春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.30
クロース家
 
*        *        *
 
 
 ドキッとするというか、有り触れた表現で言うならトキメキってやつは、いつも唐突にやってくる。
「可愛いなぁ」
 そう言った祐麒の視線の先には当然由乃――ではなく、サンタの家に絡みつくようにして遊んでいる子供たちだった。いや、少しもがっかりなんてしていない。
 何て言ったらいいのか、由乃にも分からない。穏やかな口調と、その柔らかな表情が、心の琴線に触れてキラキラと音を立てているようだった。
「うん」
 もうちょっと気の利いたコメントの一つでも出てこないのか、と思ったけれど、どうもこれ以上言葉が出ない。喉が詰まっているのか、胸が詰まっているのか分からない。
 ビルの吹抜けの真ん中に建てられた、というよりも設置されたサンタの家は、それはもう家族連れで賑わっている。平日のせいか、お母さんに連れられて来ている子が多い。
 他のカップルは遠巻きに見ているだけだし、なんともロマンチックなクリスマスとは程遠い。そんな中で一人ドキドキしている自分は、サンタの家で遊ぶ子供たちとは違うけど似ているのかも知れない。
「子供を見てさ」
「うん?」
 ようやく祐麒の目が、由乃の方を向いた。
「可愛いって言うの、初めてだよね」
「そうだっけ? いっつも思ってるけど」
 由乃はまだヨチヨチ歩きの赤ちゃんなら可愛いと思えるのだけど、きゃっきゃと跳ね回る年頃になるとどうだろう。その年頃の子でも可愛いって思えるのは、祐麒の方が精神的に大人びてるって事だろうか。
「中、入ってみようよ」
 見ていたらサンタの家の中から、他のカップルが出てきた。完全に子供向けってわけではないみたいだし、ここまで来て外観だけ見て帰るというのもバカらしい。
「あっ」
 祐麒は先に歩き出した由乃を、手を引っ張って止めた。由乃は自分の身体に急ブレーキをかけてあたりを見回すと、左手の方に駆けていく子供の背中が見えた。あぶない、足をかけて転ばせてしまう所だった。
「行こうか」
 と、今度は祐麒が先に歩き出した。何故か由乃の手を、握ったまま。
 サンタの家に入るまでかと思ったら、中に入ってもまだ手を離さない。時間が経つにつれて、心臓の鼓動は大きくなっていく。
 化粧板のレンガと木目鮮やかな扉、妙な動きでユラユラ揺れる暖炉の火。これ以上ないぐらいの偽物だと分かっているのに、まるで不思議の国にでも迷い込んだように感じるのは、きっと祐麒のせいだ。
「一人暮らしには丁度いい広さかな」
 祐麒は冗談で言ったのだろうけど、由乃はちっとも笑えなかった。というか、そんな余裕も無かった。
 今日ほど自分の“スレてなさ”を恨めしいと思った事はない。なんなんだろう、このしてやられてる感。涼しい顔をしている祐麒が、少し憎らしい。
「あのさ」
 だから由乃は、反撃に出る事にした。
「手、離してくれる?」
「何で?」
 はっきり言ってやった、と思ったら抜け抜けと反問してくるとは。その態度にこっちが「なんで」と訊きたい。
「何でって、別に私たち付き合ってるわけじゃないし」
「でも由乃、この前俺の事好きって言ったよね?」
 瞬時に由乃は、ポンコツのパソコンみたいにフリーズした。走馬灯の速度(想像上だけど)の速度で記憶が蘇り、確かにそう言ったのを思い出した。
 たった一ヶ月がそこら前の事だ。祐麒と食事に行って、祐麒の事が好きだと言った。思い出して赤面してくるぐらい、はっきりそう言った。
「だ、だから?」
「だから、別にいいよね。嫌じゃないでしょ?」
「嫌じゃないけど……」
 言った後、「あ、負けた」と思った。びっくりするほどあっさりと。
 惚れた方の負けという言葉を、今ほど実感した時はない。嫌がる理由を全部、持って行かれてしまう。手を繋ぐ事を嫌がる事自体、普通の恋愛感から見れば歪な事だけど。
 ――そうだ、歪なんだ。
 何を今更と思うけれど、そう考えてみてようやく気付く。お互い好きなのに、怖がっている。そう言えば聞こえは大人の恋愛っぽいけど、由乃の場合はただ臆病なだけ。
「……」
 こうなったら無理やり振りほどいてやれ、と無言で腕を動かしたけれど、思いの他祐麒はしっかりと由乃の手を握っていて離れない。お父さんかお母さんに手を繋いで貰って手をブンブン振り回す子みたいになってしまった。
「なんか、喜んでる子みたいだね」
「……うるさい」
 まるで心を読んだみたいなコメントに、由乃は複雑な気持ちになった。癪で、どこか我慢なら無いような、それでいて居心地は悪くない。
 してやられっぱなし――今までだったらそれに耐えられなくて、憤慨したっておかしくないはずだ。それなのにこんな気持ちになるのは、きっと由乃は変わってしまったからなんだろう。そしてその由乃を変えてしまった張本人は、いつもこの手の中の人だった。
(あぁ――)
 落っこちそうだ。下から上にまっ逆さまに。
 素直に身を任せてしまえるなら、どんなに楽なんだろう。誰より自分が一番面倒臭い。サンタの家の中なんてもうどうでもいいぐらいに浮ついているクセに、認めたくない、それを封じ込めようとしている。
 
 ものの五分ぐらいで見終えてしまったサンタの家を出ても、祐麒は手を離そうとしなかった。吹抜けの建物から出る瞬間、そっと手を離そうとした由乃の手を、ぎゅっと握ってくるぐらいだった。
 どうしてそうまでするぐらい、祐麒は由乃がいいのだろう? 素直じゃないし、性格だって自分でもいいとは思わない。
 そう考え出すと不思議だった。そういう所が嫌だったはずなのに、どうして祐麒は由乃の事が好きって言えるんだろう。街を早足で歩く人たちは、手を繋いで歩く由乃たちを見ても何も不思議とは思わない。本当はこんなに不思議なのに。
 駅に向かって一言二言喋りながら歩いていても、まともに祐麒の顔が見れないから前ばかり向いていた。由乃たちの事を、じっと見つめる人に気付くまで――。
「あ……」
 祐麒も、多分同じタイミングで気付いたんだろう。とっさに手を離そうとすると、あんなに硬く握り締めていた手から、すんなり抜け出せた。
「爾衣ちゃん……」
 祐麒も由乃も、その先に続く言葉を見失っていた。爾衣ちゃんは瞬きもせずに、由乃たちの事を見ていた。さっきから表情が変わっていない。
「……そんなに慌てなくてもいいのに」
 短い沈黙を破ったのは、無理して明るい声を出した爾衣ちゃんだった。
「そう言う事なら、言ってくれればいいのに」
 ふふふ、と、また無理して笑った。だけどその目の色は、見覚えがある。こんなにも明るい空の下で、何より暗く沈んだ目を、由乃は見逃す事なんてできなかった。
「爾衣ちゃん、あの」
「じゃ、また明日ね」
 何か言いかけた祐麒の言葉をばっさり切って、爾衣ちゃんは早足で歩き出してしまう。
 振り返った見た爾衣ちゃんの姿は、どんどん小さくなっていった。背中に何も寄せ付けない雰囲気だけをまとって――。
 
 
 
 
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