春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.32
ファースト・クリスマス・モーニング
 
*        *        *
 
 
 由乃の家は、決して新しいとは言えない。
 何がどうしてそうなったか分からないけど、二階の由乃の部屋は寒い。毎朝外と数度しか違わない室温になるから、一度寒さで目が覚めて、もう一度寝るのが常だった。
 だからだろうか。温かく、快適な朝というのは、凄く違和感がある。
 
「ん……」
 部屋はやけに広く、照度を落とした間接照明が部屋全体をうっすらと照らしていた。
 絶対に睡眠の邪魔をするかと言わんばかりの音量で、聞きなれた有線のクリスマスソングが流れている。部屋は温かく、むき出しの肩も寒さを感じない。
 ぼーっとして、上手く頭が回らない。それでもいいやと思わせる何かが辺りを取り巻いて、脳が活発になるのを防いでいるような気さえしてくる。
 この気だるさは、何なんだろう? 知っているけれど、どうやらそれは久しぶりらしくて、何が原因なのか分からない。太ももは何か筋肉痛のような感じがするし、顎もだるい。
 これが現実だという事を確かめるように、右手を上げて目の前にする。クリーム色の光を受けた腕が、白くぼんやりとその存在を確かめさせた。夢じゃないし、酩酊の見せるずれた現実でもない。
 パタンと腕を落とすと、もぞもぞと隣が動いた。隣? 確かに、隣に誰か居る。
「……」
 恐る恐る振り向くと、そこには“誰か”の背中とうなじが見えていた。一気にバクバクと心臓が高鳴り、反比例するように血の気が引いた。
 大体、後姿だけで誰か分かる。だけどそう通りでも、その通りじゃなくても大問題だ。
 手探りで確かめると、由乃もその人と同じく、何も身に着けていないみたいだった。つまりは素っ裸だ。顔に突っ張る感じがあって、触ってみるとカサカサになっている部分と妙にツルツルになっている部分がある。
 そーっと起こさないように、布団から上体を起こして、その“隣の人”の寝顔を確認する。祐麒はまるで子供のような表情で、深い眠りの中にいる。ひとまず安心して、そしてすぐに安心している場合じゃないと思い直す。
 ベッドの横を確認したけれど、ゴミ箱はない。なるべく音を立てないように、ベッドから抜け出す。一応ヘッドボードの上を見たけれど、ご丁寧にも二つとも袋は開けられ、包装だけがそこにある。となれば、あったはずの中身と、それが正しく使われたか確かめなくてはならない。さっきに比べれば、嫌に頭が冴えている。羽織るものを探したけれど何もないから、生まれたままの姿で部屋を歩き回る事になる。
 案の定、探し物は由乃のいた方とは反対側のゴミ箱にあった。口を縛られ、中身のあるものが一つと、縛られていないものが一つ。安心していいのか悪いのか、後者一つが問題だ。
 頬に手をやって、カサカサのものを擦ると、それはかさぶたのように取れにくくて、何度か擦ってようやく取れた。そういう事なら、いいのだけど。
 素っ裸のまま突っ立っているのも心もとなくて、由乃はベッドに戻った。頭の中を整理する。さて、ここはどこだ。明らかにラブホテルだ。ここでナニをしていた? それはもう、考えるまでもない――。
「―ー由乃?」
 急に声がして、由乃は心臓が止まるかと思った。さっきまでスースー寝ていたのに、起きたのに全く気がつかなかった。
「起きたんだ」
「……うん」
 一瞬目があっただけで、由乃は目を逸らした。まっすぐその目を見れない。
 そのまま、会話は止まった。何を話せばいいのか迷って、何も話さなくても分かっている事だと思い当たる。そうして祐麒に背を向け、もう一度考えて、やっぱり確かめなくては気が済まないという結論が導き出される。
「一応聞くけど」
 由乃は思っていたより擦れた声に、自分でも驚きながら続けた。
「その……しちゃった?」
「は?」
 は、って。それはどっちの「は?」なんだ。何を当たり前の事をって意味なのか、何とんでも無い事を言っているんだって「は?」なのか。
「まさか自分から言っておいて、覚えてないの?」
 自分から言っておいて、って何だ。由乃から、だって事?
 祐麒が何か喋る度に、由乃は酷く混乱した。自分から――その言葉を聞いた途端に色々と昨晩の出来事を思い出して、パンク状態になる。本当に色んな事の端々が思い出されて、上手くストーリーに繋ぎ直す事が出来ない。
 まず最初は、どこからだっけ。多分、もう歩けないとだだをこねてラブホテルに入って、それからそうする事になった『きっかけ』がなんだったか思い出せない。だけど都合の悪い事に、それがはっきり由乃主導だった事は思い出す事ができた。それはつまり祐麒に丸め込まれたからとかありがちな自分のいい訳は使えないという事だ。
「私から、だったね」
 振り返って見て見ると、祐麒も由乃に背中を向けていた。また見えた裸の背中に、由乃は心拍数が上がりっぱなしだ。
 段々と記憶の欠片が繋ぎ直されて、時間の流れにそった形に出来上がっていく。思い出すだけで赤面してしまう台詞と格好が、暴れ出したい衝動を大きくさせる。
「ひょっとして、後悔してる?」
「いや、その」
 後悔する資格なんて、由乃にあるのだろうか。アレだけ求めておいて? うんと言ったら、絶対そう祐麒はそう言うぐらいなのに。
 今更ガンガンと頭が痛くなってきた。昨日は誰がどう見たって、飲みすぎだった。後悔しても、今更遅すぎる。
「ううん、してない」
 そう言うのが精一杯だった。後悔があるとしても、少なくとも行為に対してじゃない。飲み過ぎた事に対してだ。
 由乃がもう一度祐麒の方に視線を移すと、今度は目が合った。そして「あっ」と言う間もなく、唇を奪われる。
「……よかった」
 抱きしめられる感覚に、身体だけじゃなくて心まで締め付けられる。このままもう一度、何もかもに流されてしまいたくなる。
 けれどもう、由乃はすっかり酔いがさめてしまった上に、必要以上に頭が冴えている。時計を見れば、短針は五時を指していた。
「祐麒」
 もう一度見つめ合い、今度は少し顔同士の距離を取る。そして毅然として、言う。
「今日の事は、無かった事にして」
 在った事が無かった事になる何て事はありえない。それは分かっている。
 そう言ってすぐに背を向けるとベッドから抜け出して、薄暗がりの中で目を凝らした。ベッドの周りには、脱ぎ散らかした由乃と祐麒の服がある。
 いそいそを下着を身に着けていると、祐麒は由乃の背中に言った。
「分かったよ」
 そう言って祐麒も服を着る。
 
 
 ホテルから出ると、当たり前だけど外は真っ暗だった。あまりにも冷たい風が、瞬く間に体温を奪っていく。
 白い息を吐きながら、二人とも何もしゃべらずに駅まで歩く。今日は一日中消さないつもりなのか、クリスマスの電飾は煌々と周りを照らしている。この冬一番の冷え込みだからなのか、光は鋭く温かい。
「由乃」
 駅が近くなって、不意に祐麒がそう呼んだ。
「何?」
 カツカツと、靴音が響く。白い息は一層白く、はるか後方に流れていく。
 
 それから駅に着くまで祐麒は何も喋らなかった。何を言いたいか由乃には分かったから、何も言わずにただ歩いた。
 一番ぬくもりが欲しい、クリスマスの朝。由乃はそれがどこにあるのか、ただ一人で探していた。
 
 
 
 
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