に決まってるじゃない。学校が始まったら、旅行どころか会える日だって少なくなるんだから」 由乃さんの言うことはもっともだ。祐麒も由乃さんも生徒会のことがあるし、彼女に至っては部活動だってある。 そう考えると平日会う時間なんてないし、私立だから土曜日も学校。ゆっくり旅行できるなんてチャンス、これを逃したら随分先になりそうだ。 「……嫌?」 そう言うと由乃さんは、途端に不安そうな表情を浮かべる。不意に見せるこういう表情に、祐麒は弱い。いつもイケイケの由乃さんだからこそ、こういう表情が胸をグッと掴むのだ。 「嫌じゃないよ。うん、由乃と旅行に行けるんなら、どこだって嬉しい」 「本当?」 そう言って微笑む表情にも、祐麒は弱かった。天使の笑顔、と言うより、きっと天使よりも可愛い笑顔。ノロケと言われようが、そこは絶対に譲れない。 祐麒は由乃さんの開く旅行情報誌に目を落としながら、彼女の髪を梳いた。こうしていると猫が顎を撫でられるように由乃さんの表情が和らぐし、触れ合っていられるのが嬉しい。これだけ自然に触れられるようになったのが、不思議であり幸せだった。 「やっぱり、露天風呂は欠かせないと思うのよね」 「うん」 貸し切りのお風呂に入ってみたい。雪山の景色が見たい。 そんな意見を取り入れ、結局メジャーそうな旅館に決定する。さて、その旅館が空いているかどうかが問題なのだが。 「……その日、休みだって」 由乃さんは受話器の『切』ボタンを押しながら、残念そうに呟いた。まあ、何せ突発的な旅行だから、躓くこともあるだろう。 「どうする? もう少し妥協して考えたら、すぐに見つかると思うけど」 「妥協? 嫌よ。初めての旅行なんだから、絶対理想通りの所に泊まりたい」 しかし、由乃さんには譲れない部分があるらしい。それから数回電話を掛ける行為を繰り返して、由乃さんの声が明るくなったのは四回目の電話でだった。 「はい、二名で。それから借り切りのお風呂も予約したいんですけど。……はい、構いません」 由乃さんは予約に必要な情報を電話口で伝え終わると、左手で『切』ボタンを押し、右手でピースをした。 「予約取れた。貸し切りのお風呂もバッチリ」 祐麒はその笑顔に笑みを返しながら、「よかった」と思った。 それは勿論『予約が取れてよかった』という意味でもあるが、本当のところ『予約が取れずに由乃さんの機嫌が悪くなる事態を避けれてよかった』と言ったところだ。 「あー、どうしよ。すっごい楽しみ」 そう言って祐麒の方にもたれてくる由乃さんの肩に、「そうだね」と言って腕を回す。 旅行、温泉、二人っきり。嬉しい要素は、本当に沢山あった。しかし、それに埋没してしまいそうになっているけど、現実として問題が残されている。 「それで。由乃は何て言って旅行に出かけるの?」 聞くところによると、由乃さんは今まで過保護に育てられてきたらしい。そんな一人娘が突然男と旅行に行くなんて言ったら、当然両親は反対するだろう。 「友達と旅行に行く、って言ったら信じてくれると思う」 「……それって」 「そう。祐麒は誰の弟?」 ニッコリと笑っていた顔が、少しだけ打算的なニュアンスを含む。 「……分かった。どうせ旅行へ行くって言ったら問い詰められるだろうから、俺の方から言っておくよ」 「うん。お願い」 祐巳にこのことを話したら、何を言われるか分かったものじゃない。それでもいずれはバレることだろうし、キチンと断ってから言った方が楽しめると思う。 だから由乃さんの両親についてのことは、少々後ろめたいけどこれでいいだろう。……しかし、重要な人が残っている。 「でも、……令さんは?」 祐麒がそこが肝心とばかりに問いかけると、由乃さんは難しい顔で考え込む。そして長いような短いような十秒の後、由乃さんはゆっくり口を開いた。 「令ちゃんには、ちゃんと言っていく。令ちゃんには、一番に私たちの仲を認めて欲しいから」 「……うん。そうした方がいい」 祐麒は言いながら、由乃さんの肩を抱く腕に少しだけ力を込めた。 令さんにとって由乃さんが、また由乃さんにとって令さんが、掛け替えのない存在であることは知っている。誰に聞かずとも、それは見れば分かることだ。 祐麒と由乃さんがあんな雰囲気を出せるようになるのは、一体何年後のことなのだろう。祐麒は由乃さんのことが好きだという気持ちに置いて、令さんには引けを取らないと思っている。それでも、あの信頼しきった目で祐麒のことを見てくれるのは、当分先のことだと思うのだ。 「楽しい旅行にしようね」 由乃さんの言葉に、「そうだね」と呟いて。 祐麒は自分でもよく分からない衝動に押され、そっと由乃さんに唇を近づけた。 『はぁ!?』 それは受話器で伝えられる音量を超えたため、破れた様な声だった。 「ちょっと、電話口で叫ばないでよ」 由乃は耳に指を突っ込みながら、電話の向こうの友に文句を言う。まあ、確かにショッキングな事実だったとは思うけど、そこまで驚かれることだろうか。 『だって、付き合いだしてまだ二週間ぐらいでしょ? それで旅行は早いって』 電話の向こうの友――ちさとさんは、説得するような口調で由乃に語る。 ちさとさんはよっぽと由乃の恋路が気なるのか、このところよく電話をかけてくるのだ。 だから彼女には、由乃と祐麒君が上手く行ったことを伝えてある。まだ祐麒君の名前は明かしていないけど、ちさとさんは聞こうとしないから、それほど重要なことではないと思っているのかも知れない。 「……そうかな」 『そうよ。もしかして、彼の方から誘われた?』 「ううん、私から」 『由乃さん……。あなたって』 やっぱり大胆よね。 ちさとさんはそう言うと、大仰に溜息を吐いた。確かにちさとさんの言うとおりだけど、そこまで呆れられることだろうか。 「大胆でも何でも、私はどうしても行きたいのよ。このままダラダラ冬休みを過ごしていくのは、もったいないじゃない」 そう、もったいない。これから忙しくなる時期だから、滅多に会えなくなるかも知れない。 そんな寂しい時に、時折ふわりと回顧できる思い出があれば、それは何と心強いことだろう。勿論それだけが目的ではないけど、純粋に二人っきりの旅行に憧れているのだ。 『そうかも知れないけど。……令さまは?』 不意にそこで、重要な人名が出る。――令ちゃんは? 「勿論、ちゃんと言ってあるわよ。……怒ってたけど」 『怒っていた?』 「うん。そりゃもう反対されて、どうして何の相談もなくそう言うことを決めるのって、保護者みたいなこと言い出して」 『……うん』 「それで私も言い返しちゃって、喧嘩になった。……本当に久しぶりだったな、私から謝ったの」 『謝ったんだ』 「うん。それで、何とかオーケーは貰えたってわけよ」 思い出すのは、ついさっきまでのこと。 由乃だって、後悔することは多々あるのだ。令ちゃんに認めてもらいたいなら、真っ先に令ちゃんに言っておくべきだった、って。 だから思いのほか、素直に謝ることができた。それで令ちゃんも思い直したのか、「二人のことに首を突っ込むべきじゃないね」って、晴れて許可をもらうことが出来たのだ。 『でも、由乃さんはいいの?』 「え?」 『ほら、その。……二人で旅行ってことは、彼の方も『期待』していると思うんだけど』 ――期待。 それが何なのか、一々訊いて確かめる必要もない。 『それについて、由乃さんはどうなのよ』 さて、何て言ったらいいものか。実はもう、古い言い方で言えばBまでいっているというのに。 「……別に、問題ないわよ」 『どうして?』 「だってもう、そういうことしていいよ、って言ってあるし」 『――』 流石にそれには、ちさとさんも絶句するしかないようだ。 まあ、リリアンの生徒なら当然か。由乃だって、突然ちさとさんからそんな話を聞かされたら、同じ反応をするに違いない。 『していいって……本当にいいの?』 「そりゃ、よくなかったらダメって言うわね」 『どうして、そんな簡単に』 「簡単じゃないわよ。私なりに考えて、彼なら大丈夫だと思ったの。それに、嫌がったら止めてくれると思うし」 『由乃さん、その考えは甘いわよ。男は狼、勢いがついたら止まらないんだから』 「そんなことないってば」 『……そうやって即答できるってことは、そうとう彼にお熱みたいね』 さちとさんは、本日二度目の溜息を吐いた。お熱って言い方、古い。 由乃もちさとさんの真似をするように、大袈裟に溜息を吐く。ちさとさんは、由乃が付き合い出したのが祐麒君であるということを知らない。だからこそ、そんな意見が出てくるのだ。 しかしあそこまで行った以上、今更ダメとも言えないし、言うつもりもなかった。そんなことで、万が一呆れられたり、嫌われたりしたら嫌だから。 「悪かったわね、お熱で」 『いいえ、恋路が順調なのはいいことよ。ただ私が言いたいのはね』 由乃が「何よ」と聞くと、ちさとさんははっきりとした声で言った。 『覚悟して行け、ってことよ』 なるほど、覚悟。 それは重要で必要なことだと、由乃は静かに頷いた。 「はぁっ!?」 その叫びは耳を塞ぐのが一瞬遅れたため、祐麒の鼓膜を突き刺すような大声だった。 「ふ、二人で旅行って……」 まあ、祐巳が驚くのは無理もないと思う。突然部屋を訪れて、『あなたの親友と旅行に行かせていただきます』って内容を伝えたのだ。驚かなかったら、こっちが驚く。 「……まあ、そういうことだから。口裏合わせてよ」 家に帰った後、祐麒は祐巳に今日の話をした。大雑把に、由乃さんの方からの提案で旅行に行くことになったと伝えたのだ。 「いつから?」 「明後日から、次の日まで」 「ってことは、やっぱり泊まりなのよね」 祐巳はそう言って、珍しく難しい顔で唸る。 まあ、祐巳がそう考え込むのも無理はない。いくら世間離れしたリリアンの生徒とは言え、一人の女の子。そういうことを勘ぐらないわけがない。 「由乃さんから誘われたのなら、私は文句を言えないけど。……でも祐麒、ヘンなこと考えてないでしょうね」 やっぱりな、と祐麒は思った。祐麒じゃなくても、そう考えてしまうだろう。 しかし、これに何と答えたらいいのだろう。『実はもうペッティングを済ませました』なんて言ったら、平手をくらうだろうか。 「……どうしてそこで黙るの」 祐巳はベッドの上で、クッションを構えながら言った。祐麒に取ってみれば、そこは察して欲しいところである。 「……ノーコメント」 「……ふーん。まあいいけど」 祐巳は構えたクッションを下ろしつつ、「それにしてもさ」と続けた。 「随分、早いんじゃない? いくら恋人同士とは言え、旅行なんて」 まあ、そこも突っ込まれると思っていた。 確かに付き合い出して二週間ぐらいで旅行というのは、世間一般から見ても早いだろう。しかし、世間一般というのは平均値であり、由乃さんと祐麒とは違う。こんな時こそ、『十人十色』という言葉を使うべきではないだろうか。 十組いれば十通り。この件に関して言えば、二人が合意の上で旅行に行くのだから、今こそ旅行に行って然るべき時、ということになると思う。 「確かに早いかもね」 けど、そんなことを祐巳に語っても話がこじれるだけ。反対はされていないのだから、それを話すことは無意味に思えた。 「由乃さんも何考えてるんだろう……」 そう言って祐巳は中空を見詰めた。 当然そこには、何もない。もしかしたら、祐巳なりの考えとか答えとかが、そこに浮かんでいるのかも知れないが。 「まあ、分かったわ。口裏は合わせるけど、祐麒。この前私が言ったこと、覚えているよね?」 この前――。果たしてそれは、どのぐらい前の『この前』なのか。 祐麒が視線を上に上げて考えていると、祐巳は溜息混じりに言った。 「言ったでしょ。『大事にしなさいよ』って」 ああ、言われた。確かに覚えている。 ――大事にしなさい。 その言葉が、再び祐麒の思考を縛りつけてくる。だんだん自分がどうしたいのか、分からなくなってくる。 本能として抱きたいと思い、理性として由乃さんを大切にしたいと思う。由乃さんは「いいよ」と言ってくれるけど、その親友であり祐麒の姉は時期尚早だと言う。 いずれ、どれかを選択しなければいけないのだとは分かっていた。だから、こうして迷うのだということも。 「その言葉の意味、ちゃんと考えてから行きなさいね」 珍しく祐巳は、姉貴風を吹かせながら言う。 祐麒はそれに「分かったよ」とだけ言って、祐巳の部屋を後にした。
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