春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.09
クイーン・オブ・勘違い
 
*        *        *
 
 
 あ、と思った時には、テーブルにアイスティーが広がっていた。
「す、すいませんっ」
 慌ててグラスを起こしたけれど、当然時既に遅く、氷まで全部外に飛び出した後だった。勢いよくテーブルの上を滑ったアイスティーは、端の方からポタポタと落ちて小さな女の子のスカートを濡らす。
「つめたーい」
 女の子は跳ねる様に横に動いて、零れたアイスティーをよける。その間にも床や椅子には、アイスティーが滴っていく。
 ボケッとしている場合じゃないと、祐麒はトレイの上に持ってきていたお絞りでテーブルを拭く。その間にその女の子の母親と思しき女性は、ナプキンを取って女の子のスカートにあてていた。
「本当に申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「あー、はい。そんなに濡れてないし……」
 女性の言うとおり、ビタビタになるほど濡れたわけではなく、一箇所だけ濡れてしまっただけだった。だけどこれが、ホットだったらどうだっただろう。太ももに火傷は免れなかったはずだ。
 零した時の音で気付いたのだろうか、料理を運んでいた爾衣ちゃんは手が空くと早足でこちらにやってくる。
「申し訳ありませんでした。すぐ代わりをお持ちしますので」
 爾衣ちゃんもお絞りを使ってテーブルの隅まで拭き上げ、その途中に目で「行って」と合図した。早く代わりを頼んで来いという事だ。
 カウンターに向かいながら、祐麒は情けなくて仕方なかった。どうしたらあんなガッチリしたグラスを、倒したりできるんだ。我ながらボケッとし過ぎだ。
「三越さん、すいません。アイスティ、零してしまって。もう一つお願いします」
「はいよ、アイスでまだよかったね」
 何でもないって顔で三越さんはそう言って、けれど急ピッチでアイスティーを作ってくれた。トレイにそれを載せてみるとそれは、さっきよりもやけに重たく思えた。
 
「はぁ……」
 休憩時間になってからも、祐麒のテンションは下がりっぱなしだった。休憩室には誰もいないのをいい事に、溜め息を吐き放題にしている。
 今回はナプキンで拭くぐらいで済んだものの、もっと酷かったり、熱い飲み物だったらどうなっていたことか。特にホットコーヒー用のカップなんて、アイスティーのグラスに比べればずっと不安定だ。
 多分あのお客さんは、相当な常連でもない限り、この店には来ないだろうなと思った。大切な娘に飲み物を零されたのだ。口調はそれほど荒々しくはなかったけれど、内心不愉快極まりなかったはずだ。
「あ、やっぱり凹んでる」
 そう言って休憩室に入って来たのは、爾衣ちゃんだった。そう言われても仕方ない。一体どこの野暮ったいドラマだって格好で、一人で頭を抱えていたんだから。
 しかし、どうしたんだろう。爾衣ちゃんはもう上がりの時間だったし、いつもなら休憩室には寄らずに帰るのに。
「あのね、そんなに気にしなくていいよ」
 爾衣ちゃんはそう言いながら、祐麒の隣に腰を下ろした。向かいの席は空いているのに、あえてそこを選んだ。
「私なんてもう、三回もあれやってるし」
「三回も?」
 それは経験の差を考えても、祐麒よりハイピッチでやっている。やっぱり誰もが一度は通る道なのだろうか。
「そう、もう三回。お客さんにすっごい怒られた事もあったよ。その人はやっぱりそれ以来来てないけど、他の人はまたこの店に来てるし。だからそんなに気にしなくていいよ」
 凄いな、心が読めるのか、と祐麒は思った。流石同じ事をやっただけあって、祐麒が気負っているものが見えるのだろう。ポンポンと膝を叩いてくる手から、じわりと元気を分けて貰っているような気分になった。
「私、嫌な事は大抵明日になれば忘れてるしね」
「爾衣ちゃんらしいね」
 そう言って笑うと、嘘みたいに気分が晴れ上がっていた。どれだけ思い悩んだってどうにもならないって分かっているのに、こうして誰かに何か言って貰わないと立ち上がれないなんて、祐麒もまだまだだなと思った。
「元気が出たみたいだから、私行くね」
 そう言って彼女は立ち上がると、休憩室の扉を開けた。振り返って、笑う。
「お先っ」
「うん、お疲れ」
 爾衣ちゃんは今日一番の笑顔を部屋に残して、扉を閉めた。
 
「あ」
 丁度着替えを終えてロッカーを出た所で、その隣の部屋から同じタイミングで出てくる人影があった。
「お疲れ」
「あ、うん。お疲れ」
 由乃は祐麒の姿を認めると、そう言って止まっていた足を動かし始めた。そうする事が当然のように、祐麒も一緒に歩き出す。
 時計を見れば午後八時過ぎ。由乃は夕方から入っていたからてっきりラストまでと思っていたけど、そうではなかったらしい。
 外に出ると、あまり冷たいとも言えない風が頬を撫でていく。早いものでもう六月も中旬。つい数週間前まで夜の風は冷たく肌に心地よかったのに、今日は夏のような暑さだったせいかぬるく感じてしまう。
「今日は暑かったな」
 店の駐車場を出たぐらいになって、ようやく祐麒は言葉を発した。別に一緒に帰ろうと申し合わせたわけでもないけれど、目的地は駅までと一緒なのだから、わざわざ離れて歩くのも馬鹿らしい。
「そうだね。もう夏なんだなぁって感じ」
 外灯に照らし出された歩道はどこまでも静かで、夜空に映える月とよく似合っていた。今夜は月明かりだけでも歩けそうなぐらい、月が明るい。
 最近は、こうして由乃と帰路を共にする事も珍しくない。入りたての頃は同じシフトに入らないように避けられそうだな、と思っていたけれど、結構帰りは重なる事が多い。平日は夜のラスト一時間だけなら、バイトは三越さん一人でなんとか足りるからだ。
「ねえ」
 通りがかった空き地から聞こえる虫の声に耳を澄ましていると、由乃の方から話しかけてきた。
「夏はもう予定立ててるの?」
 予想外の質問に由乃の方を見ると、ばっちり目が合った。興味津々というわけではないみたいだったから、何となく訊いただけなんだろう。
「まだ何も。花火はしたいなあとか、漠然と考えてるだけかな」
 夏休みの予定を思い浮かべてみても、これと言って大きなイベントはなかった。多分後二週間もすれば、具体的な話が出てくるんだろう。
「ふぅん」
「由乃は?」
「私も一緒かな。お祭りがあるなら行きたいなぁとか、考えてるだけ」
「そっか」
 どんどん駅が近づいてくる。駅の周りは色々な店が建ち並んでいるせいで、レキシドールのある通りから比べると随分明るい。
「またあのメンバーで、どこかに行きたいね」
「そうだなぁ」
 由乃がそう言うのは、意外だった。前にバイトのメンバーで飲みに行った時の事を、由乃は結構気にしていたからだ。
 そりゃまともに歩けなくなって人に送ってもらったりしたら、負い目も感じるだろうけど。送った側としては勝手に言い出した事だから、そう思う理由なんてないと思うのだ。
 けれど由乃がまたあのメンバーで遊びに行きたいというのは、決して悪い事じゃないと思った。だってその中には祐麒も含まれているはずだったからだ。
「あれ?」
 駅に入る瞬間に、よく聞きなれた、だけどこの場所では違和感のある声が聞こえた。
「祐麒? 由乃?」
 声のした方を振り返ると、分かり切っていた事だけどそこには祐巳がいた。文字通り目を丸くして、視線を祐麒と由乃の間で行ったり来たりさせている。
「祐巳」
「え、なんで?」
 ――と言うのも無理はないな、と思った。祐巳には由乃と同じバイト先だとは言ってないし、別れた時に一番ショックを受けていたのは祐巳だったから、驚いて当然だ。
「なんで、っていうか……」
「え? 話してなかったの?」
「由乃の方こそ、話してなかったのか」
 祐麒と由乃の会話に、祐巳はさらに困惑を色濃くさせていく。完全においてけぼりだ。
「っていうか、祐巳はなんでここに?」
「買い物。美味しいクッキーを売ってるお店がこの近くに……っていうのはどうでもいいから」
 よほどそのクッキーが御気に召したのかそのままクッキーについて語り出すかと思いきや、やはり目先の疑問は拭えないようだった。まあ、説明すれば簡単な事なのだけど。
「……ひょっとして、よりを戻した?」
 で、その簡単な説明を省けば、当然祐巳お得意の勘違いが始まるわけだ。しかしあの言い方じゃ、祐巳じゃなくても勘違いしてしまうかも知れない。
「違うって」
「違うわよ」
 違う、の部分が、見事に重なった。思わず顔を見合わせて、何故だかばつが悪いみたいにすぐ視線を解いた。
「じゃあなんで?」
「それは電車の中で話すよ。もう電車が来る」
 余裕を持って着いたのはいいけれど、ここで話していたら一本乗り遅れてしまう。祐麒は祐巳を急かすと、さっさと改札を抜ける。
「私こっちだから。じゃあ説明よろしく」
「うん、お疲れ」
 そう言って由乃は反対方面のホームへの階段を上って行った。祐巳はまだ何か言っていたけれど、「どうせ明日会うでしょ」と言われて引っ込んだ。
「ねえ、どういう事よ」
 M駅方面の電車を待ちながら、祐巳は祐麒に詰め寄る。祐麒とか由乃とか、近しい者にしか見せない強い眼差しで。
 説明する労力なんて大した事はないのだろう。だけどこう勘違いされると、それだけで面倒くさいなあと、祐麒は祐巳を宥めながら思った。
 
 
 
 
≪08 [戻る] 10≫