春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.13
       朝帰り
 
*        *        *
 
 
 寒気を感じて目覚めると、五秒ぐらいの後にそこが自分の部屋じゃない事に気がついた。
 クーラーの風で喉がやられたのか口の奥がひっつく感じがするし、何よりおかしいのがどう考えても全裸でベッドに入っているという事だった。
「んっ……」
 その声に一瞬混乱して、すぐさま昨晩の出来事を思い出した。未だに身体の一部が触れ合っている、その相手の名前も。
「――」
 顔を向けてみれば、爾衣ちゃんはあどけない顔でまだまどろみの中にいる。白く露出した肩とか、左腕に押し付けられている胸とかが、今日が昨日の続きである事の証明だった。
 今何時だろうか。時計を探すと、時計は九時を指していた。咄嗟に飛び起きそうになったけれど、今日の授業は午後からなのでまだまだ時間はある。
 それより問題なのは、今この状況だ。世間では往々にしてある事だとは言え、まさか自分が付き合ってもいない女の子と一晩を過ごすことになろうとは思ってもいなかった。その上性懲りもせずに、下半身に血が集まっている。
 爾衣ちゃんは一体、どういうつもりだったんだろう。お互い酔っ払っていたからで済ますつもりなのか、そうじゃないのか。寝顔に問いかけたところで、答えは分からない。
 不思議な感覚だ。強烈な違和感、と言うのが多分正しい表現だ。
 交わって、眠りについて、目覚めた瞬間にはその相手がいる。その寝顔を見ていても、心の底から湧き上がるような幸福感を感じられない。そればかりか、別の人と――由乃と向かえた朝さえ思い出す始末だった。
「んー……」
 爾衣ちゃんは祐麒の肩に頬を擦り付けるように動くと、薄っすらと目を開けた。ゆっくりと視線をさまよわせ、祐麒の顔を認めると綻ぶように微笑んだ。
「……おはよ」
「おはよう」
 何故だろうか。凄く可愛い、凄く抱きしめたいのに、罪悪感がつきまとう。甘ったるい朝のように見えて、実は薬のように苦い。
「今何時?」
「九時過ぎだよ」
「じゃあまだいいね」
 そう言って爾衣ちゃんは、その格好のまま動こうとしなかった。脚は祐麒のそれに絡みついたままだし、左腕に押し付けられている胸もそのままだった。
「んー?」
 爾衣ちゃんはもぞもぞと少しだけ動くと、太ももに当たったのか、祐麒の朝の生理現象に気がついた。
「……もしかして、あれでしたりなかったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 そう、これは意思とは全く無関係だ。だからと言って前日の行動が響かないわけでもないから、そこは若さというヤツなんだろう。
「あ、そうだ。ご飯食べるよね?」
 祐麒が「うん」と頷く前に、目が冴えてしまったのか爾衣ちゃんは起き出した。カーテンから透けてくるぼんやりとした太陽の明かりが、惜しげもなく晒された彼女の裸体を照らす。
 爾衣ちゃんは下着だけ身に着けると、カーテンを開けた。強烈な朝の光に、肌の白さが強調される。
「作るから待ってて」
 そう言い残して、爾衣ちゃんは下着姿のまま寝室を出て行った。
 この朝で僅かながら幸いだった事は。
 ――それは爾衣ちゃんが傷ついた表情も後悔も見せていないという、たったそれだけだった。
 
 翌日のロッカーでの事だった。
「あ、祐麒」
 着替え終わってフロアに向かおうとした所に、上がりらしい健二がロッカールームに入ってきて言った。
「盆休みって空いてるか?」
 お疲れ、とか、おはようもなしに、唐突な質問だった。健二のヤツ、楽しくって仕方ないって表情だ。そう言えばこの頃、輪にかけてテンションが高い。
「盆休み? 夏休みじゃなくて?」
「そうだよ。盆じゃなきゃ、店が休みになんないだろ」
 それでようやく夏休みではなく、盆休みの予定を訊く意味が分かった。多分またどこかへ遊びに行こうと言う話なのだろう。
 レキシドールのマスターは知っての通り元サラリーマンだから……かどうかは知らないが、世間で連休と言われている期間は四日か五日は店を休みにする。土日祝日は基本的に営業だけれど、この時期だけは例外だ。
「まあ、別にないけど」
 頭の中に出来たカレンダーをめくってみたけれど、特に予定は入っていない。夏休みの前半には大学の友人から誘われたイベントがちらほらと入っているが、後はバイトなり細々した用事だけだった。
「じゃあ、海と山どっちがいい?」
「は?」
 なんだ、その二択は。健二はその質問がまるで当然であるかのように、「どうした?」って顔をしている。
「どっちって?」
「だから、またあのメンツで遊びに行こうって話があるんだよ」
 という事は、爾衣ちゃんと健二の方で話を進めているって事か。いや、由乃も前に夏にみんなでどこかに行きたいなって話をしていたから、案外事の発端はそこかも知れない。
「で、どっちがいい?」
「山、かな」
 盆休み、というキーワードを聞いて、山梨のおばあちゃんの家を思い出した。今年は両親だけ帰ることになっているから祐麒は行かないのだけど、不意にあの田舎の景色と空気が蘇ってきたのだ。そうしてみて、自分に取っては夏イコール山なのかも知れないなと思った。
「なんで?」
 なんで、って。むしろそう訊く方がなんで? って感じだ。
「山じゃ水着は見れないぞ?」
「お前なぁ……」
 そういう事か、と理解はするけれど、だからと言って「海にしよう」とは言えない。祐麒はそういう人間なのだ。
「祐麒だって、爾衣の水着姿とか見たくないのかよ」
 だって、という言葉の裏に、「俺は由乃ちゃんの水着姿が見たい」という台詞がありありと浮かんでいた。しかしそう言われても、水着はおろか生まれたままの姿をもう見てしまっているのだ。
「最近お前ら仲いいじゃんか」
「まあ……」
 やっぱり、傍目にはそう見えているのだろうか。多分爾衣ちゃんの一方的な好意が滲み出して、そう見えているのだろう。
 そう考えて、とても重大な事に気がついた。一方的――そうだ、祐麒はまだ何も爾衣ちゃんに返していない。返せるのかどうかも分かっていない。
 今更ながら、なんて中途半端な事をしたんだろうと思った。一時的な気持ちが人を傷つけるって事、充分分かっていたはずなのに。
「ひょっとして、もうヤッたか?」
 まるで挨拶のように何気ない口調で、健二はそう訊いた。
 健二にとってはその一言で済ませられるような、簡単な事なんだろうか。それとも本当に挨拶のような感じで、それは自然な質問なんだろうか。
「下品だな」
 深くため息をつくと、かぶりを振った。
「オブラートに包んだ表現じゃんか」
「どこがだよ」
「で、実際どうなんよ? ん?」
 ここで洗いざらい話してしまったら、どうなるんだろうか。ヨカッタかどうかとか、胸の形とか感触とか健二は、聞きたいっていうのか。
 不意に何もかもぶちまけたくなるような衝動にみまわれて、次の瞬間にはすぅっと冷静になる。そこまでバカにはなりきれない。
「ヤッてない」
「なんだ、なら思わせぶりな言い方するなよなぁ」
 同じ表現を使ってきっぱり否定すると、健二はつまらなさそうに下唇を出した。
「俺の事より、そっちはどうなんだよ?」
 逆に祐麒が訊くと、健二はぴくりと反応した。前に由乃の事可愛いって言っていたし、何かアプローチをかけているんじゃないだろうか。
 想像すると、一つだけトクンと心臓が跳ねた。ずっと以前にも感じた胸の疼きが、長い残響を残している。
「俺? さあなぁ」
 健二は思い出したようにロッカーを開けて、制服を脱ぎ始めた。問い詰めれば何か出てきそうな感じがしたけれど、時計を見ればもうフロアに出ていなくてはいけない時間だった。
「自分は話さないなんて、ずるいぞ」
 扉の前で振り返って言うと、健二はニヤニヤ笑っていた。
「んーふふ、まあまた決まったら連絡するわ」
 祐麒の言葉なんか気にもせずに、健二は一方的に会話を戻した。しょうがない、と扉を開けて通路に出た。
 角を曲がると、夕方だというのに光に溢れたフロアが姿を現す。その光景を見て、今年の夏は何が起こるんだろうかと、溢れるように期待感が沸く。今頃になって、健二の話していた話が魅力的に思えてくる。
 
 まだまだ考えなきゃいけない事は、たくさんある。だけど全ては、なるようにしかならない。
 考えるより動いた方が性に合ってるよな、なんて思いながら、祐麒はまた山に囲まれた景色に思いを馳せた。
 
 
 
 
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