春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.07
    真面目モード
 
*        *        *
 
 
 この頃、やけに時間が過ぎるのが早い。あと一週間ある、と思っていたものはいつもすぐ目の前にやってきたし、バイトを始めたのだってもう半年ぐらい前に感じられる。
 とにかく忙しいのだ。小林に三回ぐらいコンパに誘われて全部断り、ようやくバイトを入れ過ぎていると分かった。大学に入ってスケジュール決めて、出来た間はほとんど全部バイトのシフトを入れてしまった。それだけ店の都合と自分の都合が合うのもまた珍しいけれど、まったく付き合いの時間を考えてなかったのは失敗だった。
「かんぱーい!」
 その忙しい所に今日のこの飲み会だから、正直自分でも大丈夫かと思ってしまう。仕事自体には大分慣れたけれど、やっぱり家に帰るといつの間にかうとうとしている事が多い。
「かーっ、ビール久しぶりだなぁ」
 健二はキンキンに冷えたビールジョッキから口を離すと、見事なまでの白髭を生やしてそう言った。その隣では三越さんが命の水だとでも言いたげに、深い息を吐く。
 結局爾衣ちゃんが言い出したこの飲み会に参加したのは、言いだしっぺ二人と由乃と健二、三越さんの五人だけだった。お店の主要メンバーで若いのがより集まった感じの面子だ。
 祐麒は割り箸を割ってチラと爾衣ちゃんを見ると、何故だか目が合った。かすかに笑って、口だけ動かして「お疲れ様」と言った。彼女の手の中には、鮮やかな紫のヴァイオレットフィズが氷を覗かせている。
「おぉ、三越さんもいい飲みっぷりっすね」
「普通じゃないか? そういう健二くんは……あれ、今いくつだっけ?」
「まあまあまあまあ、そういう固っくるしい事は言わずに、言わずに」
 健二のヤツ、もう酔っ払っているような調子だ。おどける彼に、由乃も爾衣ちゃんも笑っていて、つられて祐麒も笑った。
 お店につくまでぺちゃくちゃ喋っていた女の子たちは、いざ席に着くとあまりしゃべらなくなっていた。やっぱり女の子同士で喋るのとこういう場で喋るのでは、圧倒的に何かが違うのだろう。
「それにしても」
 訪れかけた沈黙を察知したのか、珍しく三越さんが話を振った。
「二人とも、大分慣れてきたね。飲み込みが早くて、びっくりしたよ」
「あ、それは私も思った」
 三越さんに同調した爾衣ちゃんは、今度こそにっこりと祐麒に笑って見せた。
「そうですかね?」
「そうなのかなぁ」
 何だか予想もしていなかった角度から褒められて、照れ隠しにビールをあおった。グラスを下げて見てみると、由乃もカシスオレンジのグラスを下げたところだった。ぷっ、と健二が噴出す。
「照れんなって」
「あんたはもっと焦りなさいよ。注文間違え過ぎ」
 爾衣ちゃんが突っ込んで、ようやく笑いの輪が広がった。ようやっといつもの調子だ。
 丁度よく料理も運ばれてきて、口と箸がよく動く。流石に昼から何も口にしていなかったから、祐麒もビールをぐいっといってしまって、三人揃って早くも二杯目を注文する。
「そういや由乃ちゃんはビール飲めないの?」
「うん。だって苦いもん」
 そっかぁ、と健二は曖昧に返しながら、ぐいぐいとビールを飲んだ。三越さんもペースが落ちないし、二人とも結構強いのかも知れない。別に祐麒も飲め、とか言われたわけでもないのに、釣られて飲んでしまうから不思議だ。
 しかし残念ながら、祐麒はそれほど強くはない。顔には出ないけれど、ジョッキ一杯で軽い酩酊を覚える。特に今日なんか仕事の後だから、尚更だ。
 二杯目を三分の一ぐらい飲んだ所で、酔ってきている自覚はあった。視界がふわふわするというか、頭が軽くなった感じがする。
「祐麒くん、やっぱり結構飲める方なんじゃないの?」
「いや、喉が渇いてたから、ついつい飲んじゃって」
 釣られて飲んでいる、というのもあるけど、そっちの理由の方も大きい。あの店は妙に日当たりがよくて、知らない間に喉が渇くのだ。
 それにしても居酒屋の雰囲気って、不思議だ。間接照明ばかりで薄暗い店内では、明るいところで見るのと全然印象が違う。爾衣ちゃんの笑顔は太陽の下ではあどけなく見えるのに、こういう雰囲気の中では妙に艶っぽく見えて、同じ人を相手にしているとは思えなくなってくる。これが酔っ払ってきている証拠なのだろうか。
「そういや三越さんって、毎日フルですよね」
 健二は二杯目のビールを飲み干すと、三越さんの方へ向かって言った。一頻り飲み物や料理の話題が過ぎると、当然興味は人の方へ向く。特に興味を引く人と言ったら、最年長である三越さんだ。この人は自分からあれこれ喋る事が少ない分、謎が多い。
「そうだね」
「やっぱあれっすか、自分のお店とか持つ為に?」
「……それ、マスターか誰かに聞いたのかい?」
 何故だか三越さんは罰が悪そうにそう言った。という事は、ゆくゆくは自分のお店を持つ為に、勉強を兼てあれだけハードなシフトを組んでいるという事か。毎日フルで入っている理由って何だろうと思っていたけれど、これで合点がいった。
 その理由を知ってしまうと、急に三越さんと自分との間に線が引かれた気がした。夢があって働いている人と、漠然と社会に出てみたくて働いている自分とでは、立っている所がまるで違うように思えた。
「あ、やっぱりそうだったんですね」
 爾衣ちゃんが頷く。薄々気付いてたって調子だから、そう気付けなかった祐麒はやっぱり鈍いのか。人が行動するには、それぞれにそれなりの理由があるはずだもんな、と今更思った。
 不意に、『祐麒くんはこの仕事を通じてしたい事とかあるの?』と訊かれたらどうしようと思った。そこまで考えて、アルバイトを始めたわけではない。
「私なんて、お店の制服を着てみたくて入ったからなぁ」
 ――と思っていたら、爾衣ちゃんはもっと単純な理由を口にした。健二に至っては「俺は時給がよかったから」なんて言い切った。
「祐麒もそんな感じなんだろ?」
 想像していた質問と似たりよったりの事を訊かれて、少し驚く。しかし前の二人が正直に言っているんだから、本当の理由を言ったって構わないだろう。
「それもあるけど……早く働きたかったからかな」
「由乃ちゃんは?」
「私も……かな。高校の時もやってなかったから、大学に入ったのを期にって感じで」
「偉い!」
 はっとして振り向くと、三越さんが顔を少しだけ赤くして拍手していた。つられて爾衣ちゃんも健二も、拍手を始める。
「俺も偉い!」
「あんたは違う!」
 何故だか一気に盛り上がって、全員拍手していた。どうやらみんなも酒が回ってきたらしい。
「今時働きたくて働く人は少ないよ」
 三越さんがしみじみそう言うと、まだ二十代のはずなのに妙に説得力がある。きっとそれなりに苦労してきているのだろう。
「まあでも、それって働く中での楽しみが見出せない人が多いからなんじゃないでしょうか。難しければやりがいがあるし、簡単でも褒められたり喜ばれたりしたら嬉しいし」
「そうそうそれ、接客っていいところと悪いところ、半々ぐらいだよね」
 祐麒の意見に爾衣ちゃんが同意して、なんだか雰囲気が『真面目に語るモード』になってきた。まあ仕事の後でみんな疲れているだろうし、この時間だ。コンパのようなバカみたいな盛り上がりにはならないだろう。
「私前、小さい子供に『ありがとう!』って元気な声で言われて、なんか嬉しくなったなぁ」
「あー、あるある。ありがとうって言われると嬉しいよね」
 いい思い出を回顧する時の顔で由乃が言うと、今度は健二が相槌を打った。確かにテーブルに料理を並べた後、心のこもったありがとう言われると、嬉しいものだ。
 話をしながら何度かジョッキを傾けていたら、もう底には泡しか残っていなかった。誰かが注文ボタンを押していたのか、オーダーを取りに来た店員さんに生中一と告げる。喫茶店と比べると居酒屋の客って酔っ払いばかりだろうから、「大変そうだな」って、そういう場面を見たわけでもないのに思った。
「あぁー。ビール止まんねー」
 中身が三分の一ぐらい残っていたジョッキを空にした健二が意味不明な事を言うと、由乃がプッと噴出した。健二の顔は、もう真っ赤だった。
「みんなよく飲むね」
 由乃はそう言ったけど、これはまだまだ飲んでるうちに入らないと思う。本当に飲める人は、もうこのぐらいの時間なら七杯か八杯はいっている。
 
 今日は一体何時まで飲むんだろう。祐麒は心地よい酔いの中でそう思いながら、時計を見たりはしなかった。
 
 
 
 
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