春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.28
      奇跡の夜
 
*        *        *
 
 
 傾(かし)いだ身体を抱き止めたと思ったら、次の瞬間には柔らかな感触が頭の中を支配していた。
「んっ……」
 トイレからホールまでの、短すぎる帰り道。軽い酩酊と、クリスマスと、華奢な身体が、現実感を奪って行く。
「ちょっと」
 ようやく離れた唇が発した言葉は、不機嫌どころか怒りに聞こえた。
「どうして、いきなり」
 フラフラと足取りの覚束ない爾衣ちゃんに言うと、酷い違和感を覚える。普通この台詞って、言うものじゃなくて、言われるものだろう。
 ホールとは打って変わって冷えた廊下に、爾衣ちゃんの身体は温かかった。だからじゃないけれど、振りほどくのにかなり力がいる。
「どうしてって、好きだから」
 結構飲んでいるのか、身体の重心が右へ左へ行っているクセに、爾衣ちゃんの目は少しもブレない。何度この目を見て、逸らしたか。数えたくない。
 爾衣ちゃんの肩を掴んで、軽く押す。彼女にも諦める余地があるなら、それだけで十分なはずだったけれど、細い身体は微動だにしなかった。
「……離れてよ。こんな所に、誰かきたら――」
「子供ができたの」
 ――クラッとした。
 まるでショットガンの五杯目を飲み干した時みたいだ。現実と意識の境目が希薄になって、すうっと飛んで行きそうになる。
 冗談じゃないのか? 分かっているとしたらもっと早くにだし、今までそれを言う機会もあったはずだし、でも、子供が出来たら、どうなる?
 選択肢は二つだ。誰もが選んだ道を取るのか、完全に人の道を外れた道を行くのか、何故今日この日に突きつけられる? 選ぶ余地なんてないだろうけれど、受け入れるのには時間がかかり過ぎる。頭が追いつかない。プライドと、中途半端な責任感が、腹を括れと叫び続ける、発する言葉が、見つからない、でもなにか、言わなきゃ――。
「……え、と」
「ウソだよ。できてたら、もっと早くに言ってる」
 続いて、第二波。思わず腰が砕けてしまいそうだった。
 頭がフリーズするって、さっき見たいな状態を言うのだろうか。
「ごめんね。でも何かその顔みて、ちょっとすっきりした」
「……よしてよ、悪い冗談だ」
 言葉に力はないクセに、どうして強い拒絶ばかりなのか。言葉に不器用な分、自分にイライラする。
「祐麒くん」
 それなのに爾衣ちゃんの声は明るくて、不意に離れた体重は小悪魔的で。
「プレゼント、もらっちゃった」
 そう言って嬉しそうに、祐麒が選んで包んだアレを持って、笑う。
 
*        *        *
 
 夜空に星が瞬いてしまっていては、ホワイトクリスマスは期待できそうにない。
「由乃」
 後から店を出てきた祐麒は、紛れも無くそう由乃を呼んだ。
「送ってくよ」
 って、そんな思いつめたような目で言われても、困る。
 だって由乃は、前送って行って貰った時ほどムチャな飲み方はしていないし、この通り足腰はしっかり大地を捉えている。ちゃんと呂律もまわっているし、さっき鏡で見た限り顔も赤くないはずだ。
「え、いいよ。そんなに酔ってないし」
「マスター命令だよ。健二はこれから、爾衣ちゃん送ってくし」
「でも、私送って行ったら、祐麒の終電なくなるよ」
「タクシーの領収書は、ちゃんと貰っとけってさ」
「……あ、そう」
 そこまで言われてるんなら、断るとマスターに失礼だ。祐麒だって、これ以上拒まれ続けたら困るだろう。
「うん、じゃあお願い」
 それっきり、無言。
 みんなワイワイ喋りながら駅まで歩いているのに、隣あって歩いているのに、無言。
 時折健二くんが祐麒に話をふって、時たま沸き上がる笑顔も、電車に乗れば数が減っていく。
 ガタンゴトン。
 ついに二人になって、電車は揺れて、車窓は曇っている。クリスマスなのに、車両のアナウンスも、乗っている人たちも、何もいつもと変わらないような気がした。
「はぁっ」
 駅を出て、冷え切った夜空を仰いだ途端に、溜息が出た。白くて凍りそうで、大分濁った息が。
「疲れた?」
 そう訊いてくる表情はどこか優しくて、なんだか懐かしくなる。
 もう、二年も経った。懐かしく感じて当然の年月だ。そしてきっと、もう忘れてもいいぐらいの、時間。
「そりゃね、一応仕事後だし」
 暖かな家々からもれる光、降りそうもない雪、何もかもが二年前に重なって、タイムスリップしたかのように思える。
 あの時も、こんな無言で歩いたっけ。たしか体調崩して、イルミネーションが見にいけなくて、悔しくて泣きそうで。何だか思い出すだけで、泣けてくる。
「実はさ」
「うん?」
 祐麒の方を向くと、彼は前を見つめたまま言った。
「マスター命令って、あれ嘘」
「……あ、そっか」
 えっ!? って、ワンテンポ遅れて心の中で思ったけれど、今声に出すには間抜け過ぎるから、必死で押し留める。
 嘘って事は、マスターの指図じゃなくて祐麒の意思って事で、けど健二くんが爾衣ちゃんを送って行ったのは本当で……訳が分からない。
「じゃあ、何で?」
 臆病なぐらい小さな声で、由乃は訊いた。祐麒は笑っていなかった。
「二人きりになりたかったから」
 何で、と続けて訊きはしなかった。その先は、聞かなくてもいい。何となくその話題はここで終わり、って、それでいいと思った。
 雪を孕んでいてもおかしくないぐらい冷たい北風が、由乃のマフラーを靡かせる。寒いね、の一言で、真剣な祐麒の声も、由乃の緊張も、全て朔風がさらって行ってくれるはずだった。
「由乃」
 だけど喉が干上がったように声は出なくて、祐麒は凛とそう言って立ち止まった。由乃はその三歩先を行って、足を止める。振り向かない。
「やっぱり俺は、由乃に隣にいて欲しい」
 振り向かない。
「好きなんだ。本当は今日こんな事言うつもりじゃなかったけど……伝えずにはいられないぐらい、好きだ」
 振り向かない。振り向かない――。
「都合のいい事を言ってるのは分かってるけど、もう一回やり直したい。今ならきっと、ちゃんと向き会える自信があるんだ」
 ――ああ。
「お願いだから、こっち向いてよ」
 きっと手術をしてなかったら、今頃心臓が止まっていたかも知れない。
 
*        *        *
 
 振り返った。その顔は、泣いていた。
「由乃?」
「……何で」
 小さな拳は、強く握られていた。何度ももう一度触れる事を望んだ唇は、震えていた。
「何で、言うの」
 怒っていた。それ以上に、悲しんでいた。
「え……」
 由乃は踵を返すとまるでドラマのワンシーンのように涙を一つ落として、駆けていった。祐麒はその涙の行く先を、見守るしか出来なかった。
 訳が分からない。どうして祐麒の告白で怒るのか、そして涙を流すのか。咄嗟に追いかけようとしたのか、中途半端に出ている右足が格好悪い。そして何で、追いかけない。
 
 二年前の今日、初めて祐麒と由乃は結ばれた。なのに今はどうだ。まったく正反対じゃないか。
 抱きしめたかった。あの心から伝わってくる温もりが欲しくて、クリスマスの奇跡に賭けたのに。
 
 皮肉な事に、北風に乗ってきた雪が舞い始めた。
 ホワイトクリスマス――。祐麒はコートの背中が一面真っ白になっても、まだ動けなかった。
 
 
 
 
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