春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.18
 きっとある目的地
 
*        *        *
 
 
 祐麒を助手席に乗せた車は、ゆっくりと坂道を滑り降りていた。
 車内を覆っているのは沈黙というより、静寂だ。みんな、というか由乃と爾衣ちゃんの二人は、昨日の疲れからかまた頭を寄せ合っている。
「いいなー、俺も寝てー」
 運転席の健二は、欠伸を噛み殺したような顔でルームミラーをぼんやり見ていた。山の斜面をジグザグに切りつけた舗道は、何度も何度も折れて、どこまでも続いていきそうなぐらい長い。
「絶対寝るなよ」
 本当に眠そうだったから、正直気が気でなかった。居眠りで崖から転落なんて、まっぴらご免だ。
 窓から谷の方を見下ろすと、昨日バーベキューをした川原と似たような景色が広がっている。キラキラと太陽の光を反射する川面は、まるで思い出が散らかっているみたいに見えた。
 祐麒は健二に少し悪いと思いながらも、窓の外の景色に顔を向けたまま瞳を閉じた。瞼の裏に描かれるのは、やはりつい十数時間前の出来事だ。
『好きだよ』
 星と月の灯りを灯した瞳が笑って、かすれた囁き声が耳に蘇る。続いた柔らかな唇の感触も、はっきりと思い出す。
 その笑顔は強烈で、そのキスはいつまでも祐麒の心を離してくれない。なんであんな綺麗な瞳をして笑うんだ、と恨めしい気持ちすら沸いてくる。
 それに対して、祐麒は何ができただろう。その唇を避けれるはずもなく、ただ惰性のような反応でその唇の感触を確かめる事しかできなかったのではないのか。
 思い出せば心臓の高鳴りさえ舞い戻ってきて、一人で焦る。何なのだろう、この罪悪感と、自分に対する嫌悪感は。
「そして俺は一人になった」
 てっきり祐麒が寝入ったと思った健二が、冗談交じりにそう言った。だけどそれは祐麒の独白のようにも聞こえて、胸の中の迷路は更に複雑になっていく。
 爾衣ちゃんは、可愛いと思う。歩み寄ってくる姿は甲斐甲斐しくて、打算のない好意は嬉しい。素直に応えられない自分が不思議なぐらいだ。
 ――俺はどうしたいんだろう?
 うじうじどうするべきか考えていると自分の腹が立ってきそうだから、考え事をそう摩り替える。一体祐麒は、何が目的としてあるのだろうか。
 そう考えて思い浮かべてしまうのは、一昨年のクリスマスだった。一体自分は、何度同じ事を考えればいいのだろう。
 あの時祐麒の抱えていた感情は圧倒的で、胸が痛いほどで。なのに祐麒は、結局楽な道を選んだ。あの時の祐麒には、辛い時期を乗り越えてステップアップするなんて選択しさえ考えつかなかった。
 結局祐麒は、人を傷つける事しかできないのだろうか。そう考えると、どれだけ煌いていた時間も酷く無意味な事に思えて、世界はモノクロに歪んでいく気がした。
 本当に欲しいものは、何だ。どこに向かって走ればいい――?
 緩やかな揺れに誘われて、まどろみはすぐそこまで来ていた。
 
*        *        *
 
 浅い眠りで見る夢ほど、最近起こった出来事に影響されやすい。それを身を以って知るのは、これで何回目だろうか。
 目の前――正確には夢の中で、祐麒はすぐ由乃の目の前に居た。いや、ただ居るというより、抱きしめられていると言った方が正しい。
 これは夢だ。――そう分かっているのに、このリアリティは何なのだろう。温もりも香りも、まだ身体が覚えているって事だろうか。
 ごろごろと大きな石が転がる川原、月明かりの下で、祐麒と由乃は抱き合っていた。顔は背けあったまま、バクバクとうるさい心臓の音だけを聞いている。
 ああ、と肩越しの息を吐く。これは由乃の希望なのだと、分かっている。夢だと認識してみる夢は、その状況を自分の好きなようにコントロールできると聞いた事がある。
 だとしたら、この温もりはなんて切ないのだろう。祐麒の背中に回した腕に、グッと力を込める。抱きしめ返してくる力を感じるほど胸を締め付けられて、苦しくて堪らない。
 今この感触を本当に味わえる人がいるとしたらそれは爾衣ちゃんで、由乃なんかもう間に入る力すらないのだろう。そう思った途端に、目の前に爾衣ちゃんの姿が現れる。真っ白な笑顔を零れそうなほど湛えて。
(あ――)
 祐麒の感触が一瞬にして消えて、その背中は爾衣ちゃんを覆っていた。さっきまでしていた抱擁を、今度は爾衣ちゃんにしている。顔はさっきから、ずっと見えない。
 
「――!」
 ひゅっ、と喉が音を立てて、由乃は目覚めた。心臓は早鐘を打って、耳の裏側まで動いている感覚がある。そのせいなのか、胸がきゅうと痛む。
 由乃の肩には爾衣ちゃんの頭が乗せられて、シャンプーの香りが漂ってきている。すうすうと気持ちよさそうな寝息が、耳のすぐそばで聞こえた。
「由乃ちゃん?」
 はっとして前を見ると、健二くんがルームミラー越しに由乃を見ていた。
「起きた?」
「……うん」
 由乃は寝起きの擦れた声で、爾衣ちゃんを起こさないように言った。まだ心臓が、うるさい。
 なんだか先が思いやられて、ため息が出た。ひょっとして由乃は、目覚めるたびにさっきみたいな痛みを感じるのだろうか。目覚めるたびにもう祐麒には届かないと、悲しくなるのだろうか。
 気が付けばもう山の中とは言えない景色が、窓ガラスの向こうを流れていた。とは行っても、遠くに見える緑の大きさは、東京とは思えない。車はどうやら、高速道路を走っているらしい。
「おはよう」
「……おはよ」
 奇妙な感じだ。夢の延長線上にいるような気分、と言った所だろうか。夢の登場人物が、すぐそこにいるせいだと思う。
 会話はそこで止まって、また妙な沈黙が訪れる。健二くんが告白してきてからというもの、妙にこの空白が気になる。
 まあ、無理もないだろう。由乃も気まずいけれど、健二くんだって相当気まずいはずだ。一体何をどう言ったらいいのか、迷って当然だった。
「残りの盆休み、何か予定あるの?」
 たっぷり三分は沈黙が流れた後で、健二くんは言った。当たり前だけど、まっすぐ前を向いたまま。
「あー……うん」
 これから先の事を順番に並べていってから、由乃はそう答えた。予定と言ったって、買い物だったりお墓参りだったり、頑張れば一日で済む用事だった。けれどそう答えてしまったのは、「ない」と答えれば確実にデートに誘われるからだ。
 正直そこまで健二くんとのデートが嫌なわけじゃない。ただ、今はとてもそんな気分にはなれなかった。由乃がこんな気持ちを抱えたまま健二くんに会ったら、それは彼に対して失礼以外の何物でもない。
「そっか」
 健二くんはそれほどがっくりした様子もなく、なんでもない事のようにそう言った。気まずさはさっきよりも色が濃くなっている。
 健二くんは、どうしてこんな過去を断ち切れない女なんかが好きなんだろう。健二くんの性格なら、きっともっと色んな女の子と仲良くやれると思うのに。
 けれどそういう問題じゃないんだろうなって、それは由乃もよく分かっている。誰かすぐに代わりがいるなら、代われるのならば大した事ない。その人だから、その人だけを想うから、こんなに苦しくて、難しいのだ。
 そうだ――なんでこんなに難しいんだろう。前は「好き」ってだけで前に進めたのに。今はそれが途轍もなく難しい。
 リセットしたいなんて、甘い考えだろうか。全部やり直せたら、今も祐麒と続いているんだろうか。それとも結局別れて、どうしたってもう交わることはないのか――考えれば考えるほど、由乃らしくない方向に考えが進んでいく。
 いっそ爾衣ちゃんが祐麒と付き合ってしまえば、諦めがつくのに。いや、キスしている現場を見てしまったのだし、これはもう付き合っていると見るべきなのか。
 
 由乃は優しく頭を倒して、また爾衣ちゃんの頭によりかかる格好になる。ふと視線を動かしてみる爾衣ちゃんの寝顔は天使みたいで、ため息が出るほど綺麗だった。  
 
 
 
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