春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.22
 レストラン事情聴取2
 
*        *        *
 
 
 不意に由乃が泣きそうな顔をしていると感じたのは、気のせいなのだろうか。
 クリーム色の光に包まれた暖かな店内に、似つかわしくない沈黙が流れていた。由乃が何か言いたそうにしているのが分かるから、祐麒は適当な話題を振る事もできずにいる。
 だらだらと汗を浮かべたグラスが、手の平に冷たい。喉が乾いているわけでもないのに水を飲むと、その動作の間だけ沈黙が和らいだ気がした。
「そういえばさ」
 ようやっと、由乃が口を開いた。にわかに身体が緊張するのが分かる。おかしな話だ。昔はあんなに一緒にいたのに。――いや、だからか。
「爾衣ちゃんとは、最近どうなの?」
 ピリリと、細かな電流が身体中を走った気がした。その質問は想定内であったにも関わらず、本当に唐突だった。
「どうって」
 どう言えばいいって言うんだ。健二にも同じ事を訊かれたけれど、由乃に訊かれるとすぐには言葉が出てこなかった。
 何もかも正直に話すほど野暮でもなければ、後ろめたさがない訳でもない。全て話せば、きっと軽蔑される。それが想像していた以上の恐怖になって、目の前にいる。
「別に、バイト仲間であり、友達だよ」
 核心を突いてはいないが、嘘でもない――そんな逃げ口上ばかり口にしている気がした。けれどこれが、一番誰も傷つけない言い方だった。
「本当にそれだけ?」
 そう言った由乃の目は、怯えながらも強かった。何故かは分からない。どうして何かに怯える必要があるのかも、何故それほど強い意志がそこに宿っているのかも。ただ、逃げられないと、絶対的にそう感じた。
 今日の由乃は、一体どうしたというのだろう。昔から真正面から勝負、といった感じで相手と向き合うのは知っている。けれどどこか怯えながらというのは、初めてだった。
「私から見たら、爾衣ちゃんは祐麒の事が好きなんだと思うけど」
 ズドン――と、それは腹に響くような言葉だった。まさかここまで踏み込んでくるとは、思っていなかった。
「――俺もそうだと思うけどね」
 なんて言おうか、なんて考える時間もほとんどないまま、祐麒はそう口にしていた。ここまできたら逃げ場はないって、頭のどこかで理解していたのだと思う。
 それにこれだけ突っ込んで訊いてくるなら、由乃の方にも聞く覚悟は出来てるって事だ。それに本気で返さないでいたら、祐麒は男として終わりだろう。
「付き合うとか、そういうのはないよ。そこまで気持ちを返せない」
「キスまでしたのに?」
 なんでその事を、なんて今更な事は思わなかった。それより一歩先の事をしてしまったんだけどなと、また後ろめたい気持ちになる。
「キスしたら恋人か?」
 由乃の口調は明らかに責めているような強い口調だったからか、祐麒の言葉もまた強気だった。大体するのとされるのとでは、全然違う。
 ちょうど祐麒がその一言を発した瞬間にウェイトレスが料理を片手に持ってきて、一瞬固まっていた。それから何事もなかったかのようにテーブルに料理を並べ、必要最低限の言葉だけ置いてその場を辞去した。
「……」
 今日で一番重たい沈黙が、二人の間にあった。それをどうにか『沈黙』と呼べない物にする為に、祐麒は食器を取った。ハンバーグのソースの香りが、鼻腔をかすめる。
「そうじゃないけど」
 ハンバーグを口に入れた瞬間、由乃が言った。まだこの話を続ける気らしい。
「爾衣ちゃんの気持ち、考えた事ある?」
 なんなんだ、と祐麒は思った。今この二人という組み合わせに洋食屋に入っても、普通にご飯も食べられないって言うのか。
 今日はこんな事を話すつもりはなかったのに――というのは、都合のいい考えだと知っている。今自分が感じている憤りが飛んでもなく身勝手な物だって事も、分かっている。
 ただ受け入れられないのだ。こんな自分を、事実を受け入れられないだけ。全くどうしてこんな自分について考えている人が多いのか、なんて腐った考えまで浮かんでくる。
「ないわけないだろ」
 見当違いのイライラを噛み殺すように、ハンバーグを口に放り込んだ。美味しいはずなのに、味も何も分からない。
 爾衣ちゃんの気持ちを考えなかったなんて事、あるわけがない。考えて考えて、雁字搦めになってるぐらいなのに。
「考えてるから、簡単に片付けられないんだよ」
 そう言って由乃の方を見ると、じっと祐麒の目を見ていた。目が合うとすぐに逸らして、届いた料理にスプーンを差し込む。
 責めている目ではなかった。だけどもちろん、優しい眼差しなわけがない。何なんだ。試されているのか何なのか、混乱する。
「正直な所どうしていいか分からないんだ。はっきり言うのがいいのか、それとも態度でそれをゆっくり伝えていった方がいいのか、さ」
「バカじゃないの?」
 今度こそ、真正面から目が合った。その目ははっきりと、祐麒を非難していた。
「そうやってズルズル引き伸ばす方が辛いに決まってるじゃない。はっきり言わないのは優しさでもなんでもないわよ。酷い」
「じゃあお前は爾衣ちゃんの気持ちが分かるのかよ。どれが正解なんて、言い切れるのか」
 由乃の言うことは、多分正しい。それは頭では分かっているはずだったし、自分でもそう考えていたはずなのに、突いて出た言葉は反撃だった。
「はっきり分かっている事よ。祐麒はただ逃げてるだけじゃない」
「――」
 ついさっきは咄嗟に言葉が出たのに、今度は何も言えなかった。自分でそう考えているのと、誰かにそう言われるのとでは、圧倒的に現実味が違っていた。
「本当に、バカなんじゃないの」
 責める口調はさっきよりも弱々しく、悔しがっているようにも聞こえた。何故、と思うよりも早く、椅子が引かれる音が耳に届いた。
「帰る。お代は後で請求して」
 見上げた時にはもう、由乃は背を向けて出口に向かっていた。店員が困惑した様子で、トレイを胸に当てて道を譲る。
 
 再び鳴る、入り口のベル。
 凍りついたような頭の中に、ひたすら考えだけが巡る。
 
 
 
 
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