春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.15
     包丁さばき
 
*        *        *
 
 
 経験の差というやつを、見せ付けられているような気分だった。
「はぁ……」
 感嘆の息をついている由乃の目の前で、爾衣ちゃんはたまねぎを輪切りにしていた。由乃はやたらと目に染みてしまってまともに切ってすらいないのに、爾衣ちゃんは気にも止めず、見事な包丁さばきで野菜を切っていく。トレイに乗せられたカット済みの野菜のほとんどは、爾衣ちゃんがカットしたものだった。
「どうしたの?」
「いや、目に染みて」
 本当は涙なんてとっくに収まっていて、爾衣ちゃんの包丁さばきを見ていただけだった。由乃は半分ぐらいまで切れたたまねぎを抑えて、また包丁に握る。
 野菜なんてだれがきっても最終的に食べやすいサイズになれば、と思っていたけれど、それは大きな間違いだった。切り方によって網の間に落ちにくくできたり、箸でひっくり返すのが簡単だったりする――と教えられるまで、由乃は自分の詰めの甘さを知らずにいたわけだ。
「よし、後は焼くだけー」
 結局爾衣ちゃんが四分の三ぐらいの野菜と切って、食材の準備は終わった。振り返ってみるともう火の準備はできているみたいで、使い捨てのBBQキットには赤くなった炭が転がっている。
「あー、切れた?」
 待ちくたびれていたみたいで、健二くんは大きな石の上にだらしなく座っていた。今頃疲れが出てきたんだろうか。
「よし、肉!」
 と思ったら飛び上がって、お肉の入ったパックの包装を破り始めた。隣でボケッと川を眺めていた祐麒も、「お」と声を出して動き始める。
 それからは、凄く早かった。ジュージューお肉を焼いて、野菜をひっくり返して――と見ているうちに、焼けた食材を置いておく用のトレイを埋めていく。
「あ、先食ってて」
 ――というお言葉に甘えて、由乃と爾衣ちゃんは先に頂くことにした。取り皿にたれを入れて、両手を合わせる。
「別に焼きながら食べればいいのに」
「そうだよねぇ」
 確かに、焼きながらでも食べる暇はある。焼くのに集中しすぎちゃっているのだ。
 爾衣ちゃんに同意すると、早速焼きたてのお肉を野菜と一緒に口に運ぶ。凝縮されたような香りが鼻腔に漂ってきて、思わず「んー!」と唸った。
「おいしいっ」
「そりゃ俺が焼いたからね」
「ちょっと高めのお肉にしてよかったねぇ」
 お決まりの漫才に笑い声が広がると、本当にきてよかったなって思った。山の稜線に隠れていく太陽が、真っ赤な光を撒き散らしてそれぞれの頬を染めている。
「さーて、俺らもいっときますか」
 そう言った後、プシュッという音が聞こえた。そろそろ食べ始めるか、という意味だと思ったけれど、振り返ってみればそこには汗をかいたビールの缶があった。
 健二くんだけじゃなくて、祐麒までそれを持って二人で乾杯している。やっぱりBBQにはお酒かって思って、少し呆れて、でも笑いが込み上げてくる。
「あっ、ズルい」
「ああ、チューハイも持ってきてあるよ」
 祐麒はそう言ってクーラーボックスの下の方を漁ると、カシスオレンジとヴァイオレットフィズの缶を取って爾衣ちゃんに渡した。前あれだけグデングデンになっていたのを知っているのに、飲ませる気か。
「はい」
「ありがと」
 爾衣ちゃんからカシスオレンジの缶を受け取ったら、由乃はまあいいかという気持ちになってきた。飲みすぎなきゃいいんだし、もし前みたいになっても今日は近くに寝床がある。男の子と一緒だけれど、寝床は一階と二階と別だし、爾衣ちゃんもいるから大丈夫だろう……というのは、ちょっと無防備な考え方だろうか。
 プルタブを引きながら、それにしてもよく覚えていたなと思った。爾衣ちゃんはヴァイオレットフィズ、由乃はカシスオレンジって、前に飲みに行った時、二人が一番最初に頼んだ飲み物じゃないか。お酒を選んでいたのは健二くんだったはずだから、あれだけガブガブ飲みながら由乃たちが飲んでいる物を覚えていたらしい。
 それから健二くんと祐麒は肉が落ちただの野菜が焦げて炭になっただのと騒ぎながら、焼くばっかりでほとんど食べずにビールを飲んでいた。そんなに食べ物ばっかり寄越されても、由乃と爾衣ちゃんだけでは消化しきれない。
「ねえ」
 ビール片手に声が大きくなっている男の子たちには聞こえない声で、爾衣ちゃんが言った。
「私が思うにね、健二は由乃ちゃんの事、狙ってると思うんだけど」
 あまりに唐突で、由乃は飲んでいたカシスオレンジを噴出しそうになった。マジマジと爾衣ちゃんの顔を見てみると、少し頬が赤くなり始めている。
「爾衣ちゃん、酔ってる?」
「酔ってないわよぉ。ただ前から、由乃ちゃんはどう思ってるのかなって思って」
 なるほど、だからこういう開放的な気分になっている時に、って事か。
 しかし、別にどう思ってると訊かれても、答え難い事この上ない。一度食事に行ったきりだし、そりゃよくしゃべりはするけれど口説かれているわけでもなかった。
「一回御飯に誘われて行ったけど……それだけだよ」
「えー、それだけって事はないでしょ?」
「何なに、なんの話?」
 と、近くで声がしたと思ったら、ようやく一区切りついたのか、祐麒と健二くんが取り皿を持って近くの石に座る所だった。まさか今まさにあなたの話をしていましたよ、なんて言えない。
「健二には関係ない話ー」
「関係ない話なら聞いても問題ないじゃんね?」
「嘘。本当は健二の悪口」
「そんじゃいいや」
 笑い声をくぐり抜けるような視線で、由乃は健二くんをチラと見た。『由乃ちゃんはどう思ってるのかなって思って』という、さっきの爾衣ちゃんの言葉を思い出す。
 幼さを残した顔に、少しだけ色を抜いた髪。笑うと笑窪が出来て、なんだか可愛いと思う事はあるけれど、残念ながら一目惚れって感覚とはほど遠いし、今更トキメキもない。
 健二くんは一体どういう思いで、由乃を食事誘ったんだろう。まあ、社交辞令みたいなものなのだろうけれど、爾衣ちゃんの言う通りだったら、何か申し訳ないなって思ってしまう。ご期待に沿えることは、まずないだろう。
「いいの? 今後の為になるかもよ?」
「由乃ちゃんが俺の悪口言ってたなら聞いときたいけど、爾衣が言ってたんじゃなぁ」
 ――って思ってたら、これだ。聞いてみたいじゃなくて、聞いときたい。微々たる違いだけれど、その意味が示唆する所は大きい。
「どうする、由乃ちゃん?」
「言っちゃってもいいんじゃない?」
 いつものノリで返しながら、胸にもやもやした物が立ちこめてくるのが分かった。別に何でもない事のはずなのに。
「まずうるさい」
「そして意地っ張り」
 爾衣ちゃんに続いて由乃が言うと、健二くんは「あうち」と言って頭を抱えた。自分で分かっている所が憎めない。
「そんで適当」
 ついでとばかりに祐麒が言うと、すかさず健二くんは「おいっ」と声を上げた。茜色の空まで、笑い声が上っていく。
 みんな次々言っているけれど、ここにいる誰もが、それが健二くんの長所でもあるって分かっている。どこにいても盛り上げ役になるし、行動力もある。そのプランが時々適当なのは、本当だけど。
「俺のプランは適当じゃない、か、ん、ぺ、き」
「じゃあこれから何するんだ?」
「食べ終わったら片付ける。そんでコテージに戻った頃には暗くなってるだろうから、ちょっと休憩した後は花火」
「え、花火なんて買ってきてたのか?」
「そう、こっそりな」
 思わぬサプライズに、由乃と爾衣ちゃんは「おー」と拍手した。流石、気が利く。
「ここら辺って花火やっていいのか?」
「知らん。コテージの向こうの川なら人いないしやっていいんじゃね?」
「やっぱ適当じゃないかよ」
 肩を揺すって笑いながら、このゆるーい感じがいいなと思った。何と言うか、凄く居心地がいいのだ。
 山の中は凄くゆっくり時間が流れて、人を縛り付けるものがあまりない。都会の雑踏も、そこかしこにかけられた時計もない。毎日スケジュール帳を見て行動している人間にとって、この雰囲気はかけがえのないものに感じるのだ。
「てかしゃべってばっかで全然肉減ってないじゃん。冷めるから食おう、早く」
 健二くんは誤魔化す様に、お肉を三枚まとめて口に放り込んだ。絶対噛み切れないと思う。
 そう言えば、と少し前の事を思い出した。祐麒に夏の予定は? って聞かれた時、「花火はしたい」って言った事がある。
 祐麒も花火を買ってきていた事を知らなかったから、その言葉が現実になったのは単に健二くんの計らいがあったからだろう。
 だけど何故だか、由乃は嬉しかった。ありがとうって声を大にして言いたいぐらいに。
 
 
 
 
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