■ 愛、しあう?
    四話『make it easy?』
 
 
 
 
「さあ、行きましょ」
 
 そう言う由乃さんに祐麒が連れてこられたのは、小さな体育館のような場所だった。
 テカテカと明るく光る床に、深緑の台。それにラケットと、ピン球。
 
「やっぱり、温泉って言ったら卓球よね」
 
 由乃さんはカツーンとピン球を弾ませながら、ラケットを握る。……何故そんなに気合が入っているのだろう。
 そりゃ、祐麒だって少し意地悪なことをしたと思っている。けどそれは由乃さんの行動に起因するものだし、別に怒られるような類のものではないと思うけど。
 
「それじゃ、行くわよー」
 
 だけどやる気になっている由乃さんを放っておくわけにもいかず、祐麒はラケットを握る。
 それにしても、由乃さんに卓球の経験なんてあるのだろうか。一応、ラケットの持ち方は間違っていないけど。
 
「はっ」
 
 サーブ権も決めていないのに、由乃さんはピン球を宙に放る。赤いラバーでそれを一閃すると、ピン球は見事に――。
 
「……あれ」
 
 ネットへと、突き刺さっていた。ちなみにワンバウンドすらせず、真っ直ぐに。
 
「えっと……。ルールは知ってるよね?」
「し、知ってるわよ。失礼ね」
 
 気を撮り直して、もう一回。今度は上手く祐麒の方までやってきたが、いかんせん球速がない。
 祐麒がそれを打ち返すと、由乃さんはラケットで思いっきり宙を切る。カツンカツンと、寂しげにピン球が転がる。
 
「由乃、先に言っておくけど、十一点先取で二ゲームまでね」
「……何でよ」
「だって、それ以上すると汗かくからさ。風呂入った意味なくなるし、由乃が勝つまで終わりそうもないし」
「あーっ、それすっごい挑発してるわよね。いいもん、二ゲームとも勝つから」
 
 由乃さんはそう言って浴衣を腕まくりすると、「よしっ」と気合を入れ直す。
 さっきから思っていたことだけど、由乃さんにはこれでもかというほど浴衣が似合っていた。腕まくりに三つ編みなんてスタイルは、特にそう感じる。
 それを可愛いな、なんて思いながら身体が描く挙動に注目していると、祐麒の横をピン球がかすめて行った。
 
「やった! これで一対二ね」
 
 由乃さんはそう言って、小さくガッツポーズ。
 いけない。侮っていると、一杯くわされかねない。
 
「……手加減してたら、怒るよね」
「あら、祐麒ったら随分強気なんだから。してもしなくても勝つもん」
 
 いつの間に決まっていたのかサーブ権の移動は五ポイント制らしく、由乃さんの方からのサーブ。
 カコーンと打たれたピン球を、気持ち強くレシーブする。由乃さんはまたもスマッシュで返そうとして、今度はラケットに当たったものの見当違いのところに飛んでいく。
 
「あーん、何よこれ。ピン球が軽すぎるのよ」
 
 切歯して悔しがる由乃さんを見て、祐麒は『まずいなぁ』と思った。
 手を抜けばすぐバレるだろうし、抜かなければ勝手に自滅して行くし。
 
「よーし、行くわよー」
 
 その声と同時に繰り出された、由乃さん渾身のサーブは。
 
「……あれ」
 
 またもネットに突き刺さった。
 
 

 
 
「あー、悔しいっ」
 
 由乃は地団駄を踏みたい気持ちを押さえつけながら、部屋へと戻る。
 結局、リベンジは不可能だった。二ゲームとも由乃の負け。……というか、由乃が勝手にミスを連発して負けたのだ。予想外の屈辱である。
 
「しょうがないよ、初めてだったんでしょ?」
「……そんなの理由にならないもん」
 
 由乃は祐麒君に倣って居間の座椅子に腰を下ろし、溜息をついた。
 いくら初めてでも、限度があると思う。思ったより回転サーブは効かないし、そもそもまともにサーブできたのが少なすぎる。屈辱を通り越して情けない。
 
「はー」
 
 でも、これ以上の勝負は無理だ。はしゃぎ過ぎて体調を崩したらまた祐麒君に迷惑がかかるし、いい感じに身体が温まっている。これ以上運動したら汗だくになって、またお風呂に入らなきゃいけなくなるし、そんなに代えの下着を持ってきていない。……と言うか、今着ているのがいわゆる『勝負下着』なのである。
 派手じゃないけど、少しはお洒落な感じのするやつ。それをわざわざ無にするような真似はしたくない。
 
(あ、まただ)
 
 またそんなことばっかり考えている。意識してしまえば、それだけ緊張してしまうというのに。
 しかし祐麒君はと言えば、テレビを付けてくつろいでいる。それに真剣に考え込んでいた自分がバカらしくなって、由乃は流しへと向かった。由乃が祐麒君を卓球場に引っ張って行ったから、デザートとにしようと思っていたお茶請けがそのままだ。
 流しの前に立ってみると、意外と広い。冷蔵庫もあるし、奥には個室のお風呂もあった。今更の発見である。
 由乃が冷蔵庫を開けて見ると、色々な瓶が入っていた。ビールにミネラルウォーター、それに栄養ドリンクの類。どの瓶の上にも定価の二倍ぐらいする数字が書かれた札がついていて、当然有料らしい。
 赤マムシドリンクなんていうのもあったから、『これを祐麒君に飲ませたらどうなるだろう』なんて考える。目をギラギラさせて襲いかかってきちゃうかも、なんて想像すると怖くなって、由乃はバタンと冷蔵庫を閉めた。
 
「よし、っと」
 
 ポットのお湯でお茶を入れると、湯飲みをお盆に置く。それを持って居間に戻り、恭しく「はい、どうぞ」と祐麒君の前にお茶を置いた。祐麒君は「おっ」と小さく声を上げ、柔らかく微笑む。
 
「ありがとう、忘れてた」
「うん」
 
 その笑みを見ると急に満たされた気持ちになって、由乃は座椅子を持ってきて祐麒君の隣に座った。祐麒君は、何も言ってこない。何気なく由乃がしなだれかかっても、尚。
 由乃はお茶を飲みながら、お茶請けを観察する。ぷるぷると震える、漉し餡の水饅頭。大分置いておいたけど、冬場だから大丈夫だろう。由乃は竹串でそれを切ると、一欠けらだけ口に含んだ。
 
「美味しい」
 
 由乃がそう呟くと、祐麒君は「どれ」と竹串に手を伸ばす。しかしそれが水饅頭を切る前に、由乃は勝手に祐麒君の分の水饅頭を切った。
 
「はい、祐麒」
「な、何で?」
 
 由乃がそれを口元に近づけると、祐麒君は狼狽した。
 
「ほら、食べて」
「いや、自分で食べるから。恥ずかしいじゃん」
「何言ってるのよ、さっき私に同じことしたクセに」
「それは、由乃が先にやったから」
「あー、もう。つべこべ言わずに食べなさい」
 
 何だか仕掛けているこっちまで恥ずかしくなってきて、由乃は強引に水饅頭を突き付けた。観念したように祐麒君の口が開き、水饅頭を受け入れる。
 
「美味しい?」
「……美味しいよ」
 
 照れている祐麒君が可愛くて、由乃は「よしよし」と頭を撫でてみた。そっぽを向きながら「何だよ」と言う仕草は、年端のいかない男の子みたいだ。
 やがてお茶請けがなくなると、いよいよ手持ち無沙汰になる。ボケッとテレビを見ながら他することはないか、なんて考えていると、重要なことを思い出す。
 ――令ちゃん用のマフラーが、まだ製作途中じゃないか。
 
「よいしょ」
 
 由乃は部屋の隅に寄せてあった鞄を引き寄せると、毛糸球と途中まで編まれたマフラーを取り出した。令ちゃんの希望で、ベビーピンクのマフラーだ。
 
「由乃、それは……?」
 
 それに気付いた祐麒君が、マフラーを見て不思議そうな顔をした。
 
「これね、令ちゃん用なの」
 
 由乃はマフラーを編み出しながら、静かにそう言った。祐麒君は「へぇ」と言いながら、毛糸玉を手に取る。
 
「結構無理言って、旅行に行くことをオッケーしてもらったのよ。今頃寂しがっているだろうし、帰ってすぐ巻いて上げられたらいいなって」
 
 編み棒を繰りながら、『祐麒君は分かってくれるかな』と思う。大好きな人へ向ける、慈しみの気持ちを。
 もちろん男の子でなら、祐麒君が一番好き。そして同性なら、令ちゃんが一番好きだ。どっちの方が、なんて量れるものでもないし、天秤に掛けたって無駄だろう。一直線な好きという気持ちは、揺れることなんてないのだから。
 
「嫉妬する?」
「……しないよ」
 
 由乃が頭を祐麒君の肩にのせると、彼は小さくかぶりをふる。
 
「一応俺は、由乃にとっての令さんの立場は理解しているつもりだよ。だからこそ令さんを大事にすることは、大切だと思う」
「思ってたより、大人なんだね」
「……まあね」
 
 それっきり、言葉はなかった。祐麒君の言葉に棘はなかったから、その言葉が本当なんだと信じたい。だけど祐麒君は優しさで包み込むのが上手いから、それが時々不安をくすぐる。
 窓を見れば、相変わらず雪が降り続いていた。それが浮世離れというか、現実感をすり減らしていく。
 
「……」
 
 雪が舞うよりゆっくりと、時間は揺蕩(たゆた)っている。
 ふと由乃は、令ちゃんや菜々は今頃どうしているだろうな、と思った。
 
 

 
 
 日が落ちると、時間の感覚が薄らぐ。
 ご飯を食べて、卓球をして、テレビを見始めて、一体どれだけの時間が経っただろう。由乃さんは時折テレビを見てはチラリと笑みを見せ、かと思えば身体を前に倒して編み物と格闘している。ひたすら長閑で、あまり中身は詰まってなくて、それでも大切な時間。
 
「……ふぁ」
 
 不意に由乃さんは小さな欠伸を漏らすと、編み物をする手を休めた。マフラーは編み始めた時に比べると、若干完成に近づいたように見える。
 
「眠い?」
「……まだ大丈夫」
 
 由乃さんは少しだけ祐麒の方へと傾いで、またチクチクと編み棒を繰る動きを再開する。
 ――眠い?
 そんなことを訊いて、祐麒はどうするつもりだったんだろう。もし「うん」と答えられたら、祐麒はどうすればいいのだろう。
 壁掛け時計の秒針が微かな音をたてて進みたび、夜はその深さを増していく。静謐と雪に守られた世界に、二人を邪魔するものはいない。止めるものだって、誰も。
 
「祐麒は」
 
 不意に由乃さんは、祐麒へと視線を上げた。
 
「もう眠い?」
「……いや、まだ」
 
 眠いなんて、言えるものか。今の状態は目が冴え過ぎているぐらい。一人で布団に入ったって、きっと眠れやしない。
 仮に祐麒だけ先に布団に入ったとして、後々由乃さんが布団に入ってきたらどうなるだろう。……平静でいられる自信がない。貪欲に渇望する心は、枷さえ食いちぎるだろう。
 
「布団、一組しかなかったよね」
 
 由乃さんは編み物の手を休めると、毛糸を片付け始める。その言葉への応えを探しているうちに、編み物一式は鞄に飲み込まれ、二人の会話が彷徨う。
 
「どうする?」
「どうする、……って?」
 
 由乃さんの問いの意味は漠然と分かっていながらも、祐麒は問い返した。だんだんと逃げられない領域に踏み込んでいっていると、理解しながら。
 
「だから、その……」
 
 ああ、それを言わせるのか。
 祐麒は自身へと問いかける。そういうことを女の子の方から、言わせていいのか。
 
「由乃が言っているのは、するのかしないのか、ってこと?」
 
 自ら地雷を踏むような気持ちで、祐麒は訊いた。
 する、しない。
 それが何かと言えば、房事だとか性交だとかセックスだとか言われることであり、説明の必要はない。
 
「……うん」
 
 小さな声での、受け答え。その首肯が、もう答えを取り下げられないと言っている。
 
「祐麒は、したいんでしょ?」
 
 見上げてくる視線が、どんどん祐麒を追い詰める。今更逃げることも、隠すこともできない。
 
「うん……。だけど」
「だけど?」
「迷ってる。……かな」
 
 それが今の祐麒の考えを表す、もっとも簡潔な答えだと思う。
 ずっと前から悩み、迷い、未だ答えは見つかっていない。優柔不断もいいところだ。
 
「俺はさ。由乃のことが好きだし、そういうことしたいって思う。でも、だからこそ迷う」
「どうして?」
 
 本当に、どうしてなんだろう。答えは分かっているのに、言葉にするのは難しい。
 由乃さんのことは、本当に好きだ。感動したら一番に由乃さんに伝えたいし、美味しいものがあったら由乃さんと一緒に食べたい。辛い時に隣にいて欲しいのは由乃さんで、楽しい時は由乃さんと一緒に過ごしたい。きっと由乃さんがいなくなったら、祐麒は正気じゃいられない。
 
「由乃のことが一番大事だから、かな。……なんて言うか、ヘンな言い方だけど、俺の欲望のまま汚してもいいのかなって」
 
 だから、由乃さんのことを傷つけるのが怖い。きっとさっきの貸し切り風呂みたいに、我慢できなくなる。押さえ切れない欲望が、理性を飲み込んでしまう。
 
「大丈夫よ」
 
 だけど由乃さんは、きっぱりとそれを否定した。何か絶対的な根拠でも持っているかのように、はっきりと言い切った。
 
「祐麒は優しいから、私が嫌がったら止めちゃうでしょ?」
「……それは分からない。俺って、そこまで出来てないよ」
「じゃあ私だって、祐麒が思っているほど綺麗じゃない。独占欲は強いし、嫉妬だってするし、自分で思っているより傲慢だし」
 
 それは、由乃さんの言う通りかもしれない。でも人は不完全だからこそ惹かれる。好きになるんだって分かっているから、そんなことは問題じゃない。
 だけど祐麒がそれを言葉にする前に、由乃さんが口を開いた。
 
「どうして欲望なんて言葉が出てくるの?」
「え……?」
「祐麒は難しく考えすぎなんじゃない? 私のこと大切にしてくれてるっていうのは分かるんだけど……」
 
 ――それじゃ前に進めないじゃない。
 本当に小さな声で、由乃さんはそう言った。
 
「大体、『欲望』だとか『汚す』とか、ちょっと言い方が後ろ向きなのよ」
「後ろ向き?」
「うん。だってそういうことって、普通『愛しあう』って言うでしょ」
 
 愛、しあう。
 綺麗な言葉で飾るなら、そういうことなんだろう。
 
「そういう風に考えられない?」
 
 深い色の瞳が、祐麒に問いかける。
 欲望で汚すのか、それとも愛しあうのか。それは単なる表現の違いだけじゃなくて、大きな意味の違いを持っている。
 
「……由乃は、愛しあう方がいい?」
「そりゃ、もちろん」
「分かった――」
 
 祐麒は由乃さんの顔を引き寄せると、軽く唇を押し当てた。
 
「でも俺、止まれないかも知れないよ」
「……大丈夫。ちゃんと覚悟してきたから。むしろ止めないぐらいの気持ちの方が、中途半端にならなくていいと思う」
 
 そう言った由乃さんの声は、緊張の色を孕んでいて。
 それでも、もう決めた。欲望で汚すんじゃなくて、由乃さんを愛するんだと。
 だからもう、止まれない――。
 
 

 
 
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