春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.29
もう一度、クリスマス
 
*        *        *
 
 
 怖かった。もう一度壊されるのを想像するだけで、もう十分だった――。
 
 目覚めるには早過ぎたクリスマスの朝。辺りはまだ薄暗く、床は氷のように冷たい。そろりそろりと歩いて窓を開けたけれど、外は雪の積もった形跡もなく、ただ冷たい風が鼻先を冷やしただけだった。
 ぼんやり。
 外灯も、頭の中も、現実感を否定している。昨晩何を考えて、どうして眠りに落ちたのか、冷たい風を三度も吹き付けられなければ思い出せなかった。
「あ……」
 涙が出そうだ。そう思って目元を擦ったけれど、何も出ては来なかった。当然かも知れない。これはきっと、きっと大した事ではないのだから。
 一度フラれた男に、また告白された。それだけであって、何も大した事はない。それよりも夜明けの風の冷たさの方が、大きな問題だ。
 あまり音を立てないように窓を閉めると、飼い主の寝ている布団に潜り込む猫みたく暖かい場所に戻った。はぁっ、と大きく息を吐き出すと、何かに開放されたように全身が楽になった。思いの他早く、眠りの世界に戻れる予感がした。
 考えない。何も考えるな。それが二度寝の最短コースだと知っているから、昨日の事を反芻しようとする頭に待ったをかける。幸いにも昨日の疲れが残っていたのか、頭は全然働いていない。
 もう、いいんだ――難しい事を考えるのは。
 いつだったか令ちゃんと一緒に見たドラマの台詞が、由乃を眠りに誘ってくれる。もう一度深い眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。
 
 
 けたたましい音で起こされたのは、それから五時間後の事だった。
「もしもし……?」
 携帯の画面は寝起きの目には刺激が強すぎるから、半分目蓋を閉じたまま通話ボタンを押した。その相手が誰だか、分からないまま。
「もしもし、起きてた?」
 その声で、一気に脳は覚醒した。電話で自分の寝坊を知らされた時って、こんな感じになるんだろうか。
「……寝てたよ」
 三秒前までは、と恨み言の一つも言いたくなる。
 しかし、何でか分からない。どうしてあんな事があった翌日に、祐麒は電話してこれるのだろう。
「あ、ごめん。早かったかな」
「早くはないけど」
 時計を見れば、午前十時。いつもの休日なら、起き出す頃だ。
「で、何なの?」
 寝起きのしゃがれた声のせいで、何だか不機嫌そうな感じになってしまう。いや、実際不機嫌なのか。
「あ、うん。由乃、今日予定ある?」
 昨日の今日で電話してきて、よくもいけしゃあしゃあと訊けたものだ。クリスマスの日に、予定あるかなんて。
「無いけど……何?」
「じゃあ、出かけよう」
「はあ?」
 思わず高い声が出た。由乃の知っている祐麒からは想像も出来ない言動ばかりで、何だか驚かされてばかりだ。
「な、なんで」
「実は後五分ぐらいで由乃の家の前に着く」
 祐麒は質問には答えず、そうきっぱりと言った。時計を見ると、五分の短さがよく分かる。
「ちょ、急過ぎ」
「あ、急がなくていいから。外で待ってる」
 と言って、祐麒は一方的に電話を切った。もう初めから最後まで、祐麒らしくなくて混乱する。
 大体なんで、こうもいきなり強引になるんだ。急いでクローゼットを開けるけれど、何を着ていいか分からない。
 一体どういう作戦なんだろう――そう考えながら着替えていたら、ボタンを掛け違えていた。イライラするというより、もどかしい。
 階段を転がるような勢いで駆け下りると、キッチンの扉の向こうから「おはよう。朝ご飯は?」という声が聞こえた。要らない! と返す頃には、玄関で靴をつっかけていた。
「お、おまたせっ」
 玄関を出て、門を開けた所で祐麒は待っていた。そう言えばノーメイクだと思ったけれど、もう遅い。高校の頃はそれが普通だったんだから、今更だ。
「うん、待った」
「うそ、電話して来た時、本当はもう着いてた?」
「いや、待ったのは三分ぐらいだけど」
「あ、そう……」
 なんだこの、朝から疲れる会話。祐麒はジーンズに白のダウン姿で、なんだか余裕の笑みを浮かべている。お前は銀杏王子かと言いたい。
「とりあえず、行こう」
 そう言ってスタスタと歩き出されたら、ついて行くしかない。いやもう、出かけようって言われて着替えている時点で、それは決まっているのだけど。
「どこに行くの」
「とりあえず、K駅。着いた時点で腹減ってたら、何か食べよう」
 とりあえず、って事は、明確に誰かとどこに行きたいってわけじゃないらしい。それもそうだろう。きっと今日由乃と出かけようと思ったのは、昨日の晩か、今日の朝なのだろうから。
 駅に向かう足取りは、こっちの勘繰りなんてお構いなしに早い。駅についても、電車に乗っても、祐麒が何を考えているのか、全然分からなかった。
 改札を抜けると、あまりにも冷たい朔風が頬に吹きつける。ストールを巻いた女性は、一人早足で外へと向かう。
 昨日、感じた通りの風景だ。クリスマスなんて浮かれた行事は、きっとみんなもっと前に済ましているのだろう。いかにも仕事着の人たちは、クリスマスなんておかまい無しに忙しない。
「さて、着いたけど腹減ってる?」
「……減ってない」
 もう時間はお昼時だったけれど、全然お腹が減っていない。というか、減っているのかも知れないけれど胃の入り口が締め上げられているような、そんな感じだ。
「そっか、でも俺は減ってるから、あそこで買ってきていい?」
 そう言って祐麒が指差したのは、サンドウィッチのチェーン店だった。メニューに載っている色とりどりのサンドウィッチの写真が、胃の扉をノックする。
「私も、一つ。重たくないの」
「はいよ」
 苦笑と微笑を混ぜこねたような笑顔で、祐麒はお店の中に入って行った。レジには先客が三人、メニューの書かれた看板を見上げている。
 それにしても、寒い。この寒さなら、一人だったら間違いなく出掛けなかっただろうと、電飾の消えた小さなクリスマスツリーを見ながら思った。
「お待たせ」
 いい加減店の中に入って待とうかと思った頃に、祐麒が店内から出てきた。はい、と渡されたサンドウィッチの包みには、ベジタブルと書かれたシールが張ってあった。
「寒いな。由乃も食べるんだったら、中で食べる?」
「うん。っていうか、最初からそうすればよかった」
 寒い思いをした分、何か損した気分だった。自動扉の向こうは、狭い天国だ。
 日向の席を陣取ると、祐麒はローストビーフがたっぷり挟まれたサンドウィッチを包み紙から取り出した。なんで男の子ってこんなに肉が好きなんだろうって、不思議に思うぐらいガツガツとサンドウィッチを食べていく。
 上着を脱いで椅子にかけ、由乃もサンドウィッチを頬張る。この店に入るのも、一緒のサンドウィッチを食べるのも初めてなのに、何故だか懐かしい気持ちになる。
「ねえ」
 何で私を誘ったの?
「それちょっとちょうだい」
 そう訊くつもりだったのに、口先は急に路線変更して、祐麒の食べていたサンドウィッチを一口持っていっただけだった。間接キス――なんてモノを気にしていた時期が、遠く昔に感じる。
「今日行きたい所が、あるんだけど」
 由乃が口をモゴモゴさせている時に、祐麒は言った。
「何?」
「サンタの家、それからイルミネーションが見たいな」
「はあ」
 らしくもなく、生返事をしてしまう。ひょっとして一人じゃ行きたくないから由乃を誘っただけなのか? って思ってしまうけれど、それにしては昨日の今日でタイミングが悪過ぎる。言い方からして、今思いついたみたいだった。
「サンタの家って、北極? それとも南極?」
「いや、S市にあるけど」
 なんだ、電車で三十分圏内か。まあ今から飛行機に乗る展開なんて、想像してもいなかったけれど。
「駅から二百メートルぐらい行った広場に、期間限定で設置されてるんだって」
「ふーん」
 まあ、そんな所だろうなと思った。やる気のない返事をしたけれど、別に行きたくないわけではないし、祐麒だって「何それ行きたーい」みたいな反応を期待してないだろう。
 正直由乃は、未だに地に足が着かない感じがしているのだ。こうして二人でいるのが不思議で仕方ない。夢の中にいるみたい、と言っても過言ではないぐらいだった。
 
「そろそろ行こうか」
 祐麒はサンドウィッチの包み紙をクシャっとつぶすと、ジュースの残りを一気に飲んだ。
 店を出た瞬間に聞こえたクリスマスソングは、陽気に人を鼓舞している。ほら、もっとクリスマスを楽しめって。
 
 
 
 
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