春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.20
  君と青春パンチ☆
 
*        *        *
 
「祐麒くん」
 ロッカーを出た所で声をかけられるのは、何度目だろうか。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
 もう正午を過ぎていたけれど、何故だかいつも「おはよう」だ。それにしても最近、爾衣ちゃんと出勤時間がかぶる事が多い。
「ね、今日終わった後って空いてる?」
 その言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ頭がフリーズした。どくんと一つだけ、心臓が鳴った。
「あー……ごめん。友達と約束があってさ」
 こうやって爾衣ちゃんからの誘いを断るのは、これでもう三度目だ。あの旅行から一ヶ月以上経ったけれど、二人きりで出かけた事はまだない。
「あ、そうなんだ……」
 がっかりした表情を見せる爾衣ちゃんに、鋭い罪悪感を覚えた。だって本当は、予定なんて何もないのだから。
 これだけ立て続けに断れば、爾衣ちゃんだって薄々は気付いているかも知れない。逆の立場なら避けられてると感じたって、無理のない事だ。
「ごめんね」
 その言葉だけは、本当に心の底から出てきた。本当に申し訳ない話だけれど。
 爾衣ちゃんはどうして、こんな不甲斐無い男なんかが好きなんだろう。祐麒の今を客観的に言うなら、『酷い男』なのに。
 話を大筋でまとめてしまうと、一度寝て、好きと言われて、それでも何も返さない。そんな男なのだ。やる事はやっておいて、彼女に対して百パーセントの気持ちを向けられない、そんな男だ。
「……ううん。じゃ、今日も頑張ろうね」
 そう言って微笑んだ爾衣ちゃんの顔が翳って見えたのは、きっと気のせいじゃないのだろう。
 目だけで追った彼女の背中。そこから暗い気持ちが滲み出して、祐麒は直視できなかった。
 
 
 翌日の、仕事終わりの事だった。
「なあ」
 珍しく夕方に、健二と帰りの時間が重なった。ロッカーで一緒になったのに口数が少ないなと思っていたら、そんな不機嫌そうな声が出てきたのだ。
「ん?」
「何で隠してたんだよ」
 そう言って着替え終わった健二は、バタンといつもより大きな音を立ててロッカーを閉めた。
 一体なんの話だ――と考えて、ハッと気付いた。健二に隠してる事と言ったら、そうそう多くはない。
「何が?」
 だからと言って、自ら「あの事か?」なんて言えるはずがない。健二が言っている事と全然違う事だったら、余計厄介だ。
「由乃ちゃんと付き合ってた事」
 ロッカーを閉めようとしていた手が一瞬止まって、それからゆっくりと扉を閉めた。やっぱり、そっちの事か。
「……由乃から聞いたのか?」
 祐麒がそう言って健二を見ると、彼は力ない笑みを浮かべた。
「いや、俺の予想。やっぱ、そうだったか」
「お前――」
 引っかかった。元々隠し事は苦手な方だったけれど、こうもまんまと引っかけられるとは。
「嘘ついたのは、そっちが先だからな。俺が聞いた時、元カノとかじゃないって言ったもんな」
 と、それを言われると、祐麒は何も反論できない。確かに「ひょっとして元カノ?」って訊かれて、祐麒は否定したのだ。
「何で嘘ついてたんだよ」
「それ最初から言ってたら、変に気をつかわれるだろ? 私情を持ち込みたくないんだよ、ここには」
 それが、一番真っ当な理由だった。いきなり周りに気を使わせる新人とか、考えるだけでも肩身が狭い。
「……まあ、その辺の話は歩きながらにしようぜ」
 今更、だったけれど、ここは職場だ。健二は結構声が大きいし、誰が聞いているか分からない。
 祐麒はうなずくと鞄を肩に提げて、健二と一緒にロッカールームを出た。従業員用の出入り口から外に出ると、もう日は傾き出している。
「祐麒がそう考えるのも分かるけどさ。俺は後から知る方がショックだったよ」
「……悪い」
 歩き慣れた道をなぞりながら、そうだよなと思った。
 健二はきっと由乃の事が気に入っている……とういか、ショックという事はもう好きなんだろう。いくらなんでも、それぐらいは分かる。最近は何かギクシャクした感じだったけれど、理由は分からない。
 その好きな人がよく知っているヤツの元カノだったと後から知るなんて、聞きたくない話だろう。最初から知っていれば、割り切って考えられたかも知れないのに。――結局これは、祐麒の都合を優先したが故に起こった事なのだ。
「ところで、さ。爾衣ともう付き合ってるのか?」
 やっぱりな、と祐麒は思った。やっぱり、その質問がくるわけだ。
「……いや、付き合ってはない」
「けどお前ら、あの時キスしてたろ。盆休み、山行った時の夜にさ」
 ジン、と頭が痺れた。それは明らかに後ろめたい事がバレた時の、あの反応だ。
「してた、というか、気付いたらされてたというか」
 まさか、見られていたなんて。キスしていた所を見られたのが恥ずかしいとかそういうのじゃなくて、ただ白黒はっきりつけていないのにそうしている事の後ろめたさが心臓を脈打たせている。
「お前さ」
 ちょうど空き地に差し掛かった所で、健二は歩みを止めた。何でわざわざ立ち止まるんだと思って健二を振り返った瞬間、祐麒の視線は思った所とは違う方向に、無理やり向けられた。
「ふざけんなよ!」
「……ってぇ」
 殴られた頬の痛みと、地面に落とされた腰の痛みが同時に襲ってきた。口の中に、鉄の味が広がる。相当思いっきり殴られたと認識するまで、そう時間はかからなかった。
「お前がそんなんだから、由乃ちゃんが辛いんだよ!」
 何なんだ、一体。確かに祐麒は殴られても仕方ないような事をしたけれど、説明もなしに話を進められても分からない。というかかなり痛かったから、今頃になって「やりやがったな」と怒りがこみ上げてくる。怒る資格なんてないクセに。
「……どういう事だよ」
「お前と爾衣がキスしてる所を俺と一緒に見ちまったんだよ。そしたら由乃ちゃん、泣きながら走ってった。追いかけて話聞こうとしても、全然何も話してくれなくてさ。そうしたら誰でも分かるだろ? 由乃ちゃんは、お前の事が好きなんだって」
 さっきまでの怒りに満ちた顔が嘘みたいに崩れて、健二は切なそうな表情で言った。今にも泣きそうな顔だった。
「俺はさ、本気で好きなんだよ。何とか笑わせてやりたい。けど上手い事いかねぇし、いつの間にか俺まで笑えなくなってるし。結局さ、今由乃ちゃんを笑わせられるとしたらお前しかいないじゃないかって思うと、すげえ悔しい」
 健二の言おうとしている事は、分かった。これはもう、祐麒と爾衣ちゃんの問題だけじゃないって事だ。
「だからお前、はっきりさせろよ。爾衣と付き合うのに、何が引っかかってんだよ。結局お前も、引きずってんじゃないのか」
 その言葉は、今日一番ずっしり来る言葉だった。引きずっている? 自分からふっておいて、何を今更。
「あのなぁ」
 祐麒は立ち上がると、真っ直ぐ健二を睨み付けた。スッと短く息を吸い込んで、吐く。
「ふざけんなっ!」
 ガードするかと思ったけど、祐麒の右拳は吸い込まれるように健二の頬に当たった。殴った右手の中指の付け根が、やたらと痛い。
「なに人様に期待してんだよ。その上『俺まで笑えなくなってきてるし』だ? そんなちっせぇヤツに由乃を任せられるか」
 言った後、自分の事を差し置いて何を言っているんだと思った。が、今更訂正も何もない。ある意味、本心だからだ。
「言ってくれる、じゃねぇかっ」
 そう言いながら健二は振り返ると、そのまま拳を祐麒の左頬に放り込んだ。視界が捻じ曲げられて、明後日の方向を向く。
「ってな、この」
 もう何に腹が立っているのか分からない。殴られた事なのか、健二の態度に対してなのか。恐ろしい事に人を殴るという事に罪悪感の一つも沸かなくて、殴られたら殴り返す、ただそれだけ応酬が繰り返される。
 眼窩の横に痛みを感じれば、右拳で頬骨を打った。健二は訳の分からない事を叫んで、それに対抗するように祐麒は喚く。
 
 ――付近の住人に警察を呼ばれるまで、そう時間はかからなかった。
 
 
 
 
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