春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.24
     デート三昧
 
*        *        *
 
 
 祐麒の事が好き――。
 その声を思い出すたびに胸が痛くて、だけどずっと忘れていたときめきというか、キラキラした感情が戻ってくる。もちろん浮かれていられるほど、物事は簡単じゃないけれど。
 由乃のあの一言は、本当に予想もできない言葉だった。だってあの態度からじゃ、恨まれていると感じてもおかしくないし、そう思い込んでいたのだ。
 そこにきて「好き」と言われたのだから、今まで感じた事もないような衝撃だった。正直今でも信じられない。だけどこれは全て現実なのだ。
 
「ユキチ、最近ボーッとするの好きだな」
 昼ご飯を食べ終わって食堂で考え事をしていると、不意に目の前が暗くなった。その影の主は、食事を載せたトレーを遠慮なく祐麒の目の前に置く。
「別にボーッとしてたわけじゃない」
「そうか? そうにしか見えなかったけどな」
 小林は祐麒の向かいの席に座ると、またも遠慮なく昼ご飯をがっつき出した。こいつを見ていると、幸せそうだなとか思えてくる。
「じゃあなんだ、悩み事か? 何でも話してみてくれよ。っていうか最近お前の話聞いてないから、何がどうなってるのか分からん」
 何がどうなっている、というのは、多分バイト先での事だろう。小林は祐麒のバイト先に由乃がいる事を知っているから。それとも小林はバイト先とか恋愛話に限らず、祐麒の身の回りの事について訊いているのだろうか。
「そっちこそどうなんだよ。小林の方の話も聞いてないぞ」
「俺? まあ、コンパはちょくちょく行ってるよ。まさか俺にデート三昧の日々が来るとはなぁ」
 小林は食器から手を離すと、しみじみと言った。やっぱり恋愛絡みの事を聞いていたのか。
 それにしても、デート三昧。幸せそうと感じたのは、そういう事なんだろうか。やっぱり恋愛って、人を幸せにするのか――?
「で、ユキチの方は? 俺が言ったんだから、そっちも聞かせろよ」
「まともな反応しないと思うから言わない」
「いいから言ってみ。ちゃんと相談に乗るからさ」
 と言われても、どこから話せばいいのか。全部話すのも億劫だし、長くてややこしい話だ。
「試しに訊くけどな」
「おう」
「同時期に二人の子から告白されたら、お前どうする?」
「くたばれこのモテ期」
 やっぱり、話さなければよかった。
「なんだそれ、マジなのか? 実りのない俺へのあてつけか」
「なんでも話せって言ったの、お前だろ」
 これだから、相談しにくいのだ。小林が女性関係に全く困っていない、というか所謂恋愛上手なら、まともなアドバイスがもらえたかも知れないが。
「まあ、色々思う所はあるけどな。俺だったら、可愛い方か、好きな方と付き合う。どっちも不細工なら付き合わない」
 とまあ、やっぱりそこに行きつくのか。可愛い方と付き合う、というのは本当にいいのかどうか分からないが、普通はそう考えるのだろう。
「けどどうしたらそんな状況になるんだ? ただ単にお前がモテるのか?」
 小林は心底不思議そうに、祐麒に尋ねた。そんな事言われても、祐麒に分かるか。
「知るかよ、そんなの」
「で、どっちも保留中だってのか。幸せな悩みだな」
 まあ詳しい事情を知らなければ、傍から見ればそう見えるのかも知れない。そう、本当なら人に想われるという事は、この上ない幸せなのだ。
「ま、どうするにしても、どっちかには『ごめんなさい』しないとな。二股は止めとけよ」
「しないっての」
 二股はないとして、小林の言う事は正論だった。ごめんなさいは、必要だ。いつまでも待ったの状態じゃ、爾衣ちゃんの方がキツい。
 こうして他の人の意見を聞くと、だんだん自分の気持ちが見えてくる。やっぱり、気持ちが他を向いている状態じゃ、爾衣ちゃんとは付き合えない。それが分かっただけでも、小林に相談した意味はあったのだろう。
「ごめんなさい、か」
 そう言えば『さよなら』をした事はあっても、『ごめんなさい』は未だにない。『さよなら』より簡単そうで、でも心苦しさはほとんど変わらないのは、やる事をやってしまった後だからなんだろう。
 今更ながら、軽率だった。お酒のせいにする事は出来ても、そこまで酔っていた訳じゃない。ただ単に負けたのだ。爾衣ちゃんに、そして自分に。
 セックスは簡単にできても、簡単にするべきじゃない。その行為で得られる快楽の代償は責任だ。そんな事は最初から分かっていたはずなのに、どうしてあんな簡単に、何も考えずに爾衣ちゃんを抱いてしまったのだろう。
 ドラマの登場人物の気持ちが、今なら分かる。後悔と、無力感だ。凶暴なまでの欲望に負けた、そのツケがこれだ。
「そんな思いつめた顔するなよ。女って案外立ち直るの早いもんだぜ。振られたと思ったら、すぐ別の男とくっついてたりするし」
 小林は祐麒を慰めるつもりで言ってくれたのだろうが、正直あまり効果はなかった。確かに小林の言う通りになるかも知れない。けどそれは楽観に過ぎないし、今この時に感じている気持ちを、祐麒はこの先忘れるべきじゃないのだ。
「本当にそうなりゃいいんだけどな、気が重いよ」
 世の中思った通りには行かないんだって、それは今までの人生で何度も何度も身を以って知らされてきた。本当に願ったとおりに物事が動くなんて、十に一つもないと思う。だけどそう祈らずにはいられないのは、やはり罪悪感があるからだろう。
「ったく、幸せな悩みだな」
「んな事あるか」
 本当に、そんな事。これが幸せって言うんだったら、この世界は苦すぎる。
「俺からすりゃ十分に幸せもんよ」
「幸せ、ね」
 そう言えば随分、その言葉とは遠ざかっていた。というか、幸せとか不幸とか、いちいち考えてもいなかった。
 思い出してみれば、最後に幸せと感じたのはいつだろう。不幸じゃなければ幸せという概念を捨ててだ。最後に幸せと感じたのは――。
(ああ)
 思い出した。いくつも、いくつも、思い出せば思い出すほど、記憶の引き出しから溢れてくる。最後がどれか、分からなくなるほど。
 その暖かな気持ちを思い出す時、一番に浮かんだのは由乃の笑顔だった。今では滅多に祐麒の前じゃ笑わないというのに、目の前に写真があるみたいに、はっきりと思い出せるのだ。
 そうか、こんなにも――。こんなにも深く、由乃は祐麒の中に根差していたのか。
 ガタン、とスムーズではない音を立てて、椅子を引いた。まだ上手い言葉は浮かんで来ない。
「あれ、もう行くのか?」
「ああ」
 それでも、行かなくては。伝えなくては。
 
 食堂を出た瞬間に祐麒を包んだ晩秋の陽光は、鼓舞するかのように強い。
 
 
 
 
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