春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.21
    お食事デェト
 
*        *        *
 
 
「何やってのかしらねぇ」
 と爾衣ちゃんが呟いたのは、日曜日の朝だった。十月最初の日曜日の今日は、珍しく祐麒と健二くんもみんな揃っていて、朝礼の前に顔を合わせるなり言ったのだ。
「ケンカでもしたの?」
 呆れながら爾衣ちゃんは訊く。祐麒も健二くんも、お互い顔に痣と腫れがあって、まるでコメディドラマのように「ケンカしてきました」って雰囲気を出しているのだ。多分誰が見ても、同じ感想を抱くだろう。
「違う、拳を交わしたんだ」
「ケンカと何が違うのよ」
「絆が深まるのさ」
 そう言って健二くんは祐麒の肩に手を回すと、祐麒の方も無言で健二くんの肩に腕を回した。前もって示し合わせたかのような仕草で、それが何だか滑稽で、吹き出しそうになってしまった。
「いや、笑ったなあれは」
 ――と、マスターはカウンターから手を拭きながら出てきた。おはようございまーす、と祐麒と健二くんがその姿勢を全く崩さないまま言ったから、また笑いそうになる。
「笑ったって?」
 由乃が訊くと、マスターは思い出し笑いを噛み殺した顔で「実はな」と話し始めた。
「この前店がヒマになったから、タバコ買いに出たんだよ。そしたらあそこの空き地にパトカーが止まってるじゃないか。それで通りがかりに覗き込んだら顔腫らした健二と祐麒が居てな、警官に色々訊かれてんだよ」
 パトカー呼ばれるぐらい、派手にやったのか。想像以上の展開に二人の方を見ると、祐麒も健二くんもマスターから顔を逸らしていた。本当に仲良く、同じ方向を向いて。
「それでな、『何で殴り合いのケンカなんかしていたんだ』って訊かれたんだよ。それで健二のヤツなんて答えたと思う? 『痴情のもつれです』ってよ」
 そう言ってマスターが笑い始めたので、今度こそ由乃も笑ってしまった。どこまで青春ドラマなんだ、この二人。
「まあ、本当に痴情のもつれなんだろうが、まさかその言葉をあの場で聞くとは思わんかったよ。祐麒のヤツも『そうです』なんて真顔で答えやがるし」
 本当に痴情のもつれ――だとしたら、ちょっと笑い事じゃないかも知れないけれど、想像して笑ったしまった。もしそうだとしたら間違いなく私たちに関係する事なのに、爾衣ちゃんなんか声を出して爆笑している。
「それで、マスターはどうしたんですか?」
「頭下げて、連れて帰ったさ。それから説教だ」
「あ、マスターかっこいい」
「当たり前よ」
 由乃が言うと、マスターが胸を張って言った。いつの間にか、マスターの武勇伝に変わりつつある。
「まあでも、男はケンカして仲良くなるもんだ。女は違うから、お前らはケンカするなよ」
「しませんって」
「いやだからアレは拳を交わしたのであって」
 まだ何か言おうとする健二くんの言葉を、マスターが「じゃあ朝礼始めるぞ」とぶった切る。
 ひょっとすと男の子って、女の子以上に複雑なのかなと、そんな事をふと思った。
 
 
 着替え終わって外に出ようとすると、従業員用出入り口に人がいるのが分かった。
「由乃」
 由乃の存在に気が付くと、祐麒はハッと顔を上げて言った。腫れた目に、今更またドキッとする。
「な、何?」
 若干、というかモロに動揺しながら訊くと、祐麒はビックリするほど当たり前のように言った。
「飯、食いに行こう」
「え」
 予想外過ぎて、固まってしまった。何で、爾衣ちゃんとじゃなく、私を誘うのか。全く意味が分からなくて、「うん」とも「いや」とも出て来ない。
「これから予定でもあるのか?」
「いや、ないけど……」
「じゃあ行こう」
 そう言って祐麒は先に歩き出してしまった。これで選択肢は黙って付いて行くか、理由もないのに断るかしかなくなった。祐麒って、こんなに強引だったっけ。
 祐麒の後ろを追いかけながらそう考えてみても、断るなんて事は元からしなかっただろうなと思った。
 ――だって、嬉しかったから。元から選択肢は一つだけだったのだ。
「ねえ、どこに食べに行くの?」
 由乃が祐麒に並んで訊くと、顔を前に向けたまま答えた。
「特に決めてないかな。家に近い方がいいだろ?」
「うん、まあ」
 そりゃ、近いに越したことはない。しかしまだお店を決めてないって事は、美味しそうな店を見つけたけど一人じゃ行き難いから由乃を誘おう、という事ではないらしい。
 というか祐麒はそんな事考えもしないだろう。一人で行き難いなら、健二くんと行けばいいわけだし。
 他愛無い、ぶつ切りの会話を繰り返しているうちに、思ったより早く駅に着いた。切符を買って電車に乗り込み、その周りの騒々しさに辟易したかのように、会話はなかった。
「何かあった?」
 携帯でお店を探していた祐麒に声をかけると「うーん」と低い声が返ってくる。祐麒の目は、さっきから私を見ていない。
「ここでいい?」
 祐麒が携帯の画面に移ったお店の写真を見せると、由乃は頷いた。うちに帰るには反対方向だったけれど、ここからそう遠くはない。
 地図に載っている建物とかを確認しながら歩くと、目的のお店はすぐに姿を見せた。小ぢんまりした洋食屋は最近できたのか、白亜の城を切り取ったかのような出で立ちだった。
「いらっしゃいませー」
 カランカランと電子音ではないベルの音がして、忙しそうに由乃たちの前を通り過ぎようとした店員さんは「お好きなお席でどうぞ」と言った。ちょうど窓際の席が空いていて、由乃の心を読んだかのように「ここにしよう」と祐麒は椅子を引く。
 メニューを開くと、現金なものでさっきまで感じていた妙な緊張感は霧のように掻き消えていた。これ美味しそう、ああこれも、なんて話をしていると、まるで昔に戻ったみたいだった。
「ロコモコ風ハンバークと、バーニャ・カウダ、あときのこピラフで」
 注文を取りに来た店員さんにオーダーを伝えると、そこで不意に沈黙が訪れた。そう言えば健二くんにはしつこく誘われて食事には行ったけど、祐麒だったら即答でオーケーしちゃうんだなと、今頃思った。
「由乃さ」
 別に祐麒が何か言うのを待っている、という訳ではなかったけれど、沈黙に気兼ねしたのか祐麒が先に口を開いた。
「何で髪切ったの?」
 それは由乃にとって、意外過ぎる質問だった。髪をばっさり切った状態で会ってから、何ヶ月も経っているのに。
 そう考えると、こうやって腰を落ち着けて話が出来るのは大学に上がって以来初めての事なんだった。近くに居るだけで、これ以上お互いの事を知ろうともしていなかったのだ。ご法度みたいに感じていたとかではなく、ただ固く閉ざされた分厚い扉を前に立ち尽くすような、そんな感覚だった。
「なんでって、ただのイメチェンでしょ」
 そう、だから失恋が原因とかではない。もしかして髪を切った原因が自分なんかじゃないか、と思ってそう質問してきたなら中々可愛らしい事だけど、残念ながら違うのだ。
「そっか」
 その「そっか」は安心の「そっか」なのだろうか。気にかけてくれていたのは、少し嬉しいけれど。
 気にかける、という点では、由乃だって負けず劣らず気にかけている所がある。
 きっと訊くべきじゃないし、答えを聞いたら後悔するかも知れない。それでもこんな時にしか訊けないから、このチャンスを逃したら、聞きたくなかった答えを聞くよりもっと後悔するだろう。
 
 ずっと押し殺していた言葉が、もうすぐそこまできている。何故だか泣きそうだと、由乃は思った。
 
 
 
 
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