春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.31
シャンシャン
 
*        *        *
 
 
 逃げる、という事を覚えたのはいつからだろう。
 それは多分、自分との付き合い方が少し分かったなって気になった、その日からかも知れない。
 
「これ」
 由乃が口をつけたグラスをテーブルに置くと、祐麒の視線が横顔に注がれるのが分かった。
「美味しい……」
 聞いた事もないような、一回声に出して言っただけでは覚えられないような名前のカクテルは、ほのかにイチジクの香りを残していた。少し、本当に少しだけれど、気が紛れる。
「由乃、いつもよりペース早くない?」
「そうね、ちょっとだけ早いかもね」
 由乃は頬の火照りを感じながら、一言そう答えてからもう一口を口へ含む。
 あれから――爾衣ちゃんとばったり会ってから、由乃たちは延々と歩いた。行く当ても会話もほとんどなく、夕方になってようやく開き始めたお店に、逃げ込むように飛び込んだ。お腹空いた、って、その一言だけで。
「今日は肩、貸さないからな」
 祐麒はそう言って、またカウンターの向こうの酒瓶に視線を戻してしまう。クリスマスに夕方からお酒を飲んで、ただ時間が過ぎていくのを待つなんて、本当大学生らしくない。
 けれど――。
「いいよ、じゃあおんぶしてって貰うから」
「あのなぁ、俺はそんなつもりで誘ったんじゃないぞ」
 けれどそのクリスマスの夜に、今爾衣ちゃんは何を思っているんだろう? 一番見たくない所を見て、一体どんな気持ちだろう?
 多分その辛さを、由乃は知っている。同じ痛みじゃないかも知れないけれど、傷の深さはきっとそう変わらない。そしてその痛手を負わせたのは、他でもない由乃だ。
「じゃあ、どんなつもりで誘ったの?」
 心の真ん中が、不穏に渦を巻いている。由乃は、逃げたのだ。この上もなく、逃げた。
 今日はもう帰る――そう言って帰ればいいのに、そうしたらきっと押し潰されてしまう。爾衣ちゃんの気持ちを考えて、考えすぎて、思い出して、そして偶然と運命に恨み言を連ねていたに違いない。
「俺はただ……」
「ただ?」
 だけど由乃は、そうしなかった。横に祐麒がいたから、それだけで何故か少し許された気持ちになって、本気で自分を責める事を放棄したから。
 結局由乃は、ずるい。こんなに強く自分に対してそう思うのは、きっと人生で初めてだってぐらい、そう思った。
 曲がった事や筋の通らない事は大嫌いだったのに、掴める“藁”を知ってしまうとこんなに弱くなるのだろうか。なりたくなかった自分がこんなに近くに居た事に、今の今まで気付かなかった。
「由乃と一緒に居たかったから」
 ペースの速いお酒に早くなっていた心臓が、その一言でまた早くなる。
「あんな涙を見た後、一人で居たら頭がおかしくなりそうでさ。結局、甘えてるんだよな」
 ストレートな言葉にこっ恥ずかしく思ったのか、祐麒は目を逸らしてそう言った。甘えてるのは、由乃の方だ。
 店内を駆け回るジャズが、「ほら、もっと酒を飲め」と言っているような気がして、由乃は半分くらいまで減っていたグラスの中身を一気に飲み干した。テーブルの上に置かれてコンといい音を立てると、グラスを磨いていたバーテンダーが無言で由乃たちの席に近づく。
「レッドアイを」
 由乃が何か言うよりも早く、祐麒がそう告げる。
「ちょっと、勝手に注文しないでよ。えっと、『神風』下さい」
 レッドアイが酔い覚ましのお酒だってことぐらい、由乃にだって分かる。かしこまりました、と言って引っ込んだバーテンダーの背中を見ながら、祐麒はため息を吐いた。
「神風って、飲んだ事あるの?」
「ない。ないから頼んだの」
 人の事を無責任に「好き」って言うくせに、こういう時はしっかり保護者面をする。でもそれはそうか。由乃がつぶれたら、祐麒が面倒に見る他ないのだから。
「お待たせしました。神風です」
 そう言われて目の前に出てきたグラスを、由乃はくいっと傾けた。思っていたより、三倍はお酒が強い。けれどむせかえるわけにもいかず、半ば無理矢理嚥下する。
「由乃さぁ。学習ってもんを知らないのか? そのペースじゃ、絶対俺がおんぶするハメになるぞ」
「学習ぐらい、知ってますよーだ」
 学習しなかったら、今頃また祐麒と付き合ってて、明日ぐらいには別れてるかも知れない。遅くても年明けだろうか。
 そんな皮肉的な事を考えてたら、自虐の味をしめてしまいそうだ。お酒の力って、本当に凄い。さっきまでの暗い気持ちは、もう風船ぐらいに軽くなっている。
「祐麒はさ、なんで私の事また好きになったの?」
 丁度グラスに口をつけていた祐麒は、由乃の質問に「うっ」と反応した。
「由乃やっぱり飲みすぎだろ」
「いいから答えて」
 見つめるのと睨み付けるのの半分ぐらいの目力で言うと、祐麒は「まあ落ち着け」と言うようにゆっくりグラスを傾けた。何秒かの空白が、にわかに由乃を緊張させる。
「……また好きになったって訳じゃない。嫌いになって別れたわけじゃないよ」
「じゃあ何で別れようって言ったの?」
「それはその時言っただろ、疲れたんだよ。その時は本当にそれだけだった」
「じゃあもう疲れないの? ただのバイト仲間でいるのと、付き合っているのは違うよ?」
「分かってるよ。っていうか、知ってる。そういうのじゃなくてさ」
 祐麒も真似するみたいに、半分残っていたグラスの中身を、一気に飲んだ。珍しく、頬が火照っている。
「分かったんだよ。どれだけ由乃が必要かって。疲れても何でもいい。何でもいいから、手放しちゃいけなかったんだって」
 祐麒の眼差しの矢が、まっすぐ由乃に突き刺さる。目を通り越して、心の奥の奥の方まで。
 歯の浮くような気持ちと、純粋に嬉しいと思う気持ちが、砂糖とミルクのように解けあっていく。見境のなくなるまで、固体は液体になる。
「嫌いになった事なんて、一度も無い。好きって気持ちが磨り減った訳じゃないんだ。むしろ前より、大きくなってる」
 祐麒の手が、由乃の手に重なる。握り締められる。祐麒の激しい脈動が伝わって来たみたいに、由乃の心臓は跳ね回る。
「必要なんだよ。このままいつか離れ離れになるなんて、想像もしたくないんだ」
 そんな事、言われたら。
 
 シャンシャンとクリスマスの鈴の音が、頭の中を駆け巡る。
 そんな事言われたら、由乃はどうしたらいいか分からなくなる――。
 
 
 
 
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