春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.16
 線香花火が落ちる音
 
*        *        *
 
 
 日が完全に落ちると、どこまでも深い闇が訪れた。
 真っ暗、というわけではない。月明かりは確かな存在感を放っていたし、手元には灯りだってある。ただ山の中というシチュエーションと、暗闇の淵へと誘うような葉擦れの音がそう感じさせるのだ。
「ねえ」
 急に声をかけられて、ハッとした。由乃の声だったけれど、その形しか分からない。というか、いつの間に近くに来ていたのだろう。健二が振り回している花火が、随分と遠くに見えた。
「火、ちょうだい」
「え、ああ」
 気がつけば足元の火は消えていて、暗闇に慣れた目に頭の焦げたロウソクが見えていた。
 祐麒はかがみ込むと、ライターでロウソクに火を灯した。街の明かりとは明らかに違った温かみのある光が、ほのかに辺りを照らす。
「んー」
 由乃は中々火のつかない手持ち花火の先で、揺れる炎を撫でた。湿気ているのか、本当に全然火がつかなかった。
「あ、ついた」
 ライターの火を最大にしてあぶったらちゃんとつくだろうかなんて考え出した頃になって、ようやく花火は火花を撒き散らし出した。放物線を描く黄金色の光が、川辺の石ころの間に転がり込んでいく。
「見て、色が変わってく」
 少しはしゃぎ気味に、由乃は祐麒を見て言った。赤から緑に変化したその光に照らされて、由乃は確かに楽しそうに笑っていた。
(あれ……)
 何故だろうか。由乃と花火をするのは初めてなのに、もの凄く懐かしい感じがした。デジャビュとかではなく、ただ本当に懐かしくて、何かが戻ってきたような、そんな感じだ。
「祐麒もなにかやったら?」
「ああ、そうだな」
 あれ、とまた思った。いつから祐麒は、由乃に対してこんなにぶっきら棒になったのだろう――?
 我ながら、子供っぽいと思った。由乃の差し出した花火の束から一本抜き取りながら、自分の歯痒さにもどかしくなる。
「私さ」
 祐麒がロウソクの火に花火を垂らしているのを見ながら、由乃は言った。
「花火したいって言ったじゃない?」
 その言葉に、心臓がトクンと反応した。別に悪い事をした訳でもないのに。
「あれ、祐麒が健二くんに話してくれたの?」
「ん……ああ、そうだけど」
 少し後ろめたいのは、祐麒も花火を買ってきた事を知らなかったように装ったからだ。いわゆるビックリの為の演出だ。言わなかった方がよかったかな、なんて思ってももう遅かったし、これ以上上手く嘘がつけそうになかった。
「そっか」
 シュー、と音を立てて、祐麒の持った花火が散り出した。明るい黄色の光が、さっきよりはっきりと由乃の微笑を照らす。
「ありがと」
 細められた目と、儚げな唇から紡ぎ出されたその言葉に、祐麒は今度こそ縛り付けられた。
 いつから由乃は、こんな綺麗な表情をするようになったのだろう。喜んでいるはずなのに、憂いをどこかに秘めている顔。それはあまりにも神秘的で、幻想的で――きっとすぐに無くなってしまうような、そんな予感がした。
(何なんだよ)
 何で今更、こんな気持ちになるんだ。ましてやこれは、祐麒が抱いていい気持ちじゃないはずだ。
 昔痛んだ心のどこかが、また疼いているような気がした。どうすればいいか分からずに、ただこの花火みたいに散ってなくなればいいのにと次々と火をつける。川辺で花火を持って走る健二と、それから逃げる爾衣ちゃんの姿は、どこか遠くの情景のように思えた。
「あれ、いつまでやってるんだろうね」
 無言で何本も手持ち花火を消費している内に状況が変わったのか、由乃に言われて見てみれば今度は健二が花火を持った爾衣ちゃんに追いかけられている。遠目にも汗が光っているのが見えた。
「あれっ、もう花火ない?」
 祐麒が返事を返さなかったせいか、話題がポンと切り替わった。薄暗がりに目を凝らしてみれば、確かにもう手持ち花火は尽きていた。
「いや、これがある」
 そう言って、踏み潰さないようにと避けておいた線香花火の箱を岩影から出した。箱に入っている線香花火なんて、初めてだ。
「あ、やっぱり手持ちの最後はそれだよね」
 由乃は嬉しそうに笑って、祐麒からその箱を取った。小さな手が蓋を開けると、そこには十本ずつぐらいで束になった線香花火が顔を覗かせる。
「凄い、なんか高級なお線香みたい」
 そう言って惜しげもなく束ねている紙を破ると、さっそく一本火を灯す。祐麒もその箱から一本取り上げて、ロウソクから火を移した。
「わぁ、凄い。なんか火花の散り方が違う」
 確かに、全然違った。風に吹かれてロウソクが消えても、由乃の顔から明るさは消えなかった。
 ――終わらなければいいのに。
 そう思った途端に小さな音を持って弾け出した線香花火は、あっけなく火玉を地に落とした。
 
*        *        *
 
「俺さあ」
 祐麒が火をつけた打ち上げ花火が炸裂するのを見上げながら、健二くんは言った。
「由乃ちゃんの事、好きだよ」
「――え」
 それは余りも唐突で、まさかこのタイミングでというコテコテさだった。由乃が固まってしまったのは、言うまでもない。
 何秒も遅れて、胸がドキドキしてきた。突然の告白に対して、というより、少し離れた所で走りつかれてぐったりしている爾衣ちゃんや祐麒に聞こえやしないだろうかと思ったからだ。
 普通告白って、二人っきりの時にするもんじゃないのだろうか。花火を見ながら告白ってロマンチックなようで、だけど別の事にハラハラしているから由乃にとっては全然演出になっていない。令ちゃんだったら、多分喜ぶのに。
「由乃ちゃん?」
「え、あ、うん」
 不自然なぐらい、長い事固まっていたらしい。由乃は健二くんから視線を外すと、どこを見ていいか分からなくなった。
 気になって爾衣ちゃんの方を見たけれど、こっちの様子に気づいた様子はない。祐麒は打ち上げられるたび花火を見上げては、火をつける作業を繰り返している。
「ありがと」
 それ以上の事は、言えなかった。というか、それ以上何を言ったらいいの? って感じだった。
 好意を向けてもらっているのは決して嫌なことじゃないし、嬉しいぐらいだから「ありがとう」。それだけ言って立ち上がろうとしたら、その動きを読んだ健二くんが矢継ぎ早に言った。
「俺さ、由乃ちゃんと付き合いたい」
「――」
 好意を向けて貰うのは嬉しい――そう思っているはずなのに、胸のどこかが痛む。悲しい気持ちが波のようにやって来ては引いていく。
 あれ、と由乃は思った。何故だろう、由乃はらしくもなく逃げようとしている。たまらなく逃げたいと思っている。
「多分由乃ちゃんは、俺の事なんにも思ってないよな。だから振られる覚悟もしてるし、そうなったって……俺、諦めないからさ、答え聞かせてくんない?」
 由乃は胸に苦しさを隠しながら、健二くんの顔を正面から見た。始めて見る、真剣すぎるぐらいの表情だった。
 ありがと、なんて言葉を残して逃げようとした自分が恥ずかしい。ここは逃げも引きもしちゃいけない所なのだ。健二くんはいつもの冗談で言っているわけじゃない。
「……ごめんね」
 言った後、目を逸らした。視界の端に、悲しく歪む顔が見えた気がした。
 言葉を選ぶ。なるだけ傷つけずに、だけどはっきり由乃の気持ちを伝える言葉。何度も色んなシーンが頭を回って、最終的に出てきたのは本当に何の捻りもない、ありふれた文句だった。
「健二くんの事、嫌いじゃないけど、そういう目で見れないの」
 それが今精一杯の言葉で、一番真摯な言葉だった。中途半端な言葉で、健二くんを辛くさせるのが嫌だった。
「そっか」
 健二くんも、由乃から目を逸らした。気まずい空気を引き裂くように、パンとまた花火が弾ける。
 気になってまた爾衣ちゃんの方を見ると、暗闇越しでよく分からなかったが、咄嗟にその顔が別の方向を向いた。きっとこっちの神妙な雰囲気に気づいていたのだろう。見られているなんて、気付きもしなかった。
「でもさ、俺諦めないから。それぐらいは、いいよね?」
 そう言った健二くんの目に、希望の欠片が映っているような気がした。さっきまでの表情とは一転、弱々しさも悲しみも払拭しきった表情をしていた。
「いよぉっし!」
 由乃の返事を聞く前に健二くんは飛び起きると、近くに置いてあった花火を取ってライターで火を付けた。目を凝らしてみると、花火の筒に「三十連発」と書いてあるのが見えた。
「くらえっ」
「うおわっ!?」
 一発目を空中に発射すると、今度は打ち上げ花火に火をつけていた祐麒に向けて発射しだした。パシュッ、と軽い音の後に、祐麒の足元で青白い光が弾ける。
「ばかっ! こっち向けんな!」
「うはははは、逃げろ逃げろ逃げ惑えー」
 走りだした祐麒が川原の石でこけそうになっているのを見て、爾衣ちゃんは「あはははは」と気軽に笑っていた。健二くんも祐麒を追いかけ、走り出す。
 由乃は爾衣ちゃんの隣に腰を下ろして二人を見ながら、想像もした事がなかった事を考えた。
 健二くんと笑い合っている自分、健二くんと手を繋いで歩く自分、健二くんと抱擁を交わす自分……。
 いくつもいくつも色んなシーンを想像して、最後に泣いている自分が見えてハッとした。昔痛んだあの場所に、ナイフが突き刺さったかのような痛みが走る。
 
 ジリジリ、パチパチ。
 さっき祐麒としていた、線香花火を思い出す。爆ぜては火玉が大きくなり、最後には落ちてしまう姿を。
 
 
 
 
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