春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.33
霹靂
 
*        *        *
 
 
「辞めた?」
「何だ、聞かされてなかったのか?」
 爾衣ちゃんが喫茶レキシドールを辞めた――それを知ったのは、年明け初めての仕事の日だった。
「どうして?」
「それは俺が聞きたいね。というか、お前に聞こうと思っていたぐらいだ」
 そう言ったマスターは困惑を引きずっていると言った表情で首を傾げた。暖房が効き始めた部屋の中で、祐麒は風邪を引いているわけでもないのにジクリと頭が痛んだ。
 原因は間違いなく祐麒で、きっかけはクリスマスの朝だった。あの日以来、顔を合わせても爾衣ちゃんは逃げるようにその場からいなくなってしまったし、祐麒もわざわざ引き止める事をしなかった。まともに話す事もなく、そして今日この知らせだった。
「何か思いあたる節はないか? 影で俺の髭が不衛生だからイヤだ、とか言ってたとか」
「それはないですけど」
 どうやらクリスマスパーティーの終盤に、酔った奥さんから「髭を取って」と言いながら地毛の髭を掴まれたのを気にしているらしいが、祐麒は笑うことも真面目に検討する事もできなかった。マスターの問いは、まるで答えの分かっているいる謎かけみたいに、そこにあるはずの緊張感を吹き飛ばしていた。
 洗いざらい話したら、一体マスターはどんな顔をするだろうか。私情を持ち込みまくりやがってと苦笑するか、なんて事してくれたんだと本気で怒るか――そのどちらでもないのだろう事は、考えるまでもなく分かった。
「まあそれは辞めたのはしょうがない。しょうがないから明後日の午前、入れないか?」
「いいですよ。入ります」
 祐麒は考える間もなく、即答した。
 ひょっとしたら、授業があるかも知れない。というか、授業があるからその時間は入れないという事にしたはずだ。
 だけど授業よりも、取れる形での責任を果たす事の方が、祐麒にとっては大事な事だと思えた。
 
 
 ロッカーで着替え終わるなり携帯を取り出し、店を出ながら着信履歴から爾衣ちゃんの名前を探した。それは思いのほか過去まで遡らなければならず、それだけ距離を置いていたというのが、日付というはっきりと数字で分かってしまう作業だった。
 従業員用出入り口を出たすぐの壁に背中を預けて、表示された爾衣ちゃんの電話番号をじっと見る。まだ頭の中は何もまとまっていないし、何を言っていいのかも分からない。ただ今日と言う日を逃せば、爾衣ちゃんとは二度と話せないだろうと感じた。思ったのではなく、そう感じたのだ。
 親指で決定ボタンを押して、携帯を耳に押し当てる。呼び出し音は冬の空気に次々吸い込まれているみたいに虚ろで、まだ何を言おうか迷っている祐麒の思考すら吸い込んでしまう。
『……もしもし』
 あまりに弱弱しくてかすれ気味の声に、ひょっとして違う人が電話に出たのかと思った。しかしどう考えてもそれは爾衣ちゃんの声で、状況は酷く逼迫している事が分かった。
「……今日、マスターから聞いたよ。店を辞めたって」
 受話器から聞こえる祐麒の声もまた、別人のようだった。二人の声は、場末のバーの午前三時に相応しい。
『……うん』
「今から会えないかな。話がしたいんだ」
『……電話じゃ、ダメなの?』
「電話じゃダメなんだ」
『どうして?』
「どうしても。俺のわがままが半分、電話じゃ伝わらないっていう理由が半分」
 祐麒が強くそう言うと、爾衣ちゃんは黙り込んでしまった。ひょっとしてこのまま電話を切られてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたけれど、爾衣ちゃんのかすかな息づかいは聞こえ続けていた。
『……いいよ』
「じゃあ、今から行くよ。今店だから、多分三十分もかからないと思う」
『……分かった』
 爾衣ちゃんが「後でね」と付け添え、祐麒が「じゃあ」と言った後も、爾衣ちゃんは通話を切らずにそのままにしていた。祐麒はそれを気に止めながらも、それがあまり長く続かない内に通話終了ボタンを押した。
 
 爾衣ちゃんの住むマンションの前に着くと、すでにそこには爾衣ちゃんの姿があった。
 彼女の姿は妙にこじんまりと目に映って、居た堪れない気持ちになる。爾衣ちゃんは目の前に居るというのが信じられないほど、心細く不確かだった。
「ごめん、待っててくれたんだ」
 爾衣ちゃんは祐麒の顔を見ると、すぐに顔を伏せて小さな声で「うん」と言った。いつもより肌が白く見えるのは、多分見間違いではないだろう。
 誰がどう見たって、爾衣ちゃんは痩せ細っていた。勿論健康的な痩せ方ではなく、やつれていると言った方が正しい。髪はほつれ、色白の肌は蒼白に変わり、頬はこけていて、それでも尚男を惑わす色香のような物を帯びている。祐麒が出会った中でそれはもっとも魅惑的で、そして儚かった。目の飛び出るような値札のワイングラスよりも薄く、チタン合金のボルトよりも軽かった。
 誰が彼女を、そうしてしまったのだろうか?
 それは間違いなく祐麒で、法では裁けない大罪だった。この世の中には裁けない罪が、鉄クズよりもたくさんある。それは誰だって、頭の隅の方で理解しているのだ。
 閑静な住宅街には、その沈黙を突き破る喧騒も、想像を超える出来事も起こらない。爾衣ちゃんと祐麒の間に限って言うならば、そこにあるのは絶望的なまでの静けさと、古典染みた事情だけだ。
「俺さ、大事な事を言ってなかったんだ」
 自分の声なのに、それは受話器越しのヒスノイズまみれの声に聞こえた。
「俺は多分、爾衣ちゃんの事が好きだったんだ」
 祐麒は植え込みの花壇の縁に、腰を下ろした。ジーンズ越しに攻撃的な冷たさが伝わり、思わず腰を上げそうになる。
「多分?」
「少なからず、惹かれてたんだよ。それは確かだし、だから寝る事になったんだと思う」
 あの一夜を思い出すと、今でも祐麒の一部は疼き、そして別の所が痛む。何も着飾る事のない情熱。圧倒的な欲求に隔てるものが何もなくなってしまう、非現実感。――それは誰にも消せないし、消さないだろう。
「弁解みたいに聞こえるかも知れないけど、本心だよ。爾衣ちゃんは俺にとってどうでもいいわけじゃないし、バイト先からいなくなって喜ぶべき人じゃないんだ。だから――」
「もういいよ!」
 細い身体の一体どこから、そんな声が出せるのだろう。
 雷鳴のように響いた声は、家々の壁と壁を反射して、いつまでも聞こえているように錯覚する。窓が開く音が聞こえて、数秒で閉じられる。
 一月の冷気は衣服のあるゆる隙間から体温を奪い、指先から徐々に感覚を奪っていく。爾衣ちゃんは地面を睨み、小刻みに震えていた。寒さの所為ではない事は、誰にだって分かる。
 その身体を抱きしめたいと思う気持ちを、必死で押し殺す。そうする事は迂闊でしかなく、許されない事だった。抱きしめれば麻薬のように爾衣ちゃんを歓喜させ、そして最後には地獄に落とすだろう。
「爾衣ちゃんには、自信を持ったままで居て欲しい。俺の所為で爾衣ちゃんの価値を下げて欲しくないんだ」
 爾衣ちゃんはまだ地面を睨み続け、その地面はきっと祐麒だった。今の、あるいは昔の祐麒だ。
 空を見上げると、東京でも雲がない事ぐらいは分かった。だからこんなに寒いのだろうか。きっと雲が居なくなった所為で、宇宙の冷たさが地表に降りてきているに違いない。そう思わせるほど空は高く、沈黙は長かった。
「ありがと」
 そう言った爾衣ちゃんに視線を戻すと、今度はこれ以上なくしっかりと祐麒の目を見つめていた。対になった目はそれぞれ違うタイミングで涙を零し、頬を伝い降りる。
 全くもって祐麒は救いようがなかった。また、爾衣ちゃんを泣かせたのだ。イエスも仏陀もアッラーフも、見ていたらきっと溜息しかでないだろう。
 不意に嗅ぎ慣れた匂いが鼻先をよぎり、小さくなってしまった身体が胸に飛び込んでくる。
 
 その肩を抱きしめる。
 これは罪ではなく、贖罪なのだと嘯きながら。
 
 
 
 
≪32 [戻る] I.S.≫