春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.08
   不真面目モード
 
*        *        *
 
 
 久々に、お腹が痛くなるほど笑っている。
「あーっぷさいっ、いんさーいだん!」
「あはは、はははは!」
 おかしな振り付けつきで昔流行った歌を歌う健二くんを見て、由乃も爾衣ちゃんもお腹を抱えて笑っていた。慣れないお酒で少しだけ頭が痛くなってきていたけれど、なんだかそれも吹き飛ばされてしまった。
 一次会だけで帰ってしまった三越さんを除く四人で来たカラオケボックスは、さっきの居酒屋なんか比較にならないぐらいの騒々しさだった。一曲歌い終わった後に訪れるはずの静けさは別の部屋からの歌声でかき消されて、耳の休まる暇もない。
 こんなうるさい場所、自分には縁が遠いと思っていたけれど、来て見ればシートに染み付いたタバコの匂い以外は、それほど悪いものでもないなと思った。今時カラオケボックスに不慣れなんて、我ながら世間知らずだ。
 健二くんの歌が終わると、続いて優しいピアノのイントロが流れ出した。タイトルを見てみれば、誰でも知っているような、洋楽のスタンダートナンバーだった。由乃たちが生まれた頃かそれより前に作られた曲だけど、たびたびテレビで耳にするからよく知っている。
「When I lost in――」
 驚いた事に、マイクを取っているのは祐麒だった。普段の声とは違った澄んだ声、ちゃんと単語が分かる発音で、耳によく馴染んだメロディが流れていく。
 何度も聴いたサビのメロディにハッとするまで、由乃は完全に停止してしまっていた。聴き惚れていた、というのは、また少し違う。
 何なのだろう、この取り残された感じ。予想以上に歌が上手かったから、とか言うのではなくて、もっと根本的な所だ。
「ああ、あのCMに使われている曲だったんだ」
 間奏の間に爾衣ちゃんが言って、ようやく気付いた。今の祐麒は、由乃の知っている邦楽のアーティストばかりを聴いていた祐麒じゃなくて、昔の洋楽が好きな一人の大学生だ。
 たった二分ぐらいの間で、一年と言う時の流れを痛いほど感じる。由乃も祐麒もこの一年で変わっているはずなのに、どうして取り残されたような気分になるのだろう。
 思い返せば、あの頃は何だって知ることが出来た。今好きな歌手、俳優、最近発見した美味しい食べ物――。共有できるものは、できるだけ多く共有しようとしていたのだ。
 逆に祐麒は由乃を見て、どう思っているんだろう。変わったなって思うのか、それとも変わらないなって思っているのか。見ている限りでは、由乃と同じ気持ちになっているとは考えられない。
「すごーい、英語の曲をちゃんと歌ってるの、初めて聴いたよ」
「そうかな? 舌噛みそうになったけど」
 曲が終わるなり爾衣ちゃんにそう言われて、祐麒ははにかんだ。爾衣ちゃんも健二くんも拍手していたから、由乃も気持ちの入らないまま拍手をする。
「あ、次私ー」
 少し頬を赤くして上機嫌の爾衣ちゃんは、マイクを持って立ち上がった。流れ出したイントロとプロモーションビデオの映像に合わせて振り付けを踊ってみせて、笑いと関心を誘う。
 可愛らしい声で歌い出した爾衣ちゃんを見て、由乃はこれ以上なく羨ましいと思った。彼女は祐麒の事を、これから知っていける。素直な笑顔を見せられるし、祐麒の中にどんどん居場所を作っていける。
 ――って、なんでこんな事考えてるんだろう。爾衣ちゃんが羨ましいなんて、未練たらしいったらない。
 それに祐麒はどうなんだろう。ちゃんと爾衣ちゃんを見ているのか、それとも何も感じてないのか。横顔を見つめてみたけどそこからは何も読めみれなくて、由乃は半ば自棄のようにチューハイを飲み干す事しかできなかった。
 
「うー……」
 限界ってヤツを、見誤ったかも知れない。頭も足もふわふわして、まともに歩けない。
 早い話が飲み過ぎだ。なんだかやけにジリジリと喉が渇くし、人が歌っている間何をすればいいかと言えば手拍子かグラスを傾けるしかなかったし。立ち上がってフラフラしているのに気付いても、後の祭りだった。
「……よく一時間でそんなになれるなぁ」
「うるさいわねぇ」
 健二くんと爾衣ちゃんが会計を済ませている間、由乃は壁にもたれかかって頭をぐわんぐわんと揺らしていた。祐麒は由乃以上に飲んでいるはずなのに、平気そうな顔でしっかり立っている。
「おまたせー」
 会計の済んだ二人がやってきたから、ぐっと足に力を入れて壁から背を離した。大丈夫、まだ歩けないことはない。
「由乃ちゃん、大丈夫?」
 そう言って覗き込んでくる健二くんの顔も、由乃と負けず劣らず赤い。こっちが大丈夫って訊きたくなるぐらいだ。
「大丈夫、大丈夫」
 それをアピールしようと歩き出すと、少しよろけた。祐麒と健二くんが、「あっ」とそろって声を出す。
「全然大丈夫じゃないだろ」
 祐麒がそう言うと、他の二人にまで「そうだなぁ」って言われてしまった。というかみんな由乃と同じぐらいかそれ以上に飲んでいるのに、どうして平気なんだろう。体力にハンディキャップがあるのは仕方ないとしても、お酒にまで弱いとは我ながら情けない。
「どうしよっか」
 どうにかお店を出ると、まじまじと由乃を見て爾衣ちゃんが言った。というか、言われてしまった。
「俺、送ってくよ」
 え、と思ったままの声を発して顔を上げると、祐麒と目が合った。真正面から見据えられて、ぐでんぐでんになっている自分がどうしようもないバカに思えてくる。
「あれ、でも終電は?」
「多分なくなるだろうけど、歩いて帰れない距離でもないし、大丈夫だよ」
 何、ちょっと待って。――と考えているうちにも、家が分かるのは祐麒しかいないしとか、本当に大丈夫かなんて、勝手に話が進んでいく。
 確かにこの中で由乃の家の場所が分かるのは祐麒だけだけど、歩いて帰ろうと思ったらきっと一時間はかかる。借りを作りたくない、というわけじゃないけれど、流石にそこまでしてもらうわけにはいかない。
「私なら大丈夫だってば」
 飲み続けなければ酔いは醒めていくものだし、さっきよりは足の感覚はしっかりしてきた。それを証明しようと一歩踏み出したけれど、こけなかっただけで身体はぐらりと揺らぐ。
「素直に送られなって」
 爾衣ちゃんに諭されて、由乃はだんだん諦めがついてきた。由乃が知っている祐麒だったら、やっぱりこういう時、こんな風に自ら送っていく事を選ぶのだろう。そういう所は、昔から何も変わっていない。――それはちょっと、切なくなるぐらいに。
 
 電車に揺られていると、酔いは醒める所か更に回っていくみたいだった。
 ようやく最寄駅を降りた頃には、由乃の足はカラオケを出た時よりも覚束無い状態で、とても真っ直ぐには歩けない。ぐわんぐわんと揺れていると、ふっと身体が軽くなって、途端に腕を引っ張られる。
「危ない」
 由乃の腕を引き寄せたのは祐麒だった。気付いた時には顔がキスできるぐらい近くにあって、一瞬酔いが醒めた気がした。
「何がー」
「何がじゃないだろ」
 ったく――って、祐麒はさっきから妙にぶっきらぼうだった。いつの間にか肩は支えられていて、殆ど密着と言っていいほど二人の距離は近い。
 ああ、全く、何をやっているんだろう。この上ないぐらいの醜態を晒しているというのに、まともに思考ができない。祐麒に支えて貰わないと、まっすぐ歩くことも難しい。
「……」
 無言で見慣れた家路を辿っていると、不意に懐かしい気持ちが沸きあがってくる。昔はよく、二人でこんな風に――ではないけれど、同じ道を歩いていた。
 祐麒と気持ちを一緒にしていた時は、一人で歩いている時だって全部が温かく包まれているように見えていた。涙で視界がぐちゃぐちゃに歪んだ、あの日までは。
「ねえ」
 由乃は祐麒を見上げたけれど、彼は前しか見ていなかった。それでもいいと思った。
「懐かしいね」
「そう……だね」
 祐麒は少しだけ詰まって、そう答えた。まるで由乃が何を思ってそう言っているか、考えあぐねているように。
 別に深い意味があったわけじゃなかった。ただ単純に、本当にそう思っただけだから。
「うわ」
 酔いと、頼りない足に任せて、由乃は祐麒の腕しがみついた。由乃と一緒に、祐麒までよろける。いたずらが成功した子供みたいな気分になって、すぐ腕を放す。
「へっへー」
「あのなぁ……」
 あきれ果てた声だったけれど、祐麒の顔はわずかに笑っていた。何かを堪えるみたいに、確かに笑っていた。
 それから何故だか沈黙が続いて、いつの間にか無邪気な笑いも引っ込んで。祐麒の肩によりかかったり離れたりしても、何の反応も返ってこない。
「由乃」
 家まで後数十メートルという距離になると、初めて祐麒の方から話しかけてきた。
「ごめんな」
 それに思い当たる事は一つしかなくて、今更謝られたというのに感情の出入り口をキュッと窄められたみたいだった。吐き出せない感情ばかりが、頭の中でぐるんぐるんと回っている。
 祐麒の言葉に何も答えられなくて、由乃はわざと歩調を速めて家の門まで帰り着いた。ようやく少しは歩けるようになってきている。
「ありがとね、送ってくれて」
「うん、じゃ」
 そう言って祐麒は踵を返す。それは呆気ないぐらい、簡単に。
 由乃は、二人で歩いた道を一人で歩き出した祐麒を見ていた。その後姿が見えなくなるまで見ていたけれど、やはり振り返ることもなく。祐麒の後ろ姿は外灯の向こうに消えて行った。
 
 
 
 
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