春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.23
 追いかけて
 
*        *        *
 
 
 振り返ってもそこには、遠くなった看板の光しか見えなかった。ただ堪えられるものを全て堪えて、もう一度前を向く。
 由乃はただ、悔しかった。好きだと再認識した男の、余りの不甲斐なさに。そして自分に、ひたすら悔しかった。
 本当にどうして、あんな言い方しかできなかったんだろう。由乃も、そして祐麒も。こんな風に爪痕を残しながらしか、由乃達は一緒に居られないのだろうか。そう考えると鼻の奥の方がツーンとして、涙の予感がした。
(まったく……)
 いつから由乃は、こんなに弱くなったのだろう。さっきまで毅然としていられたのに、本当にどうして。寒くもないのに、洟をすする。
 けれど思考の深みにはまる前に、もう答えは分かっていた。結局惚れた方が負け。今も昔も、変わらない。人の考えと同じように、恋愛もまた進化する事はない。
 そう考えると余計に自分はピエロのように思えて、哀しくておかしかった。熱いものでぼやけた外灯が、サーカスの会場を灯し出す火のようだった。
(帰ろう)
 泣くにはまだ早い。何気ない顔をして帰って、お風呂に入って、泣きたければそこで泣けばいい。次の日目が腫れないようにするにはどうしたらいいか、今はよく知っている。
 一体由乃は、これから先どうやってこの感情と向き合っていけばいいのだろう。何が何でも忘れるのか、殊更に貫き通すのか、それとも自然と和らぐのを待つのか――その選択肢のどれもが、酷く険しい。思わずバイトを辞めて祐麒から遠ざかれば少しは楽になるかもと考えてしまうぐらい、由乃の頭の中は切羽詰っていた。
 けれど絶対、それだけはするものか。あれだけよくしてくれたマスターや、仲のいい仲間たちに不義理すぎる。最初の頃祐麒に言った「辞めない」という発言を、撤回するつもりはない。逃げない、と決めたのだ。今こそその時の気持ちを思い出す時だった。
 前を向く。そこにある道は、きっと誰もが通った道をはずで。全部なかった事にしてしまいたいのに、本当にそうなるのを拒んでいる。思い出せば眩しくて、痛いぐらいだから。それだけ祐麒と過ごした時間は由乃の中で大きくて、それを失くしたら何を基準にしていいか分からない。
(ああ、もう……)
 考えれば考えるほど、想えば想うほど、気持ちは確かで深いものに変わっていってしまう。これでは底無し沼だ。抜け出そうともがくほど、その力を奪われる。
 祐麒の答えは、由乃にとっては悪い方向のものじゃなかったのに、歓迎できるものでもない。いっそ何も知らなければ楽だったのに。お互いずっと別々の道を歩いていけば、いつか甘く切ない思い出になったはずなのに。
 どうしようもない痛みが深まって、何か物に当たりたくなるほど、自分の感情を受け止め切れない。今ここには、由乃を受け止めてくれる人はどこにもいないのだ。
 ただ冷え切った地面が、由乃の靴底と擦り合うだけ。世界との接点は、ただそこだけのような気がした。
 ぐにゃりと歪んでいた視界が、一瞬だけ元に戻った。頬に涙が伝ったと認識できたのは、アスファルトに暗い点が出来てからだった。
「由乃!」
 遠くから、自分を呼ぶ声がする。振り返れない。振り返りたくても、振り返れない。
 
*        *        *
 
 思っていたよりも会計に時間を取られて、店を出た時にはもう由乃の姿はどこにも見当たらなかった。
「くそっ」
 まだ近くにいるかも、なんて甘い考えだった。こうなったら走るしかない。そう思うより早く、祐麒の足は駆け出していた。
 しっとりと冷えた風が、頬を過ぎていく。胸に抱えていた痛みが、だんだん暴れる心臓の痛みに紛れ、やがて分からなくなる。
 駅の方まで戻れば、後はよく知った道だった。由乃の家へと送って行く時よく通った路地に出ると、その姿は簡単に見つかった。
「由乃!」
 近所迷惑だどうとかは、全く考え付かなかった。その叫びは思った以上に響いて、確かに届いているはずなのに、由乃は振り向かなかった。
 走る。由乃は立ち止まっている。追い越して正面から向き合うのに、十秒も必要なかった。
「はぁっ、はぁ……由乃――?」
 目が合って、驚いた。由乃の瞳から大粒の涙が零れ落ちる、その瞬間だったから。
「なんで」
 そこで言葉を区切ると、由乃は続けた。
「追ってきたの?」
 耳に痛い涙声が、頭の中でワンワンと響いた。
 また、泣かせてしまった。それが今更の衝撃になって、心を覆い尽くそうとする。
「なんで……?」
 問いかけたまま由乃は顔を伏せると、祐麒の答えを待たないまま歩き出した。追い越そうとする由乃を、肩に手をかけて引き止める。
「待ってよ」
 ここに来て、引けるか。強引に振り向かせると、もう一度しっかり由乃の目を見た。潤んだ瞳を、焼き付けるかのように。
「俺の話、最後まで聞いてよ。都合のいい事ばっかりだけど、全部本当の気持ちだから」
 由乃の手は、祐麒を振り解こうとはしなかった。黙っているのを黙認だと判断して、祐麒は続けた。
「確かに俺は、爾衣ちゃんに酷い事したよ。それは間違いない。けど自分の気持ちに嘘はつけないし、どうする事もできないんだよ。恋愛がどうのって話になると、いつも由乃の顔が思い浮かぶんだ。爾衣ちゃんといる時でも」
「……だから、何?」
「俺も上手く言えないけど……いつも由乃が、いるんだよ。最近は特にだ。この気持ちを確かめたくて、今日ご飯に誘ったんだよ」
 もうこれ以上、何を言っていいのか分からなかった。感情の吐露ってこんなに難しくのかと、思い知らされる。
 由乃はじっと、祐麒を見ていた。不意に胸が締め上げられる。随分久しぶりの感情だ。この感情を、何と言うんだっけ――?
「私はね」
 涙声が、祐麒の心に訴えかける。痛いほどの切なさを乗せて、祐麒に訴える。
「祐麒の事が好き。今でも、ずっと」
 それは、全く予想もできなかった言葉だった。てっきり由乃は祐麒の事を恨んでいるものだと、そう思っていたから。今日だってあくまでバイト仲間として付き合いで、来てくれたんだと思っていた。
「バイバイ」
 まるで滑るように由乃は祐麒の手を解くと、背を向けて歩き出した。誰も寄せ付けない背中で、由乃は歩いて行った。
 
 
 
 
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