春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.14
  素晴らしい山並み
 
*        *        *
 
 
 まだかまだかと待っていた時間ほど、思い出してみて短い時間はないなと、由乃は深く深呼吸してから思った。
 世間で言う所のお盆休み。つまりは夏真っ盛りの太陽の下、こんな気分でいられるのが信じられなかった。ふと視線を上げるだけでそこには深い緑と、抜けるように青い空が視界いっぱいに広がり、耳には遠くから川のせせらぎが届く。以前富士山に登頂した時には気にする事も出来なかった山の醍醐味を、今日は骨の髄まで染み込んでくるみたいだった。
「んーっ」
 由乃に続いて車から降りてきた爾衣ちゃんは、上体を大きくそらして伸びをした。全身で気持ちいいって言っているみたいに、表情は開放感に満ちている。
 ふと気になって振り返れば、祐麒と健二くんはトランクを開けて荷物を外に出していた。BBQセットとか、それぞれの荷物とかがトランクルームの中に積み上げられている。
 今回も一応あの喫茶店で働いている人全員に声をかけたのだけど、結局この四人になった。前に飲み会をしたメンバーから三越さんが抜けて人数的には寂しくなったけれど、それは全く気にならない。それだけ今回の話が楽しみだったのだ。
「おーい、荷物ー」
 祐麒が由乃と爾衣ちゃんの荷物を両手で上げて、ガードレールの向こうに意識を飛ばしていた二人を呼んだ。
「はーい」
 半分スキップしているような歩調で、爾衣ちゃんは車のもとに戻る。荷物を取りに来てと呼ばれただけなのに、妙に嬉しそうだ。
 由乃も祐麒から荷物を受け取ると、駐車場から続く林道の入り口を睨んだ。今日のネックは、こいつだ。現在標高五百メートル。ここから標高約六百メートルのキャンプ場まで、上らなくてはいけない。
 近づいて見てみると想像していた通り舗装なんかはされていなくて、砂利が転がっているだけ。小さい車なら通れそうな道だけど、車が通った後のような轍はない。よくよく見てみれば『車両通行不可』の看板が立っている。禁止じゃなくて不可、というのがポイントだろう。
「よっしゃ、じゃあ行くかぁ」
 ドライバーだった健二くんは一番疲れているはずなのに、一番元気だった。由乃は途中で爾衣ちゃんと頭を寄せ合って眠りこけていたから実感がないのだけど、なんと東京から五時間以上もドライブしていたらしい。もっと近場にも候補はあったらしいけれど、山登りが趣味の健二くんの親戚が穴場だというので、わざわざこんな遠くを選んだのだ。
「どのぐらい歩くの?」
 爾衣ちゃんが訊くと、健二くんは視線を左に移動させた。
「分からん」
「うわ、適当」
「歩いて三十分ぐらいって、前に話したろ? 駐車場からすぐの所なんてたかが知れてるって、じっちゃが言ってた」
「あんた、叔父さんに教えてもらったって言ってなかった?」
「じいちゃんも山登りすんだよ」
 健二くんは適当にあしらうように言ったら真意は分からないけれど、お爺さんの意見には賛成だ。感動には、ストーリーが付き物。簡単に着ける景色のいい所に行くより、自分の足で辿り着いてみるいい景色の方が素晴らしいに決まっている。……と言っても三十分だけど。
「ねえ、行かないの?」
 早くその叔父さんお勧め景色が観たくて、由乃はうずうずしていた。一人林道に入って振り返ると、健二くん小走りでやってきて由乃に並んだ。
「レッツゴウ」
 由乃たちが歩き出すと、すぐに砂利を踏む音が四人分に増えた。爾衣ちゃんは後ろで、祐麒に何かしゃべりかけている。
 健二くんは歩いて三十分って言っていたけれど、最初から妙に早足気味に歩いていく。五分でも早く着きたいような足取りに、由乃も歩調を合わせた。
「ねえ、大丈夫?」
「え? 何が?」
「それだけの荷物で、そのペースで歩いて行って大丈夫かなと思って」
 由乃が視線を下げると、健二くんの肩には今日の晩御飯とか明日の朝御飯になる食材が入ったクーラーボックスがぶらさがっている。その上自分の荷物を背中に背負っているのだ。由乃のバックの、二倍ぐらいの重さがあるはずだ。よくクーラーボックスなんて持ってきたなと思う。
「いや、余裕よゆう。そんな長い距離でもないし」
 健二くんはそう言って笑って、クーラーボックスを持ち上げて見せた。
(本当に大丈夫かなぁ)
 由乃の脳裏に、苦々しい記憶が舞い戻る。富士山に登ったあの時の由乃と、健二くんの勢いが全く一緒なのだ。そりゃ確かに距離は短いけれど、あの荷物でこのペースはきつくなってくるはずだ。
 しかしこれ以上言っても、心配され過ぎて情けなってくるだろうから、止めて置いた。男の子が意地っ張りになる気持ち、由乃はよーく分かっているから。
 
 
*        *        *
 
 
「三十分って、言ったよな?」
「言ったっていうか、聞いた……」
 祐麒は足を引きずるように歩きながら、健二に聞いた。かれこれ坂を上り始めて、四十分になる。
 最初飛ばしていた健二は若干ペースを落としながらも、今更後に引けないのか休憩しようとは言わなかった。健二と同じく食材を持っている祐麒の背中は汗でべとべとだったし、それは健二も一緒だ。
 それに比べて自分の荷物しか持っていない女の子たちは、涼しい顔をして祐麒たちの前を歩いている。だから余計に立ち止まれないし、ペースを落とせないのだ。
「あ、見えたよ!」
 そう言った爾衣ちゃんの指差した方向を見ると、ようやく目的のキャンプ場らしきところが見えた。開けた土地にちらほらとテントが張ってあり、非難小屋兼売店になっている建物の向こうには今日泊まる予定のコテージが見えた。この荷物だけでもキツいっていうのに、テントなんて持ってきた日にはどうなるんだろう。
「着いたー!」
 ――と健二は、辿り着く前からそう叫んで走り出した。『俺はまだまだいけるぜ』ってアピールなんだろうか。そう考えながら、なんかここで走らない方がおかしいような気がして来て、祐麒も走り出した。
「元気ねえ、さっきまでバテてたのに」
 追い越し際に、由乃がボソッと言った。健二の最後の足掻きは、無駄に終わったらしい。
「あー、重かった」
 健二と二人で先にここらを管理しているらしい避難小屋につくと、真っ先に食材を下ろした。今日の晩御飯、明日の朝食、昼食となると、そこそこ重い。まとめ買いした方が安いからと、多めに買ったのがいけなかった。
「そんじゃ、手続きしてくる」
 そう言うと健二は食材の入ったクーラーボックスを地面に置いたまま、小屋の中に入っていった。健二が小屋に入った十秒後ぐらいに、残る二人が小屋に辿り着く。
「結構歩いたね」
「……うん、結局四十分以上かかってるし」
 爾衣ちゃんの言葉にそう返しながら、すうっと汗が引いていくのが分かった。さっきより日が落ちて更に標高も上がったから、車を止めた場所よりも一段と涼しい。
「一番奥だってさ」
 しばらくボケッとしていると、小屋で手続きを終えた健二が戻って来て言った。
「どれぐらい歩くの?」
「五分もないって。歩くの嫌いだなぁ、お前」
「別にそうは言ってないじゃない」
 先に歩き出した健二の背中に向かって、爾衣ちゃんは「バテてたくせに」と言った。祐麒も重ねて言ってやったら面白いかと思ったけれど、人の事は言えないので止めて置いた。
 健二の後についていくと、非難小屋の近くにあった二つのコテージから五十メートルぐらい離れたところに、一つだけポツンとログハウスが建っていた。これもコテージには違いないんだろうけれど、さっきあった二つより新しいから、最近立てられた物なんだろう。正直もっと小屋っぽい小屋を想像していたけれど、二階まであってかなり本格的なログハウスだった。
「うわぁ」
「ねえ、実はもっと奥にあるとか言わないわよね?」
「言わん。本日お泊りになるのはこちらでございます」
 健二がそう言い切ったから、予約していた宿泊場所はここで間違いないのだろう。今度は女の子の方が早足になって、ログハウスに近づいていく。
「健二、鍵」
「はいはい」
 満更でもなさそうに、健二は悠々とログハウスに近づいて鍵を開けた。扉を開けた瞬間、ほのかに感じていた木の香りが、一気に濃厚になって鼻腔に届いた。
 荷物を落とすように床に置くと、爾衣ちゃんと由乃は玄関と反対側の窓に駆け寄る。二人とも声のトーンが上がっていた。
「見て、川が見える」
「本当だ、綺麗……」
 祐麒も気になって二人の間から外を見ると、そこにはなだらかな坂が川に向かって角度を下げていた。木々の狭間に傾きかけた太陽の光を乱反射する川が覗いて、神秘的なまでの光景を作り出していた。
「言っただろ? 穴場だって」
「本当。感謝しなきゃね、健二の叔父さんに」
 その台詞に健二がずっこけると、柔らかな木の香りの中に笑いの輪が広がった。長旅の疲れなんていつの間にか消え去って、活力とか原動力とか言われるものが腹の底から湧き上がってくるような感じを覚えた。
 ――グゥ。
 いや、違った。活力や原動力と言われる物を、腹の底が求めているのだった。
「ぷっ、あははははっ!」
 一度笑いが収まってしんとした後だったから余計に面白かったのだろう。爾衣ちゃんも由乃もお腹を抱えて笑っていた。
「もー、祐麒くんのお腹、絶妙過ぎ」
「いや、昼食べたの早かったし」
「しゃーないなぁ。BBQの用意するか」
 健二に叩かれて、祐麒も自分のお腹に呆れながらも笑っていた。時計を見れば、もう夕方と言っていい時刻だった。
「ねえ、あの川の近くでBBQするの?」
「いや、キャンプ場の近くの川原じゃないと、水がない」
 そう言いながら爾衣ちゃんと健二は食材をより分け出したから、祐麒と由乃もそれを手伝い出した。
「なあ、なんでこんなにホルモンがいっぱいあるんだ?」
「そりゃ俺の好物だからだ」
「えー、私嫌いなのに」
「じゃあ俺が爾衣の分まで食ってやるから安心しろ」
 買い物する時にそれぞれが勝手に入れたものに一々あれこれ言いながら、ゆっくり時は流れていく。
 まだ始まったばかりなのに、こんな時間がずっと続けばいいなと、祐麒はそう思った。
 
 
 
 
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