春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.19
   マスターは語る
 
*        *        *
 
 
 ひょっとしたらラストまで居るのは、一ヶ月ぶりぐらいかも知れない。
「由乃、もういいぞ」
 閉店時間を迎えてお客さんが引いた後、テーブルを拭いていた由乃にマスターが言った。お盆休みが明けて、初日の夜だ。
「あ、はい」
 由乃は返事をすると、マスターがちょいちょいと手招きした。
 今日は珍しく三越さんがラストまで入れないというから、代わりに由乃が最後まで。店終いをした後の段取りとかはほとんどした事がなかったから、いい勉強になると思って引き受けたのだ。
「まあ座れ」
 灯りを落とした店内で、カウンター席だけ間接照明が点けられて、まるでバーのような雰囲気だった。いつもと全然違う雰囲気の店内に、妙な高揚感を覚えた。
「何がいい?」
 マスターは食器棚を向いたまま、由乃に言った。
「え?」
「俺のおごりだ。何でもいいぞ」
「やった」
 由乃は目の前でパチンと手を合わせた。まだ何も頼んでないけれど、ごちそうさまです。
「じゃあ、アイスカフェオレを」
「あいよ」
 そう返事をすると、マスターは手際よくグラスにコーヒーとミルクを注いでマドラーでかき混ぜた。何か手伝う事はないかと思って席を立とうとしたら、「いいから座ってろって」と制止されてしまった。
「お待ち」
「ありがとうございます」
 由乃は両手でグラスを受け取ると、いただきますと言ってからカフェオレを飲んだ。
 なんだか懐かしいと感じるぐらい、久しぶりの味だ。初めてこの店にお客さんとして来た時、頼んだのがこのアイスカフェオレだった。
「美味しい」
 特に仕事終わりだから、だろうか。前に飲んだ時よりもずっと甘く感じて、喉に優しかった。
 マスターは自分用にアイスコーヒーを入れてからカウンターの中の席に座った。今まで気付かなかったけれど、ちゃんと中にも椅子はあったらしい。
 ふぅ、と大きく息を吐いてから、マスターはタバコに火を点けた。こういう時用なのか、カウンターの中には灰皿まであった。
 マスターは遠い目で店内を見てこの雰囲気を楽しんでいるみたいだったから、由乃も何も言わずにちびちびとカフェオレを飲んでいた。この静寂は、穴が開いてできたものじゃない。何かが満たされてできた静寂なんだと思う。
「なあ」
 マスターは遠い目をしたまま、由乃に言った。
「お前、恋してるだろ」
「……んっ!」
 あまりにも唐突な言葉に、由乃は口に含んだカフェオレを吹きそうになった。というか、動揺しすぎだ。
「な、なんで?」
「その反応じゃ図星か。やっぱりな」
 目を白黒させている由乃に、マスターは「智恵の予想だよ」と付け加えた。
 そうか、奥さんか。同じ女なら分かるかも知れない。これが恋と呼べるかどうかは、分からないけれど。
「先に言っとくけど、職場恋愛は禁止だぞ」
「――」
 その言葉に、由乃は固まった。その言葉は、爾衣ちゃんに言って欲しい。
「嘘だ、うそ。そんな顔するな」
「え、あ。いや」
 これじゃ好きな人が職場に居ますって、言った様なものじゃないか。
 それにしても、なんで知恵さんはそんな事が分かったのだろう。確かに気付いたら祐麒の事を目で追っていた、という瞬間も珍しくないけれど、まさかずっと由乃を監視していたわけじゃないはずだ。
「俺が知恵と会ったのは、前に居た会社だからな。経営者の立場からじゃ職場恋愛禁止にしたい所だが、俺が言えた口じゃない」
 と、言われても。由乃は何か遠まわしに頑張れと言われているようで、複雑な気分だった。
 頑張ろうにも、その相手はもう一度付き合って別れた相手で。その相手は、つい最近同僚とキスしていたわけで。――本当にもう、どうしようもない。
 考えれば考えるほど欝になる……という気分にはならないのは、多分マスターの醸し出す人柄と雰囲気なんだろうなと思った。そこら辺の事情なんか何も知らないはずなのに、問題とか全部含めた上でそれがどうしたって顔をしている。
「ちょいと踏み込みすぎたかな」
「いえ!」
 何故だか分からないけれど、由乃は勢いよく否定した。別に言われた事で嫌な気分になったわけじゃないし、この際だから聞きたい事もある。
「マスターは」
「ん?」
「……一度別れた人がまだ好きって時、どうしますか?」
 我ながら、思い切った事を訊いた。誰にも打ち明けてない気持ちを、まさかこんなタイミングで人に話すとは思わなかった。
 マスターはカウンターに肘を立てると、蓄えた髭を撫でながら目を瞑った。それは何かを堪える様にも、懐かしんでいるようにも見える。
「必死だったよ」
「――」
「もう一度振り向かせる為にな、友達に戻ったフリをしながら必死だった」
 薄らと開いた目は、一体何を見ているのだろう。きっとそれは、由乃の考えているより、遠くにある光景なんだろうなと思った。
「それで」
 こくり、と唾を飲み込む。クーラーを切った店内は蒸し暑いぐらいなのに、冷や汗でも出てきそうだ。
「よりは戻せたんですか?」
「ああ」
 そう言ってマスターは、どこか優しさを滲ませた笑みで答えた。自分の事じゃないのに、心底安心した。
 そうだ、頑張ってよりを戻す事だって出来るんだ。何もかもを決め付けて無理だと思っていたら、絶対欲しいものは手に入らないだろう。
「それが知恵さんですか?」
 そうであったらいいな、と思って由乃は聞いた。そうでなくちゃいけないと思った。
 期待を込めて訊く由乃に、マスターは目を伏せて答えた。
「いや、違うよ」
「え……」
 安心して倒れ込もうとしていたベッドを、ひっくり返されたみたいだった。なんで、って訊きたいのを、必死にこらえる。
 分かれても好きなのに。必死に頑張ってよりを戻せたのに、一緒になれないなんて。――いや、それが普通なのかも知れない。別れた原因が消えなければ、繰り返す。そうじゃなくたって、一度別れたのならまた別れる事になる可能性なんていくらでもあるのだ。
「知恵と出合ったのはもっと後の話さ」
 それまでの延長線でマスターは話してくれるけれど、ちっとも頭に入って来ない。
 夢見ていたかった。そうすれば、まだ頑張れる気がしてた。だけど転がっているのは現実ばかりで、だから夢って輝いているのかなって、そんならしくもない事を考える。
「けどな、知恵と結婚してよかったと思ってるよ。普通は会社辞めて喫茶店経営なんて、反対されるからな」
 嬉しそうにマスターは言ったけれど、由乃はつられて薄っぺらな笑顔を作るぐらいしかできなかった。
 幸せだと思うのなら、きっとそれは間違いなんかじゃなくて、選んだ道は正解のはずで。でも何故だか納得いかないのは、由乃はまだその幸せってヤツを知らないからなんだろうか。
「じゃあ」
 訊くべきか訊かないべきか、悩んだ末に言った。
「もうその人は忘れられたんですね」
 時がなんとかしてくれるなら――もうそれに縋り付くしかないのだろうか。切なくて、余りにも苦しくて、息が詰まりそうになる。
「いいや」
 マスターはゆっくり、大きくかぶりを振った。
「忘れた事なんて、ないさ」
 間接照明のぼんやりとした光を受けたグラスの淵が、鈍く光っている。その疎らな光を映した瞳は、ひたすらに真摯に輝いていた。
「男は忘れられない生き物、女は忘れる生き物なんだそうだ。どっちもそれで、苦しむんだろうけどな」
 嘘だ、と叫びたかった。そんなはずない。それならどうして、こんなに胸が痛いんだ。
 もどかしくて、悔しくて、どうしようもなくて。暗い気持ちだったのに、ちょっと普通の会話をしたぐらいで嬉しくなったりして。
 忘れられたのなら、こんな思いはしなくていいはずだ。恋に落ちる前よりもずっと辛い、こんな思いは――。
「そんな目するなよ。由乃もきっと、次の恋でも見つかりゃコロリと忘れられるさ」
 そう……なんだろうか。それでいいのだろうか。
 次の恋なんて、考えられないのに、だから苦しいのに。そんな簡単に忘れられるほど薄っぺらい恋じゃなかったはずだ。ひょっとしてそう信じているから、次の恋ってやつに飛び込めないのだろうか。
 もしも祐麒と付き合ったという過去がない自分だったら、と考える。きっと誰かと恋に落ちて、別れて。きっぱり忘れて、次の相手と恋を進めていく自分が、ぼんやりだけど描くことが出来る。由乃はもっとさばさばしている性格じゃなかったっけ。
「さ、そろそろ戸締りするか」
 マスターがそう言ったから、由乃は返事をしてお店の鍵をという鍵を施錠してまわり出した。
 
 窓の鍵を閉める度に、外の景色を見てしまう。そこに祐麒がいないかな、なんて少しでも思った由乃は、きっと次の恋にはまだ遠いのだろうと思った。
 
 
 
 
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