春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.11
    ただ飲まれる
 
*        *        *
 
 
「あ、祐麒くん」
 ロッカーを出て従業員出入り口が見えた所で、爾衣ちゃんは携帯から顔を上げて祐麒を見た。上がりの時間が一緒だとは知っていたけれど、待っていてくれたのだろうか。
「お疲れさま」
「お疲れ、待っててくれたの?」
「うん、だってせっかく上がりが一緒だったんだし」
 そう言って爾衣ちゃんは扉を開けて外に出た。空調の効いた店内に慣れた身体には、外の空気は暑過ぎる。
 七月に入って間もない今日は、梅雨の間に出来た真夏日だった。梅雨が過ぎればもう少しカラっとした暑さになるのだろうが、湿気が凄くてすぐに汗が滲み出てくる。多分一年で、一番嫌な時期だ。
「あっついねー」
「ああ、ホントに……。のぼせそうだよね」
 少し前に比べて大分日は長くなったけれど、もうすっかり夜の帳が下りている。少し歩けば、空き地から夏虫の大合唱が聞こえた。そう言えば少し前に由乃と一緒に歩いたなと思い出す。
 今日はいっその事、ラストまで入っておけばよかった。そうしたらきっと帰りは涼しかっただろう。湿気は多分、どうにもならないだろうけど。
「ねえ、祐麒くんって、明日学校行くの?」
「うん、昼からだけど」
「あ、じゃあ一緒だ」
 何が言いたくてそう訊いたのか分からないけれど、爾衣ちゃんは嬉しそうにそう言ったきり黙ってしまった。外灯に照らされた瞬間に見た横顔は、微笑みながら、何故か緊張にしているように見える。
 まあしかし、昼からでいいというのはかなり気持ちに余裕が生まれるものだ。休日の前に似た解放感がある。このまま帰るのが勿体ないぐらいだ。
「じゃあさ」
 駅が見えたタイミングで、爾衣ちゃんはそう言った。たっぷり二分は沈黙があったにも関わらず、それはさっきの話の続きだとすぐ分かった。
「飲みに行こうよ。今度は二人で」
 ね、と見慣れた笑顔はショーウインドウから漏れた光に照らされて、いつもより魅力的に見えた。そう感じた瞬間に、断るという選択肢は消えていた。
「いいよ、どこ行こうか」
 開放感のぶつけ所が見つかって、祐麒は自分でも珍しいと思うぐらい乗り気だった。自分から誘ってない所が、何か少し情けないけれど。
「じゃあ、S駅まで出てみようよ。ちょっと歩いたら、感じのいい店がいっぱいあるから」
「そうだね。静かに飲めそうな所を探そうか」
 祐麒がそう言うと、何だか間が悪いというか、不自然な一瞬の沈黙があった。それを蹴飛ばすように、爾衣ちゃんは言う。
「ならバーとかの方がいいよね。ワンコインバーとかなら、普通に居酒屋で飲むぐらいでいけると思うよ」
「そうなんだ。爾衣ちゃんって、結構そういうのに詳しいね」
「そうかな? バーとかまだ行った事ないんだけど」
 ならなんで? と思ったけれど、口にはしなかった。色々お店を知っているみたいだし、食にはうるさい方なのだろう。そういう事にアンテナを立てておけば、知らず知らずのうちに詳しくなるものだ。
「なんか、わくわくするなぁ」
 今から夜の場所に行くというのに、爾衣ちゃんはあどけないぐらいの笑顔を見せる。さっき垣間見えた緊張なんか、どこにもなかったみたいな顔で。
 
 爾衣ちゃんの言った通り、S駅から少し歩いたところにある飲み屋街には、ちらほらとバーの所在を知らせるネオン管が見えた。
 しかしこの辺りにワンコインバーというのは珍しいのか、ようやく店を見つけた頃にはじっとりと汗をかいていた。時間にしてみれば、二十分近くもさまよっていたらしい。
「あー、涼しいー」
 チャームを目の前に置いてくれたバーテンが別のお客さんの所に行ったタイミングで、爾衣ちゃんは伸びをしてそう言った。酔っ払って身体が火照った人の為なのか、店内は大分強めにクーラーが効いている。
「ねえ、何飲む?」
 祐麒が相槌を打つ前に、爾衣ちゃんは姿勢を正してそう訊いて来る。こういう時、何を頼めばいいんだろう。ビールはあるきたりだし、ここでしか飲めないような物の方が、『バーらしさ』を味わえるんじゃないだろうか。
「じゃあ、ドライ・マティーニかな」
「マティーニって、映画とかでよく出てくるやつ?」
「そう。さくらんぼみたいな感じで、オリーブが入ってるやつ」
 居酒屋とかでメニューに載っているのを見たことがないし、多分こういうところでしか飲めないだろう。外国じゃメジャーなお酒らしいし、その味を知って置いて損はないだろうと思った。
「じゃあ、私もそれにしようかな」
 爾衣ちゃんがそう言ったので、丁度注文を訊きに来たバーテンに「ドライ・マティーニを二つ」とお願いした。
 どんなのが来るんだろう、と二人でこそこそ話しながらドライ・マティーニを作っている所を見ていると、残念ながらシャカシャカと振るシェイクはなくて、マドラーでかき混ぜるだけだった。大して待たずにワイングラスの容器の部分を三角にしたようなグラスがカウンターに並んで、仕上げにライムを搾ってからバーテンは「どうぞ」と言った。
 何も言わずにグラスを口に近づけると、今まで嗅いだ事のない綺麗な香りがした。爾衣ちゃんと顔を見合わせてから、小さく一口目を飲む。
「んっ……」
 途端に咽そうになった爾衣ちゃんが口を押さえて、何とかそれを飲み干した。思っていた以上に、強いお酒だ。
「これ、結構きついね」
 祐麒が言うと、爾衣ちゃんは唇から舌を出しながら頷いた。映画の中じゃ気軽に飲んでいたのに、実際飲んでみると全然違う。よくこんなの、平気な顔して飲めるなと思う。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと舌がびっくりしただけ」
 確かに、舌がひりひりする。確かこういう強い酒を飲む時は乳製品を食べておくのがいいんだっけと思いだして、チャームの中にあった一口サイズのチーズを食べる。爾衣ちゃんも真似して、チーズを食べた。
「でもなんか、慣れればいけそう。こんないい香りなの、初めてかも」
 そう言って爾衣ちゃんは二口目を飲んだから、祐麒も負けじと二口目を飲んだ。チーズの効果なのか、さっきよりきつくは感じなかった。
「ぐいぐいいったら、ちょっと危なそうだけどね」
「そうだね、ちょっと量が少ないなって思ったけど、ちょうどいいかも」
 なんて言いつつも、喉が渇いているせいでグラスを傾けてしまう。今日は気持ちよく酔えそうだな、と思いながら、祐麒はオリーブの実を齧る。
 初めて口にするそれはクセのある味で、いつまでも舌に絡み付いてくるみたいに後味を残していた。
 
 二時間経って店を出た頃には、すっかり二人とも出来上がっていた。調子にのって四杯も頼むものだから、祐麒も結構酔いが回っていた。
「んんー。いい感じー」
 爾衣ちゃんの足取りしっかりしているものの、祐麒同様酔いが回っているらしく何をするにもオーバーアクション気味だった。身振り手振りが大きくなって、コロコロとよく笑う。
 爾衣ちゃんが住んでいるマンションがあると言う見知らぬ町の道を歩きながら、祐麒は自分自身もそうなっているんだろうなぁと思った。本当に今日は、いい感じ酔っている。
「結構いい所に住んでるんだね」
「んふふー。そうでしょー」
 駅から少し離れれば、すぐに耳障りな騒音は無くなって、閑静な住宅街に飲み込まれた。どの家もマンションも清楚な佇まいで、雰囲気でその土地柄が分かる。
「あ、ここね、私のうち」
 そう言って立ち止まったのは、その中でも特に背の高いマンションだった。できたばかり、という感じではないけれど、デザイナーズマンションなのか全体から洒落た感じが醸し出されている。
「何階?」
「十一階ー」
 そう言いながら爾衣ちゃんはマンションの中に入って、テンキーで暗証番号を打った後、センサーに指を当てて指紋を認証させた。扉がガチャと小さな音を立てて開いて、爾衣ちゃんはふらりとその向こうに行く。ここまで送ればいいかと考えていたけれど、爾衣ちゃんは扉を開けて待っていた。
「その高さなら、見晴らしよさそうだよね」
「いいよー。見てく?」
 爾衣ちゃんはそう言って、またコロコロ笑った。冗談なのか本気なのか、分からない口調だった。
 エレベーターで十一階まで上がると、爾衣ちゃんの住んでいる部屋はすぐそこだった。シンと静まり返った通路で、耳鳴りがする。
「じゃあ、おやすみ」
「え、寄ってかないの?」
 爾衣ちゃんは鍵を開けながら、意外そうに言った。さっきの発言は、本気だったのか。
「お茶ぐらい飲んで行ってよ。喉渇いてるでしょ?」
 言われてみれば、確かにそうだった。強い酒ばかり飲んでいたせいで、喉はカラカラだ。
「いいの?」
「いいよ。さ、上がって」
 扉の向こうには、よく片付いた廊下が見えた。一人暮らしの友達の家に行った事は何度かあるけれど、大抵廊下まで散らかっているものだ。そこら辺は、流石女の子という所なのか。
 玄関で靴を脱ぎながら、今更本当にいいのかななんて思った。爾衣ちゃんもこんな簡単に男を部屋に上げて、大丈夫なんだろうか。少し心配になる。
「お邪魔しまーす」
「あ、そこ座ってて」
 リビングに通されると、思っていた以上の広さに驚かされた。間取り的には、一人暮らしじゃなくてファミリー向けだ。
 ソファーに座って待っていると、パタパタとスリッパの音がして、目の前にグラスいっぱいの麦茶が現れた。ありがとう、と言って、麦者をぐいぐいと喉の奥へ流し込む。
「あは。いい飲みっぷり」
 目を細めた爾衣ちゃんに見つめられて、何故だか照れくさくなった。だけど本当に喉が渇いていたんだから、仕方ない。
 グラスの中身が三分の一ぐらいになると、爾衣ちゃんは持ってきたペットボトルから麦茶を注いでくれる。ソファで右隣に座った彼女の足の距離と祐麒の足の距離が、やけに近い。
 ――って、何を考えているんだろう。それぐらいの事で心臓が少し早くなっているなんて、ちょっと馬鹿らしい。
 だけど、何か言おうと思っているのに何も口に出せない。こんないい部屋に一人で住んでいるなんて、親は何の仕事をしているんだろうとか、お店での話とか、話す事はいくらでもあるのに、むやみやたらと沈黙だけが流れていく。
「……」
 爾衣ちゃんも爾衣ちゃんで、何も言わずに白い喉を動かして麦茶を飲んでいる。それが扇情的に見える祐麒は、もうそろそろ帰った方がいいのかも知れない。
「ねえ」
 言われて爾衣ちゃんの方を向くと、彼女は笑っていた。今まで見た事のない笑顔で――祐麒の肩に寄りかかってくる仕草もまた、初めての感触だった。
「いいよ」
 ドクンと心臓が跳ねた。何が、とは訊けない。多分祐麒は、言わせてしまったのだ。
 愛玩動物のような潤んだ瞳が、祐麒を映している。色白の肌にぷっくりと血色のいい唇が、物欲しそうに上を向いている。
 ゆっくり顔が近づいてきて、急に彼女の儚さと力強さを感じた。綺麗な顔が、まるで何かの魔法をかけたかのように、祐麒の全てを縛り付ける。
「爾衣ちゃん……」
 祐麒の左手が、彼女の右肩にのった。本当に無意識に、まるで左手が勝手にそうしたかのように。
「んっ……」
 あ、と思った時に遅かった。間近に迫った爾衣ちゃんの顔は、祐麒のそれと重なっていた。
 柔らかな感触が続いた後、ゆっくりと舌が侵入してくる。がくんと酔いがまわる。何も抵抗できなくなって、その舌に応える。
「爾衣ちゃん」
 何か言おうと思って、唇を離す。だけどそれを許さなかった爾衣ちゃんの唇がまた祐麒の口を塞いで、舌の熱さだけが行き来する。
「いいよ」
 爾衣ちゃんは自分から舌を抜くと、ソファに横たわってもう一度そう言った。お互い息が上がっている。
 
 何かが、プッツリと切れる音がした。久しく味わうその感触に、祐麒は抵抗する力さえ奪われていた。
 
 
 
 
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