■ 紡いだ絆の温かさ
    五話『明日はChristmas』
 
 
 
 
 クリスマスが近づくにつれ、街の色は変わる。
 赤と緑のコントラストは目にも鮮やかに、もみの木を彩る電飾は煌びやかに。周りがクリスマス色に染まり行くのを見るたび、期限が迫っているのを思い知らされる。
 
「……」
 
 けれど、それももうすぐ終わる。
 編地を返してとじ針に糸を通し、裏目をすくって糸を引き抜く。余った糸は切り取って、糸始末は終了。
 
「……できたっ!」
 
 完成したマフラーを、由乃はバッと広げた。ブラウンの、出来たてのマフラー。最初と最後の方では編み目の大きさが違う、拙い作品。
 それでも、ちゃんと完成した。見た目は完璧とは言えないけど、そこまで目立たないだろう。
 
「あー」
 
 なんだか嬉しくなって、マフラーを抱き締める。きっと達成感って、こういう気持ちを言うんだろう。由乃は抱き締めたついでに、ちゃんと巻けるかどうか試してみることにした。
 二つ折りにして、折り目とは反対の端をマフラーの間に通す。マフラーの端を胸の前に垂らすと、ふわりとした温かさと安心感で満たされた。
 
「よしっ」
 
 小さくガッツポーズを決めて、すぐに「はぁ」とベッドに寝転がった。時計を見れば、もう午前三時だ。
 このままじゃ絶対に間に合わない! とあせり出したのが数日前。〆切に追われる作家モードになったのは昨晩、クリスマスイヴイヴである二十三日の夜のことだった。
 しかし、苦節数時間。大急ぎなんだけど慎重に編み上げたマフラーは、由乃が作ったにしてはいい物ができたと思う。
 
「……っと、もう寝ないと」
 
 感慨に耽るのは、このぐらいでいいだろう。そろそろ寝ないと、明日に響く。……というか、もう響くこと間違いなしの時間だ。
 プレゼント用の紙袋に詰めなくちゃ、と思ったけど、よくよく考えてみればそのまま巻いて上げればいいのだ。もし祐麒君がマフラーを巻いてきた場合、取ってもらわなくちゃいけないけど。
 そう決めると由乃はマフラーをお出かけ用のバッグに詰めて、部屋の照明を落とした。そのままするりとベッドに潜り込むと、さっさと目蓋を閉じる。
 
(さて、どこで渡したらいいんだろ)
 
 寝ようと思って目を閉じたのに、思い浮かんでくるのは由乃がマフラーを渡すシーン。何て言って渡そうか、とか、まだ考えなくちゃいけないことは色々あった。
 デートの予定は、午後六時にM駅集合。そこから食事をとるために料亭へ移動する。料亭は由乃のリクエストで、その後は祐麒君の提案でイルミネーションを見に行くことにしている。――となると、やっぱりイルミネーションを見ている時に渡すのが一番だろうか。渡せるような雰囲気でなければ、後は帰り道の途中に渡すかだ。
 
『精一杯ぶつかっておいで』
 
 そこまで考えると、不意に令ちゃんの言葉が蘇ってきた。
 ぶつかっておいで、――ってことは、それはやっぱり『ちゃんと好きって言うべき』って意味なのだろう。
 男の子に好きだと言う。それすなわち、告白である。
 好きな人に好きだということは、簡単なようで難しい。令ちゃんに「好き」と言うのは簡単だけど、祐麒君に言うのとは違うのだ。
 令ちゃんなら、由乃のことを好きって言ってくれるから。でも祐麒君は、そう言ってくれるか分からないから。だから、少しだけ怖い。
 本当に自信のあることなら、真正面から戦い抜くことができるけど、今回は違う。祐麒君がデートに誘ってくれたのはただの好意で、異性としての好きじゃないのではないか。――そんな不安が、心の中を羽ばたいている。
 
(あーもう、らしくない)
 
 まただ、と由乃は思った。いつもイケイケ青信号、気付けば止まれなくなっているのが常だというのに、祐麒君のことを考えると臆病になる。由乃はそんな自分が、あまり好きじゃない。
 いい加減腹を括れと、自分に言い聞かせる。斬るためには、斬られる危険を背負わなくちゃいけない。いつの世だって、そういうものだろう。傷つくのを恐れていたら、本気でぶつかることなんて出来やしないのだ。
 
「よし」
 
 由乃はわざと声に出して言った。これは決意表明だ。
 ちゃんと言おう。『好き』って。折角の舞台、逃げるのは卑怯じゃないか。
 言うタイミングがあるとすれば、きっとマフラーを渡す時か、イルミネーションを見ている時。それで決定。
 
「……はぁ」
 
 由乃はベッドの中で身体の向きを変えると、目覚まし時計を手に取る。
 夜光塗料の塗られた時計の針は、午前三時を過ぎたところで重なっていた。
 
 

 
 
 M駅のロータリーは、まったくいつも通り機能している。走り去るバスと、入れ替わるタクシー。何か違うことがあるとすれは、その騒音の向こうから聞こえてくるクリスマスソングだろう。
 日を追う毎に音量の増すクリスマスソング。増えていくお洒落をした木々に、孤独と幸せを叫ぶ声。――今日は、クリスマスイヴだった。
 
「……」
 
 腕時計に視線を落とせば、午後五時五十分。待ち合わせの時間には、十分ほど早い。
 祐麒は白い息を吐き出しながら、早く来ないかな、と思った。
 由乃さんと過ごす時間は、特別だ。一緒にいるとハラハラドキドキするのが多いのは事実だけど、それは決して嫌な感覚じゃない。とても大切な時間なんだと思う。
 
「お待たせ」
 
 早く会いたい――。そんな想いを、北風が運んでくれたのかも知れない。
 振り返れば、そこに由乃さんの姿があった。
 
「大分待った?」
「うん、待った。……って言ったらいいのかな、ここは」
 
 思い出すのは初めてのデートのことで。祐麒が笑いながら言うと、由乃さんは「祐麒君、いじわる」と言って笑った。
 由乃さんの出で立ちは、アシンメトリーのデザイン・ロングスカートにベージュのフリンジジャケット。ジャケットの下から覗く刺繍入りのトップスが可愛いらしい。それに加えて三つ編みを解いたあとであろうウェーブヘアは、由乃さんという素材のよさをこれでもかと引き立てていた。
 
「それで、本当に長いこと待っていた?」
 
 祐麒が見惚れてしまっていると、由乃さんはそれに気付く様子もなく訊いてきた。
 
「いや、つい五分前ぐらいに来たところ」
「本当に?」
 
 首を傾げて訊いてくる由乃さんに、祐麒は「本当に」と首を縦にふった。……けど、本当は違う。以前のように遅刻してなるものかと、五時半前ぐらいから待っていたのだ。
 
「なら、確かめさせてもらうね」
「え……?」
 
 しかし由乃さんは、そう言うとおもむろに祐麒に詰め寄る。そして何を思ったか、片手を祐麒の頬に添えた。
 
「冷たい。……やっぱり結構前から待ってたんだ」
「……気にするほど長くは待ってないよ。由乃さんを待たせたくなかっただけだから」
 
 頬を包む手は、思いのほか熱い。それは如実に待っていた時間を表しているわけだったが、由乃さんはそれについて追求はして来なかった。
 
「お心遣い、ありがとう。それじゃ、これ以上冷えるといけないから早く行きましょ」
「そうだね」
 
 その言葉を合図に、祐麒たちは歩き出す。
 目指すのはS駅近くにある料亭。北風が背中を押してきたけれど、不思議と寒さは感じなかった。
 
 

 
 
 背の低い木々に飾り付けられた電飾は、赤、黄、青、緑と明滅を繰り返す。腕を組むカップルたちは楽しそうに、スーツ姿の小父さんは足早に、その隣を歩き去って行く。そんなS駅前の大通りから少し外れたところに、由乃たちの目指す料亭があった。
 
「予約を入れていた福沢ですが」
「はい。二名様でご予約の福沢さまですね。こちらへどうぞ」
 
 店員さんに案内され、二人用の座敷に通される。予約制の個室だったから、襖を閉めれば密室。照明は地域情報誌の写真で見た時と違って間接照明だけだったから、思ったより室内は暗かった。ムーディー、ってやつなのだろう。
 お店は物凄い高級店、というわけではなかったけど、そこそこ名の知れた料亭。その割にはイベントに敏感らしい、と、祐麒君が照明が暗い理由について語ってくれた。
 
「それにしても、寒かったね。今日は今冬一番の冷え込みなんだって」
「そうなの? お天気マークは曇りだったけど、もしかしたら雪が降ったりして?」
「どうだろ。降雪確率は十パーセント未満だったと思うけど」
 
 祐麒君の話を聞きながら、由乃はそれはちょっと残念だと思った。イルミネーションを眺めている時に降ってくれたら、忘れられない思い出になっただろうに。
 そんな何気ない会話を続けていると、「失礼します」と襖が開く。予約した時に頼んでおいたコース料理ができたらしい。
 
「ごゆっくりどうぞ」
 
 雅びな懐石料理を並べ終えると、女給さんは一礼をして襖を閉める。そうすれば、そこはまた密室だ。
 
「それじゃ」
 
 祐麒君がそう言って湯飲みを持ったから、由乃もそれに倣う。
 
「……メリークリスマス」
「メリークリスマス」
 
 ちん、と湯飲みを触れ合わせる。クリスマスイヴにお茶で乾杯。あんまりにもミスマッチで、自然と笑みがこぼれた。
 一口だけお茶を飲むと、お腹に火が灯ったみたいに身体が温まる。それに何だか安心して、ふと目蓋が下りてきそうになった。
 
(いけない、いけない)
 
 いくら寝不足続きだったとは言え、デート中にうつらうつらしていちゃダメだろう。
 由乃は『さあ食べるぞ』と気合を入れ直して、箸を取った。まずは雪輪蓮根、次は鰆の味噌幽庵焼き。どれも見た目通り、期待を裏切らないお味だった。
 
「美味しい。この店は当たりね。雑誌で紹介されていただけあるわ」
「はは、由乃さんのチョイスだしね」
 
 美味しい物って、それだけで笑顔の素になると思う。ついでに気だるさまで吹き飛ばしてくれればいいんだけど、それは多くを望みすぎか。
 逆に和んでしまって、全身を包む気だるさは増すばかり。……更に言えば、視界まではっきりしなくなってきた。動いているうちは気にならなかったけど、やっぱり疲れていたんだろうか。
 
「由乃さん?」
 
 急に会話が途切れたのが気になったのか、祐麒君は顔を覗き込んでくる。
 しかし、気付かれるワケにはいかない。今日は目一杯楽しんで、――それからちゃんと言わなければいけないことがあるのだから。
 
「何。どうかした?」
「いや、急に黙り込んだから、どうかしたのかなと思って」
 
 体調が悪いとかじゃないんならいいんだ――。と、祐麒君は食事を再開した。
 あぶない。祐麒君はよく気が利くから、その分演技力がいる。
 
「それより、この焼き物美味しいわよ」
「どれ……。あ、本当だ。これはいけるね」
 
 祐麒君は鰆の味噌幽庵焼きを一欠けら口に放り込むと、嚥下してから言った。
 決して、悪くはない雰囲気。それを体調不良だなんだで、滞らせるわけにはいかない。
 重い身体を吹き飛ばすように、由乃は「でしょ?」って笑った。
 笑っていれば、きっと気付かれない。一緒にいるだけで、それは笑顔の理由になってくれるから。だから隠し通すことは、簡単だと思っていた。
 
 

 
 
 祐麒が由乃さんの異変に気付いたのは、店を出る前からだった。
 
「由乃さん」
 
 料亭の扉が閉まる音を背中で聞きながら、祐麒はその名前を呼ぶ。
 待ち合わせ場所で会った時点では気付かなかったけど、由乃さんはどうも本調子ではないらしい。その証拠に「何?」と振り返る動作は、お世辞にもしっかりしているとは言えなかった。
 
「祐麒君、どうかした?」
 
 どうかした、って。それはこっちの台詞である。
 食事中の由乃さんは、実によく笑顔を見せてくれた。しかし、ふと気を抜いた時に見せる翳りのある顔は、何ごとかと祐麒に不安をさせるのだ。
 
「ちょっとごめん」
「え? あ……」
 
 不躾だとは知りながら、祐麒は由乃さんの額に手を当てた。
 
「……やっぱり」
 
 額は、熱かった。明らかに高熱であると分かるほどに。
 さっき由乃さんの手が頬に添えられた時に思いのほか熱かったのは、彼女自身に熱があったからなのだろう。それについさっきまで気付かなかった自分が恨めしい。
 
「熱、あるよね」
「……微熱よ。いつものことなの」
「微熱なんかじゃないよ」
「気にしないでも大丈夫だってば。ほら、次行こう?」
 
 由乃さんはおねだりするように言ってくるけど、ここで折れるわけにはいけなかった。
 咳きはしていないけど、風邪を引いているのかも知れない。そんな人を、今冬で一番に冷え込むという日に連れ回したらどうなるか、考えるまでもなかった。
 
「ダメだよ」
 
 由乃さんは袖を掴んで引いてくるけど、それには頑として動かずに。――祐麒は小さくかぶりを振った。
 
「帰ろう。そんな熱じゃ、立ってるのもつらいはずだ」
「……やだ」
 
 祐麒の言葉に、由乃さんの表情が悲しそうに歪んだ。
 そんな顔は、出来ることなら見たくないし、させたくもない。それでも、これ以上外を出歩かせるワケにはいかなかった。
 
「どうしてそんなこと言うのよ。私なら大丈夫だってば。ねえ、早くイルミネーション見に――」
「由乃さん」
 
 由乃さんの言葉を遮断して、祐麒ははっきりと言った。
 
「……帰ろう」
 
 由乃さんの瞳に、また一つ悲しみの色がのる。それに胸が締め付けられたけど、これだけは譲れない。
 一瞬、由乃さんの言うことを聞いてあげるべきじゃないのかという考えもよぎったけど、きっとそれは正しい選択ではないだろう。つい昨年まで身体が弱かったという由乃さんだから、こういう時ははっきりと「No」と言わなくてはいけない。……例えそれが、由乃さんを悲しませることになっても。
 
「祐麒君……」
「お願いだから、言うことを聞いてよ」
 
 袖を握ってくる手に優しく手を添えながら、祐麒は言う。
 由乃さんの顔が俯き、表情が見えなくなる。由乃さんの身体が少しだけ傾いで、額が祐麒の胸板にあたった。
 
「……ごめん」
 
 蚊の鳴くように小さい声が、耳朶に触れる。
 それに何て返したらいいか分からずに、祐麒は由乃さんの肩に手を置いて歩みを促した。
 
「……」
 
 冷たい風が吹いて、由乃さんの髪を躍らせる。軽快なクリスマスソングが背中を撫でてていくのが、今はただ空虚だった。
 駅へと歩きながら、祐麒は言葉を捜す。今の由乃さんに、必要な言葉を。
 
 

 
 
 一言で言えば、最悪だった。
 それはもう、目も覆いたくなるほどに。
 
「……はぁ」
 
 M駅からでる循環バスを、リリアン女学園前で下りる。身体に圧し掛かる気だるさは増すばかりで、頭もボーっとした。
 今すぐ倒れ込みたいほど、身体は重い。こんな調子じゃ、どの道祐麒君には見抜かれていただろうな、と思う。
 
「大丈夫?」
「うん……。平気だから」
 
 本当はちっとも平気じゃないくせに、強がりだけはしっかりと。そんな自分が、ひたすらに空しい。
 
「……」
 
 リリアン女学園前から約十分の家路が、今は随分と長く感じる。
 地面が揺れているような感覚。けどそれを気取らせないように、精一杯足を踏ん張って歩いた。
 本当に家まで持つの? と身体に訊けば、早く休ませろと文句が返って来る。限界が、近い。
 
「……おぶろうか?」
「いい……。ただ、ちょっと休みたい」
 
 幸いなことに、角をあと一つ折れれば公園がある。そこまでいけば、ベンチで休めるだろう。
 あと二十メートル、あと十メートル、あと五メートル――。頭の中でまわるメーターがゼロを示した時、由乃は崩れるようにベンチに腰かけた。
 
「寒くない?」
「……うん」
 
 曖昧に返事を返すと、身体がベンチに張り付くような錯覚に襲われる。はあ、と思わず出てきた溜息は、冷たい公園の空気に吸い込まれた。
 ――まったく、どうして。
 肝心な時にダメになってしまうんだろう、この身体は。あれだけ楽しみにしていたのに、あれだけ一生懸命にマフラーを編んだのに、それが仇になって体調不良だなんて。
 これでは、修学旅行の時と変わらないではないか。ちょっと寝不足になって、ほんの少し疲れたぐらいで熱を出す。周りに迷惑をかける。
 
(悔しい――)
 
 唇をかみ締める。この悔しさは、もう二度と味わうことはないと思っていたのに。
 蘇ってくるのは、手術する前に幾度となく感じた歯痒さ。身体が言うことを聞かない無力感。憧憬を抱くだけの、弱くて怖がりな自分。
 由乃は手術して、自分は変われたんだと思っていた。前よりずっと強くなって、やりたいと思っていたことに全力で挑んで、与えられるのではなく自ら得ることができるようになったんだと。
 
 けれど違った。手に入れた健康であるはず身体は、まだ不完全だった。
 生まれつき、だなんて納得のいかない理由で、また手の届かない歯痒さを味わっている。好きな人に好きというチャンスですら、棒に振ってしまっている。
 
(悔しい、悔しい――!)
 
 何なんだ、この身体は。これじゃちっとも強くなんてなっていない。令ちゃんは、あんなに強くなれたのに。これじゃ何も変わっていない。
 
「うっく――」
 
 知らずに涙が流れて、嗚咽が漏れた。
 ――違う。こんな弱い姿を晒したいわけじゃない。
 なのに身体は言うことを聞かずに、ポロポロと涙を転がす。
 
「……由乃さん?」
「ひっ……く。ごめん……なさい。ちが、うの……っ」
 
 ――違う。こんなの私の望んだ姿じゃない。
 由乃の心のどこかで、そう叫ぶ自分がいる。それでも涙は止まってくれない。
 
「ごめ、ん……っ」
 
 もう、消えてしまいたかった。
 わがまま言って、迷惑かけて。いきなり泣き出して、困らせて。
 
「ごめん、ね……っく。私、迷惑ばっかりかけて……」
 
 本当は今頃イルミネーションを見て、『綺麗だね』って笑い合っているはずだったのに。
 それからマフラーをプレゼントして、由乃が祐麒君に巻いてあげて。それから『好き』って伝えるはずだったのに。
 
「由乃さん……」
 
 全部、全部叶わなかった。望んでも、何も手に入らなかった。
 結局強くなんてなれなくて、祐麒君好みの女の子にもなれなかった。
 
「あのさ……」
 
 ふと祐麒君が動く気配がして、由乃の肩に手が置かれる。
 ――やめて欲しい。
 優しい言葉なんていらない。そんなの惨めさをかき立てるだけだ。
 由乃は身を捩って、祐麒君の手から逃れようとした。だけど思いの他祐麒君の手には力が篭っていて、それもままならない。
 
「聞いて、由乃さん」
 
 肩に置かれた手に力が入れられて、くいと祐麒君の方を向かされる。そして祐麒君は、涙に濡れた由乃の顔を覗き込みながら言った。
 
「それでもさ……。俺は由乃さんのことが好きだよ」
 
 

 
 
 その言葉は、本当に自然に出てきた言葉だった。
 
「……嘘よ」
「嘘じゃない。俺は本当に、由乃さんのことが好きなんだ」
 
 祐麒の言葉を聞いた由乃さんは、驚きに目を見開き、そしてすぐそっぽを向く。
 恥ずかしがっているのか、嫌がっているのか、そんなことは分からない。それでもむせび泣く由乃さんの姿を見たら、どうしたって止まらなかった。
 
「……私、全然祐麒君の好みのコじゃないもの」
「そんなの、どうでもいいんだ。俺は由乃さんが由乃さんだから好きになった。由乃さんじゃなきゃダメなんだ」
 
 涙に濡れた頬が、公園の外灯で輝く。見上げてくる視線が、心を射抜く。
 今まで堪えてきた感情が、溢れ出すみたいだった。もう、好きで好きでどうしようもない。可愛いとか、愛しいとか、百個並べたって足りなかった。
 
「それに俺は、迷惑だなんて思ったことは一度もないよ。由乃さんのために何かできることがあるって、誇りにしてる。今日だって、由乃さんのことが大事だから勝手に俺がそうしたんだ」
「……祐麒、君」
 
 祐麒を見詰める瞳が曇り、揺れる。その瞳に、心が囚われる。
 抱き締めたい――。
 そう願った瞬間、胸に飛び込んでくる温かさがあった。
 
「――嬉しい」
 
 涙色の由乃さんの声が、心に響く。震える肩を抱き締めると、由乃さんは祐麒の胸でまた泣き始めた。
 ふわふわのウェーブヘアを梳きながら、片方の手で背中をさする。胸を満たす温かさも、止まらない嗚咽も、全てが愛しい。
 やっと言えた、やっと通じたんだと、胸が震えた。
 
「……」
 
 ――そして。
 抱き合って、もうどれぐらいたったか分からなくなった頃。身体の震えを止めた由乃さんは、祐麒の胸板に頬を寄せながら言った。
 
「ねえ、祐麒君」
「……何?」
「好き」
「……うん」
「大好き。ねえ、好きって言って」
「……好きだよ」
「……もっと言って」
「世界で一番、由乃さんのことが好きだ」
 
 好き、って言葉が嬉しくて、また抱き締める。
 折れてしまわないように、優しく。気持ちが伝わるように、強く。
 
「――」
 
 ……音はない。凍てつきそうなほど寒い。それでも、満たされている。
 心の堤防は、とうに倒壊していた。好きという気持ちが溢れては、流れだしていくばかり。『好き』なんて言葉じゃ陳腐すぎて、声に出して伝えられない。
 もう伝えられたかな、ってぐらい長く抱き合うと、どちらともなく抱擁を解いた。それが、少しだけ寂しい。
 
「歩ける?」
「うん。大丈夫」
 
 由乃さんに手を貸して、ベンチから立ち上がるのを手伝う。そして取り合った手を絡めたまま、また帰り道を辿り出した。
 響く足音は二つ。靴底がアスファルトを打つたび、音は暗闇に吸い込まれる。
 もっと一緒にいたい――。そう願っても時間は止まってくれないし、由乃さんの家への距離は伸びたりしない。
 やがて由乃さんの家に到着すると、由乃さんは「ちょっと待ってね」と言ってバッグを開いた。そしてそこから姿を現したのは、ブラウンのマフラー――。
 
「クリスマスプレゼント。自分で編んだから、出来はイマイチかもしれないけど」
 
 そう言って、由乃さんはそのマフラーを巻いてくれた。
 手編みのマフラー。由乃さんが自分のために編んでくれたというのが、飛び上がりそうなほど嬉しい。もう一度抱き締めたくなったけど、こっちからも渡すものがあった。
 
「……ありがとう。俺からは、これ」
 
 祐麒はコートのポケットからプレゼントの箱を取り出すと、両手で由乃さんに手渡す。
 開けてみてもいい? という質問に頷くと、箱の包装が解かれていく。そして由乃さんの手に残るのは――。
 
「リボン……?」
「うん。何がいいか分からなかったんだけど、やっぱりいつも使えるものの方がいいかなって」
 
 照れ隠しに頬をかいていると、由乃さんは「嬉しい」と言って笑った。
 由乃さんは自分の髪の一房をとると、ヘアゴムで留める。そしてその上に、シルク地のリボンを結った。
 
「……ありがと。嬉しい」
 
 由乃さんはそう言って微笑むと、祐麒の首に腕を回してくる。
 抱き付いてくるのかな、と思ったけど、違う。二人の間には、密着しているとは言えない間があった。
 
「――目、閉じて。それから少ししゃがんで」
「……うん」
 
 言われるがまま、目を閉じる。それがどういうことか分かっていたけど、戸惑いはなかった。
 由乃さんのいい香りを近くに感じて、心臓が早鐘を打つ。首に回された手に、力が篭る。
 ――そして。
 
「ん……」
 
 唇に、温もりが灯った。
 
「――」
 
 重ねるだけの、触れ合わせるだけの、本当に拙い口づけ。
 やがて唇が離れても、心に燃え移った火は消えない。
 
「……やっと、ちゃんとキスできたね」
 
 目を開けば、そこには笑顔があって。その言葉に思い出すのは、初めてのデートのことで。
 今度こそフェイクじゃなく、ぬいぐるみとでもなく、ちゃんと唇を合わせられたのだと実感する。
 
「長いようで、短かった。……かな」
「うん……」
 
 照れくさくて、思わず笑う。
 涙の跡が残る頬は、火照って赤く。彷徨う瞳は、恥ずかしげに揺れる。
 
「それじゃ、ね。また電話してもいい?」
「うん。いつでもいいよ」
「……うん。分かった」
 
 そっと身体を離すと、由乃さんは踵を返す。一歩、二歩と、玄関へと近づいて行く。
 やがて玄関の扉に手が届くぐらいまで歩くと由乃さんは振り返り、声無き声で『またね』と言った。
 大きく振られる手に、手を振り返す。扉の向こうに消える笑顔は、雪の代わりに舞い下りてきた天使みたいに可愛らしかった。
 
 
 ――明日はクリスマス。
 ジングルベルの音は聞こえない、雪も降らない、そんな静かな聖夜。
 
 何となく、雪が降ればいいと思った。
 響く足音は一つで、祐麒を満たしてくれる人は隣にいない。それでも、凍えることなんてないはずだ。
 
「……はー」
 
 吐いた息は白く、遥か後方へと流れていく。吹きつけてくる北風に、マフラーを抱き締める。
 ――こんなにも静かに流れ落ちる夜に、たった一つの温かさを見つけたから。
 きっと凍えることなんて、ない。
 
 

 
 
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