春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.25
 バイト店員はみた
 
*        *        *
 
 
 由乃が忘れ物に気づいたのは、駅に着く三歩前だった。
 愛用のリップクリーム。着替え終わってそのままロッカーに入れてしまったから、鞄に入れ損ねたのだ。
 なかったらなかったで何とかなるけれど、正直塗りたい時にないのは精神衛生上よくない。もう一度買いに行くのも勿体無いし、溜息を一つ吐いて回れ右した。
 そう言えば、今日の片付けは三越さんが休みでいないから、爾衣ちゃんが残っているはずだ。今日は早めに片付けを始めていたから、ひょっとしたら店に着く頃には終わっているかも知れない。そうしたら一緒に帰れるかな、なんて考えているうちにどんどん店は近づき、薄暗い店内を横目に従業員用出入り口に着いた。
 そっと扉を開けると、まだ廊下の照明はついていた。爾衣ちゃんはまだ帰ってないらしい。まあ帰っていたら、どこかですれ違うはずだけど。
 更衣室入って自分のロッカーを開けると、案の定リップクリームはそこにあった。早速薄く一塗りすると更衣室を出て、出入り口とは反対の方向に歩いた。もうそろそろ片付けが終わる頃だろうから、少し様子を見てみる事にする。
「そ……なんだ……」
 ホール近くに来ると、爾衣ちゃんの声が聞こえた。電話で喋っているかも、と思ったけれど、それにしては口調がいつもと違う。
 誰かいるのかな、と思ってホールが見える所まで来た瞬間、由乃はさっと身を引いて壁に背中を預けた。
「――」
 心臓がバクバク鳴っている。無理もないと思う。今日シフトに入っていなかったはずの祐麒が、爾衣ちゃんと向かいあっていたのだから。
「ごめん……」
 その一言で、大体どんな話か察しがついた。早く行かなきゃ。盗み聞きはよくない――そう分かっていても、身体が動かなかった。下手に動いたら二人に気づかれるかも、なんて理由は、多分言い訳なんだろうけど。
「でも、どうしてもダメなの? 付き合ってみなきゃ分からない事だって、きっといっぱいあると思うの。私、祐麒くんになら尽くせる自信があるし、それに――」
「それはできないよ。そんな中途半端な事はできない。きっともっと傷つける事になると思う」
 ぐわっと、頭に血が集まっている。怒りを感じている時のあの感じではなくて、一気に緊張する、あの感じ。全身が針の先にてもなったかのような気分だ。
 背中とくっついた廊下の壁が、ひやりと冷たい。他人事ではないドラマを目と鼻の先に見るのは、随分と心臓に悪い事だ。
「……それでもいいよ。最終的にダメだったら、ちゃんとそれはそれで納得する。だからね――」
 不意に沈黙が訪れる。冷たい壁越しに、祐麒と爾衣ちゃんが見詰め合っているのが分かった。
「私と付き合って。祐麒くんの事が好きなの」
 その言葉に、由乃は多分言われた本人以上に衝撃を受けた。分かりきっていた事。なのに、何でだろう――。
 
「ごめん」
 
 その言葉は突き刺さるように速く、由乃の耳に届いた。それが意味する事はたった一つ。残酷なまでに、ただの一つだった。
「本当に、ごめん。それは俺が、許せないんだ」
「……どうして? どうして私じゃダメなの……? 自惚れ屋だって思われるかも知れないけど、私、ちょっとは自分に自信あるよ。祐麒くんに相応しい女になれる自信だって――」
「そういう問題じゃないんだよ」
 少し強い口調に、由乃にまで戦慄が走った。有無を言わさない声は、あまりにも祐麒らしくなかった。
「……ひょっとしてだけど」
 爾衣ちゃんは、震える声で続ける。
「祐麒くん、好きな人いるでしょ」
「……うん」
「それって、私のよく知っている人でしょ?」
「……うん、そうだよ」
 かさ、と、くず折れる音がした。震える声は涙声に変わり、嗚咽が聞こえ始める。
 いたたまれなかった。ふられる辛さが分かる分、余計に。
「うっ……くっ……」
 爾衣ちゃんの嗚咽に隠れて、由乃の頬に熱い物が伝い落ちた。
 貰い泣きなのか、嬉しいのか、悲しいのか……ひょっとしたら全部なのか。訳も分からず泣いていた。
「本当に、ごめん」
 祐麒の声と、爾衣ちゃんの涙を背中に、由乃はようやく壁から離れた。一歩、また一歩と、よろめくように出口を目指した。
 なんで、私が泣くんだ――。
 さっぱり、何もかも分からない。分からないのに、ただ涙だけは溢れた。
 ただただずっと、断ち切れない想いの分だけ。
 
*        *        *
 
 誰も居ない店内に小さく灯された光は幻想的で、まるで現実感がなかった。
 爾衣ちゃんの居なくなったホールは一人でいるには広く、空しさ以外の何もない。傷つけたのは自分なのに、まるで自分が傷つけられたみたいに、感傷的になっている。
「はぁ……」
 口からは溜息しか出て来ない。ずっと言おうと思っていて、いざそれを実行に移した後。あると思っていた達成感の真逆の感覚に、戸惑いを隠せない。
 ずっと今日の日の事は考えていたし、何度も頭の中で想像した。そしてそれが想像通りであればあるほど、酷く気分は落ちていく。
 後味が悪いのなんて当たり前なのに、それを受け入れきれない。覚悟が足らなかったって事なのだろうか。爾衣ちゃんの泣き顔は想像以上に痛々しく、祐麒の胸を締め上げるには十分過ぎた。
 この胸の痛みは、自業自得なのに。爾衣ちゃんはもっともっと、痛いのに。ならばこれじゃ足りないんじゃないかと、自分を責める考えばかりが浮かんで、また消えていく。それを一体何度繰り返しただろう。
 いい加減、帰らないと。電車だって遅くまであるとは言え、いつまでだってあるわけじゃない。
 重い足は動き出したら後はいつもと変わらず、何も考えなくても出入り口を出て鍵を閉める所まで出来た。夜はもう深く、辺りに人気はない。
「さむ……」
 この所、随分冷え込むようになった。薄い上着じゃ、夜の冷たさを防ぎきれない。
 辿り出した帰り道はいつもと同じだったけれど、歩けば歩くほど色んな事を思い出した。由乃と歩いた日、健二と殴りあった日、爾衣ちゃんとご飯に行った日――その時どんな気持ちだったかまで、はっきりと思い出せる。
 どれも大切な思い出で、ふと、それを全部自分のせいで壊してしまったんじゃないかと思いついた。本当に今更だった。
 世の中は歪だけど、こう見えてバランスがいいのだ。だから自分の過ちは全て、自分に帰ってくる。過去はどれだけの時間が経とうと、許す事も消えてくれる事もないのだ。
 頭では分かっていたのに、こうして現実にならないとその重みが分からないなんて。自分の愚かさを呪うしかない。
 頭の中は、後悔と懺悔の気持ちがぐるぐると渦巻いていて、いつまでも休まらないけれど。それでも、どこかに希望の火が灯っている。不謹慎な事に、重たい気持ちを抱えながら、不意に肩の重みが取れたかのような気分になる。ようやく頭が、現実に追いついて来た感じだった。
 
 夜空を見上げて、思い出す。二年前のクリスマスの夜、自分がどれだけ素晴らしい気持ちでいたかという事を。
 
 
 
 
≪24 [戻る] 26≫