春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.06
    温かいそば
 
*        *        *
 
 
 分かっていた事だけど、いざ現実として突きつけられると、ショックだった。
「はぁ……」
 由乃はオーダーを取ってキッチンに戻りながら、誰にも聞こえないようにため息をついた。平日の午後一時。まだまだ客足は途絶えないけれど、初日から祝日に当たった経験があるから、まだマシだ。
 今日は初めて、キッチンの研修に入った。元からキッチン希望だったけれど、基本的にキッチンはマスターの奥さん――智恵さんの持ち場。だから基本的にはホールで、キッチンは手伝い程度だよ、とは面接の時に言われていた。だからようやくキッチンに入れる今日を待ち望みにしていたっていうのに、これだ。
 そろそろ自炊できるぐらいには料理も作れなきゃな、なんて思いでキッチンを希望したけど、甘かった。そもそもキッチンで料理の基礎を学ぼうというのが間違いだったのだろう。少なくともこの店のキッチンでは、由乃は猫の手程度にもなれなかった。
 智恵さんの手は、神業的に早かった。夕方のニュースの取材の以来が来てもおかしくないぐらい、それはもう無駄がない。それだけ効率のいい働き方をしている中に由乃が居ても、教える間だけ手が止まってしまうのだ。
『また今度、お店が暇な時に練習しましょうね』
 智恵さんの言葉は本心からで、優しくて、だからこそグサッときた。つまりはキッチンで手伝って貰っていても手が掛かるだけだから、ホールに行って貰った方が助かる。別に卑屈になっているわけではなく、多分これは本当に思っていたのだと思う。とういか由乃が智恵さんだったら、そう思う。
 これは結構、くる。久々に、完膚なきまでに凹んだ。ちょっと自分に自信がなくなるぐらいに。
 何もかもがゼロからのスタートなんだって、今更思い知った。高等部で学んできた事で役に立っている事なんて、接客での言葉使いぐらい。山百合会で培ったお茶煎れの技術も、プロに比べればおままごとレベルだ。
 これが社会のそこここで言われている『挫折』ってヤツなのだろうか。いや、諦めなければ、挫折とは言わないか。
「由乃、時間だから上がっていいぞ」
 オーダーを伝え終えると、マスターが言った。時計を見てみれば、確かに上がりの時間だった。
「いいんですか? 手薄になっちゃいますけど……」
「あと十分ぐらいで爾衣が来るから、大丈夫だ」
 それまで三越が本気を出すさ、とマスターは快活に言った。三越さんはひょろりとした印象とは裏腹にテキパキとさばいているけれど、あれで本気じゃないって言うのだろうか。由乃はロッカーへと続く従業員用通路に向かいながら三越さんをチラと見たけど、マスターの言葉に苦笑いを浮かべているだけだった。
 通路に入って角を曲がると、途端に肩肘に張った力が抜けた。常に人の目を気にしなければいけないというのに慣れているつもりだったけれど、やっぱり疲れる。
「あ、お疲れ」
 ロッカーの扉を開けると、爾衣ちゃんが着替えている所だった。上半身だけまだ下着姿だったけれど、由乃の登場にまったく動じていない。スタイルがいいって、結構羨ましいなと思った。
「おはよ」
「あれれ、元気なーい」
 そう言う爾衣ちゃんは、元気そうだ。というか、上機嫌と言った方がいいかも知れない。昨日の祐麒との夕食デートは手応えありだったって事だろうか。
「……キッチンクビになった」
「あれ、そうだったの。でもしょうがないよ、料理初めてだったら」
 そう言った爾衣ちゃんは、もろに経験者なのだ。一人暮らしで、ご飯はほとんど毎食自分で作るらしい。中学ぐらいから料理を習っていたというのだから、由乃とはレベルが違う。
「あ、ねえねえ」
 着替え終わった爾衣ちゃんは、ロッカーから出て行こうとした所で振り返った。
「再来週の火曜日ね、飲みに行こうって話があるんだけど、どう?」
 飲みに行こう、か。由乃にはそれがどういう事か、大体察しがついた。
「面子は?」
「一応、ここの人には全員声かけるつもり。今の所決定してるのは、祐麒くんと私と、健二」
 なるほどな、と由乃は思った。いわゆる職場の飲み会だ。
 だけどどうして、と思う所もある。このタイミングで言うんだから、昨日祐麒とご飯を食べに行った時にその話が出たのだろう。だったらなんで、二人で行かないんだ。
 爾衣ちゃんがみんなで飲みに行こうと言ったのかも知れないし、祐麒がそう言ったのかも知れない。もし後者だったら、どういう意味だろう。――ってこれが前々からあった話なら、考えても詮無い事だけど。
「うん……行こうかな」
 職場の飲み会なら、一番の新入りがこないというのはまずいだろう。それに健二くんも来るのなら、私がいたって大丈夫のはずだ。……多分。
「オッケー、じゃあ開けといてね」
 爾衣ちゃんはそう言ってくるりとスカートをはためかすと、扉の向こうに消えた。
 
 
「ただいまー」
 そう言いながら台所に入ると、何故か令ちゃんが夕食を作っていた。
「あ、おかえり」
 しかも何だ、その「私がここにいるのは当然」って落ち着き。お母さんはどこに行った、と思っていると、勝手口が開いてネギを手に持ったお母さんが入ってくる。
「あら、おかえりなさい」
「何で令ちゃんがご飯作ってるの?」
 思ったままの質問を口にすると、お母さんが答えた。
「令ちゃん昨日まで旅行に行ってたでしょ? お土産のおそばを、手伝ってもらってるのよ」
 そう言えば、そうだった。高等部の時みたいに毎日顔を合わしたりしていないから、時折こうやってお互いが何をしているか知らなかったという事がある。
「どこ行って来たんだっけ?」
「長野。よかったよ、長野。自然がいっぱいで、空気までおいしい感じだった」
 令ちゃんは肩まで伸びた髪を揺らしながら、そう言った。このごろどうにも、令ちゃんは女らしくなり過ぎな気がする。スカートしかり、ナチュラルメイクしかり。
 ベリーショートだった髪は肩ぐらいで切り揃えられて、由乃が高等部一年生だった時の薔薇様で言うなら、蓉子さまの雰囲気が一番近い。髪が短いと男の子に間違えられがちだったけれど、伸ばし始めてからは全然違った。中性的な美人って感じで、化粧品のCMに出ていてもおかしくない感じだ。
 斯く言う由乃は、令ちゃんとは反対に髪を切った。決して失恋したから、とかではない。前から切ろうか切るまいか迷っていたけれど、レキシドールでバイトとして採用されるのが決定してから、バッサリいったのだ。あの長い髪じゃ、いささか飲食店向きじゃない。――そんないきさつもあるから、絶対にバイトを止めたりしたくないのだ。
「あ、これ由乃にお土産」
 そう言って令ちゃんは、テーブルに置いてあった箱を由乃に手渡した。『信州りんごキャラメル』。なんとも甘ったるそうなお土産だ。もしダメだったら、爾衣ちゃんや大学の友達に食べて貰おうと思った。
「令ちゃん、後はもういいわ」
「あ、はい」
 令ちゃんはお母さんに言われると、ソファに座った由乃の隣に腰を下ろした。口ぶりからして、由乃が帰ってくるまで、と無理に手伝いを買ってでていたのかも知れない。
「どう? アルバイトは」
 ぼんやりとTVの中で流れるニュースを観ながら、令ちゃんは言った。
「料理って難しいね」
「え、由乃キッチン担当なの?」
 なんだその意外、って目は。だけど先に続く言葉が虚しい。
「十分ぐらいでお役御免だったけど」
「……まあ、そんなもんよ」
 令ちゃんはすっぱりと言ってくれた。そう言ってくれた方が、まだ気持ちが楽になれる。
「職場の人とは上手くいってる?」
「うん。みんないい人だから、大丈夫」
 祐麒がいる、とは言わなかったけれど、嘘は言っていない。もっとこう、サスペンスとかでありそうなドロドロして人間関係も覚悟していたから、拍子抜けしたぐらいだ。まあまだそこまであの店を知っていないだけかも知れないけれど。
「そう。ならよかった。お店でナンパされても、携帯番号とか教えちゃダメだよ」
「分かってるって」
 現に一度だけ「連絡先教えて」と単刀直入に言われたけれど、丁重にお断りした。今の時代、情報だって安くないのだ。
「まあ、お店の人がいい人ばっかりなら、安心かな」
 その後はお互い黙ってしまって、実はそのいい人ばかりの中に祐麒もいるって事は、結局言えなかった。言った方がいいのかなって気持ちは、確かにあったのに。
 横目を使って令ちゃんを見ると、なんだか随分遠ざかってしまったかのように思えた。昔はいっつも隣に居て、何だって話せていたのに。
 そう言えば令ちゃんって、今恋人とかいるのだろうか。学部が学部だから男の方が多いのだろうに、未だに令ちゃんの口から『彼氏』という言葉すら聞いた事がない。
「二人とも、できたわよ」
 お母さんに呼ばれて、由乃たちはまた隣あって座って、そばをすすった。なんだか懐かしいな、なんて思いながら。
 
 
 
 
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