春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.17
       星の涙
 
*        *        *
 
 
「ここにいたんだ」
 その声に振り返ってみると、お風呂上りなのかスウェットに着替えた爾衣ちゃんが後ろに立っていた。ログハウスの玄関のテラスで、硬い木の椅子に腰掛けている時だった。
「火傷してない?」
「ん、ああ……」
 さっき健二に花火で狙い撃ちされた時、運悪く右腕に命中したのだ。当然同じ花火で反撃したけれど、健二には一発も当たらなかった。
「熱かっただけで、何にもなってないよ」
「そう。よかった」
 当たった瞬間は熱かったけれど、別に何の跡も残っていない。爾衣ちゃんは隣の椅子に座ると、「見せて」と言って祐麒の腕に触れた。
「あれ、すっごく痛そうだったけど、本当に何にものこってないね」
 火照った手が、夜風に冷えた腕に心地よかった。性的なものを何も感じさせない、優しいタッチだった。
 ふう、と深く息を吐いて、また星空を見上げた。花火をしていた時よりもずっと深くなった夜の空に、今まで見たこともないぐらいの星々が輝いている。
 爾衣ちゃんは祐麒から手を離すと、同じように空を仰ぐ。何も言葉はなく、時折ログハウスの中から物音が届くだけだった。
 時刻は十時を回ろうとしていた。虫の声も、冷たい夜風も、ただ控えめに流れていた。
 贅沢な時間だ。誰よりも優雅に時を過ごせているという確信がある。忘れられない時間が流れていく事に、ただ身を委ねる事しかできない。
「ねえ、さっきバーベキューした川に行ってみようよ。きっともっと星が見えるよ」
 爾衣ちゃんは椅子の背凭れから身を起こすと、祐麒の顔を覗き込んで言った。中々いい提案だと思った。
「そうだね、行ってみようか」
 祐麒は立ち上がって歩き出すとさっき花火の片付けに使ったライトをポケットから取り出し、ログハウスの前の道を照らした。祐麒の足音に続いて、サンダルの音が続く。今頃気付いたけど、よくあの林道をサンダルで歩いてきたなと思う。
 いくつかテントの並ぶキャンプ場……というより幕営地と言った方がしっくりくる広場に出ると、もうほとんどのテントから明かりが消えていた。ここに泊まる客は基本的には登山客なのだから、当然だろう。声のトーンを落として歩いて行くと、間も無く目的地である川辺が見えてきた。
「見て」
 言われて見上げると、いつの間にかアーケードのように生い茂った木々の葉が切れて、星が瞬いているのが見えた。確かにログハウスのテラスで見ているより、ずっとよく見える。辺りに明かりがないから、余計に星が輝いて見えるのだろう。
「凄い、さっきより星が近くなった気がする」
「ね? こっちの方がいいでしょ」
 爾衣ちゃんは嬉しそうにそう言うと、少しだけ祐麒に身を寄せた。腕と腕が擦れて、また火照った体温が伝わってくる。
「あんまり長居すると、湯冷めしちゃうね」
「大丈夫だよ、この季節だし」
 とは言っても、秋ぐらい涼しいから心配したのだ。祐麒の言う事には耳を貸さず、爾衣ちゃんは「座ろうよ」と言って近くにあった大きな石に腰掛けた。
 後ろ手をついて夜空を見上げる。多分、今まで見た中で一番綺麗な星空が、振ってきそうな程目の前にある。爾衣ちゃんは何も言わずに、祐麒にもたれ掛かった。
「やっぱり、ちょっと寒いかも」
「ほらね」
 だから帰ろう、とは言い出せなかった。それが彼女を傷つけるという事が分からないほど、祐麒はバカじゃないつもりだ。
「――」
 爾衣ちゃんの手が、祐麒の腕に絡みつく。恋人同士がそうするように、自然に。
 触れ合った肌に、今更心を乱される事はなかった。ただ、これでいいんだろうかなんて、場違いな感情だけが燻る。
 爾衣ちゃんを抱いたあの夜、事が終わった後はこの肌に安心感すら覚えたのに。今は何故か、とまどいと後ろめたさがまとわりつくのだ。
 彼女は多分、祐麒を好いていてくれている。それはいくら鈍感な祐麒でも気づいているし、多分傍から見ても明らかなのだろう。
 ならばこんな時に言うぴったりの言葉があって、だけどそれはこちらの気持ちも揃っていないといえない言葉で。祐麒は結局何も出来ない。昔は突っ走るだけだったのに、曲がる事や、止まる事を覚えてしまった。その悪い例が今この時なんだろう。
 いっそ飛び込んでしまえば、全てが分かりやすくまとまるのだろう。だけどそう出来ない何かが引っかかって、ずっと動けない。
「ねえ」
 星を映した瞳が、不意に近づく――。
 
*        *        *
 
 我ながら不用意だったかなと思った。
「……」
 らしくもなく無言で歩いていく健二くんの背中を見ながら、由乃は思った。お風呂から上がった健二くんに誘われるがまま外に出たら、そこには星と虫の鳴き声だけが転がっていた。
 こんな告白して断った直後なのに、よく誘えるなと感心する。ちょうど由乃も外に出ようとしていた時に話かけられたから、断るに断れなかった。
 まさかおかしな事をしようとは考えていないと思うけれど、それにしたって無口過ぎる。キャラを変えようとしているのだろうか。
「もうみんな寝てるみたいだね」
「うん」
 明かりの消えたテントの群れを見ながら、由乃は言った。健二くんの答えは、素っ気無い。
 開けた所だから、月明かりの強さがよく分かった。告白するのなら、こういう時にすればいいのにと思う。勿論今言われても、答えは変わらないけれど。
 この二人でいるのって、こんなに息苦しかっただろうか。割りと自然に話せていて、それがいいと思っていたのに。
(どこ行くんだろう)
 散歩に行こう、とは聞いていたけれど、どこに行くとは聞かなかった。花火をした川原の辺りに行くのかと思ったけれど、全然違う方向に歩いている。
 それにしても、肌寒い。何か羽織ってくればよかったと思い始めた頃に、ようやく健二くんがどこに行こうとしているか分かった。きっと非難小屋に買い物に行くのだろう。
(あれ)
 と思っていたら、非難小屋兼管理小屋は灯りを落としていた。裏口があると思われる部屋の辺りからは光が漏れているけれど、とても営業中には思えない。
 健二くんはその小屋には脇目も振らず歩いていくから、元からここが目的地ではないのだろう。となると、選択肢は後もう一つしか残されていない。
(川原だ)
 夕方バーベキューをしていた川原に出る道だった。けれど何でわざわざ遠い方のこちらを選んだのだろう。
 やがて生い茂った葉の下を抜けると、一気に夜空が広がった。雲一つない夜空に、星たちがひしめいている。
「あ」
 先を歩いていた健二くんが、そう言って川原に下りようとする足を止めた。何だろうと思って彼の肩越しに川原を見ると、そこに人影があるのが分かった。
 そこで引き返せばよかったのに、由乃はその人影が誰か分かってしまった。それは見間違えようもなく、祐麒と爾衣ちゃんだった。
 不意に爾衣ちゃんが動いたかと思うと、その唇が祐麒のそれと重なった。暗闇に慣れた目に、それはもう間違いなく。
「――」
 健二くんも由乃も、ぴくりとも動けなかった。
 心臓が煩い。頭が重い。頭の中に禍々しい心臓がもう一つできたような、強烈な緊張感が由乃の身体を縛る。
 由乃たちが動けないでいる間、祐麒たちも動きはしなかった。一秒経つごとに感情が溢れ出しそうで、必死に堪える。
 何で今更、こんなに痛いのだろう。爾衣ちゃんが祐麒に好意を抱いているのは明らかで、いずれこうなるかも知れないって分かっていたのに。
「――ひっ」
 その声が自分の声だと気付いて、驚いた。頬を温かい感触が滑り落ちて、ようやっと自分が泣いていると気付いた。振り向いた健二くんの視線から逃げるように、由乃は踵を返す。
「ごめん」
 そう言って駆け出した。視界がゆがんで、ぼんやりとした月明かりだけの道をただひたすら走る。
 
 ――ああ、なんて事だ。
 こうなるまで、気付かずにいるなんて。こうなるまで、認められないなんて。
 祐麒のことが好きだなんて、そんな事を。
 
 
 
 
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