春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.10
  パン屋で待ち合わせ
 
*        *        *
 
 
「なんでそういう事を、祐麒も由乃も話してくれないのかなぁ」
 翌日祐巳は由乃を捕まえるなり、そう口にした。まあ、そう言われてしまうのも無理はない。ほとんど毎日顔を合わせているのに、あんな方法で知ってしまったのだから。
 由乃はバスに揺られながら、祐巳の愚痴の聞き役に徹していた。普段は逆なのになぁって思って、自分はなんてヤツなんだと今更思う。
 それにまだ、令ちゃんにだって言ってないのだ。勿論令ちゃんには言えない話もあるけれど、令ちゃんにすら話してない事を他の人に話すなんて事はまずない。勿論、令ちゃんにだけは話せない話だってあるけれど。
 M駅へ向かうバスは夕方だけあって、そこそこ込んでいた。家と学校が歩いていける距離だからバスにはあまり馴染みがないのだけど、毎日こんな揺れの中で通学しているのかと考えると、手術前の由乃じゃ耐えられなかっただろうなと思った。
「別に私も祐麒も、何か意味があってそうしていたわけじゃないもの。わざわざ言うほどの事でもなかっただけよ」
「いやいや、言うほどの事でしょ、それ」
 ああ、何だか祐巳が姑か何かのように思えてきた。付き合っている時は一番近くで見守ってくれていたのは確かだけど、別に昨日勘違いされたようによりを戻したわけじゃない。わざわざバイト先で再会した、なんて言ったら、まるでそれを喜んでいるみたいに思われたり、色々勘ぐられたりするのが嫌だったのだ。
 M駅行きの循環バスは、渋滞で少し遅れながらも、ホームへと帰って行く。ようやくバスの停留所に着くと、軽くエアコンの効いた車内から吐き出された途端に風のぬるさを感じた。夏は刻一刻と、手を伸ばしてきている。
「で、どう? ちゃんと働いてる?」
 主語がなかったけれど、祐麒の事を訊いているのは明らかだった。
「働いてなきゃクビよ。喫茶店ってサボれるほど暇じゃないわよ」
 そう、忙しい喫茶店ほどサボれない。由乃の場合、もし店が暇になってもキッチンの特訓だから尚更だ。
「ふーん、今度行ってみよっかな、その喫茶店」
 それにしても祐巳、M駅についたのに、帰らないのだろうか。由乃は人と待ち合わせがあってここにいるからいいのだけど、このままここで話し込んでいるともろに鉢合わせてしまう。
「別にいいけど……祐巳も誰か待ってるの?」
「うん、ちょうどここでね。一番分かり易いし」
 祐巳の言う通り、改札横のパン屋の前と言えば間違えようもない目印だ。という事は、祐巳の方の待ち人の方が早く来てくれるのを祈るばかりだ。じゃないとまた、ややこしい事になる。
「あ、お待たせ。早かったね」
 ――って思った瞬間に来てくれるわけだ。人生って、斯くも上手くいかないものだなと思った。
「結構待った?」
 人懐っこい笑みを浮かべて言う健二くんを、祐巳は昨日と同じ顔で凝視していた。多分また、同じ勘違いをしているのだ。
「あ、友達?」
「うん、高校からの親友。祐巳って言うの」
「どーもー」
 健二くんが会釈すると、祐巳は視線だけは変えずに会釈を返した。やがて由乃の顔を真っ直ぐ見て、予想通りの事を言う。
「ひょっとして……新しい彼氏?」
「あ、そう見える?」
「違うって」
 何故だか健二くんは嬉しそうにそう言ったけれど、由乃は即座に否定した。これ以上の勘違いは無用である。
「バイト先が一緒なの」
「ああ、そういう事」
 理解してくれただろうか、職場での付き合いも大事だって事。
 というか、祐巳の方の待ち人って誰なのだろう。まあ祥子さまと待ち合わせ、というのが妥当な線だろうけど、ひょっとしたら男、という可能性もある。だとしたらこっちこそ「何で言ってくれないの」だけど、それにしても――。
「あれ、今回も祐巳ちゃんの方が早かったね」
 ――今日は考えた瞬間にそれが実現する魔法でもかかっているのだろうか。「祐巳ちゃん」と呼んだその人は、憎たらしいぐらい爽やかな笑顔で言う。
「由乃ちゃんも一緒だったの? 久しぶりだね」
「す、優さん、なんで……あと三十分ぐらいあるのに」
「前は僕の方が遅刻したからね」
 何だ、一体。前って事は、以前にも二人で待ち合わせしてどこかへ行ったって事か。でも柏木さんと言えば祥子さまの元婚約者で、二人の接点は祥子さまを挟んでしかないはずじゃ? ――っていうか『優さん』って、何だ。
「じゃあ行こうか。そっちの邪魔をしても悪い」
 そう言って柏木さんは由乃と健二くんをまとめて見た。この人もやっぱり、勘違いしている。
「あ、うん……祐巳」
 由乃は予想外の事態にひるむまいと、祐巳の顔を真っ直ぐ見て言った。
「また明日ね」
 
 どうにもこうにも、解せないし納得いかない。
「由乃ちゃん?」
 夕食時にはまだ少し早い時間に入ったレストランは、時間帯のせいもあってか人はまばらだった。オムライスが最高に美味しいからという話で来たけれど、どうにも頭がいっぱいでふわふわでとろとろの卵も単なる腰のないヤツに思えてしまう。
 大体なんなんだ、祐巳の言ってる事とやっている事は矛盾している。高等部時代は、あんなに毛嫌いしていたのに、一体何があったって言うんだろう。
 そういう事こそ、由乃に相談すべきじゃないだろうか。曲がりなりにも経験者なわけだし――と考えてはみるものの、恋愛感情のあるなしまでは分からないわけだけど。
「由乃ちゃーん」
「え? あ、ごめん、何?」
「いや、何かボケッとしながら怒ってるなぁって」
 健二くんの言葉は的確なようで、少し違う。ちょっと上の空だっただけだ。
 前に食事の誘いを受けた時は「遅い時間だから」という事で断ったから、「なら早い時間で二人ともバイトが入っていない時に」という事でご飯を食べに来たわけだったけれど。どうにもタイミングが悪かった。
「別に怒ってるわけじゃないんだけど……」
 今ある感情を素直に言うなら、不満だ。祐巳に対して、自分に対しての。
「何かあった? っていうか、さっきの事だよね」
 まるで当てずっぽうな事を言われるのかと思ったら、意外にも当てられてしまった。健二くんって空気に敏感だと思っていたけれど、それすなわち人の感情に敏感だという事なのだ。
「当てていい?」
「当てれるものならね」
 少し意地悪にそう言うと、健二くんは大げさに腕を組んで考え出した。なんだ、何か考えがあって言ったのじゃなかったのか。
「まず原因は、さっきの男」
「……まあ、正解かな」
 確かに柏木さんがあの場に現れなければ、由乃は素直にオムライスを食べれていたはずだ。嫌な後味を残していく辺り、流石銀杏王子だ。
「で、さっきの女の子は、多分由乃ちゃんと一番仲がいい友達」
「……正解」
 何だ何だ、結構当たっている。まあ由乃は友達としては一番仲がいいと思っているけど、祐巳がどう思っているかは分からない。今日みたいな一件があってしまうと。
「そしてさっきの男は由乃ちゃんが片思い中で、何故か親友と待ち合わせ。それを見てしまった由乃ちゃんは機嫌が悪い、って感じ」
 さっきの男に片思い中、の辺りで思わず吹き出してしまった。柏木さんに片思いする事は、多分今後一生一度たりともないだろう。
「ぶっぶー。大不正解」
「え、マジで? かなり自信あったんだけど」
「確かにいい線いってたよ。けど片思い中は違うの。私正直、あの人苦手だしね」
 苦手というか、好き嫌いで言えば即答で嫌いに分類される人だ。ああいうキザったらしいのは、剣客物の中だけで充分だ。
「そうなんだ。ならいいや」
 ならいい、って、何が? と思わず訊きそうになって、咄嗟に思い留めた。多分ここは、スルーしていい所だろう。
「でもさ、それならなんでそんなに不服そうなの?」
「あの人と会ってるって事知らなかったからだよ。親友なら、それぐらい話しておいて欲しかったなぁって」
 ああ、と健二くんは頷いた。分かってくれるだろうか、この置いてけぼりにされる感覚。
 なんて言うか、焦るのだ。羨ましいとかそういうのじゃなくて、ただこれでいいのかって思う。漠然と、今のままじゃダメだって思うのだ。
「でもさ、親友だから言えない事もあると思うよ」
 健二くんは今まで見た事もないような神妙な顔でそう言った。そうだ、それはよく分かってる。由乃が令ちゃんに言えない事があるのと同じだ。
「嘘付いたり、何か隠したりするのはさ、その人の事を大事に思ってる証拠なんだよ。いいとか悪いとかは別にしてさ」
「うん……」
 そうだ、その通り。どうでもいい人に、嘘をついたり隠したりする必要はない。自分の嫌な部分を見せたくないから、嫌われたくないからそうするのだ。
 健二くんが言うのはもっともで、だけど何か違和感がある。それが何なのか気付くのに、そう時間は要らなかった。
「あのさ、一つ言っていい?」
「うん、何?」
「健二くんのキャラじゃないよ、その台詞」
「あっははっ! その突っ込み待ってた!」
 パンと手を叩いて、由乃を指差す。由乃もそう言った直後に、思わず笑ってしまった。
 にわかに店内の視線が集まったけれど、それは三秒も続かずに消える。何だかよく分からないけれど、もやもやした気持ちは少しずつ紛れてきている。
「なんかさっきので、健二くんの印象が変わったかも」
「それっていい方に? それとも悪い方?」
「いい方だよ、多分ね」
「多分、か」
 健二くんははにかむように笑って、グラスを傾けた。いつの間にか彼のお皿は、空になっていた。
 
 
 
 
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