春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.05
 パスタ・デ・パスタ
 
*        *        *
 
 
「ここのパスタ、最近のお気に入りなんだ」
 そう言ってお店に入ってから、彼女はずっと上機嫌だった。いや、正確には朝、祐麒とご飯を食べに行こうと約束した後からだったかも知れない。
 大衆レストランのようなそこはチェーン店ではないらしく、メインはパスタと決めている、正真正銘のパスタ屋だ。ミートからボンゴレ、創作パスタまで、品揃えは豊富だった。
「確かに、美味しいね」
 とりあえず、という感じで頼んだミートスパゲッティは、想像以上に美味しかった。トマトベースの中に肉の旨みが出ていて、飽きさせない味だ。これで千円を切っている値段設定なのだから、信じられない。爾衣ちゃんも気に入るわけだ。
「でしょ?」
 そう言って笑った彼女と、目が合った。こうして腰を落ち着けて対面しているのは、勿論初めての事だ。
「どう、二日目は?」
「うん、まあちょっとは余裕出てきたかな。初日はいっぱいいっぱいでさ」
 とは言ったけれど、実際今日も昼のピークはてんてこ舞いだった。ランチサービスがかなり財布に優しい設定にされているから、近在の大学に通う大学生や、若い主婦で溢れるのだ。
 だから、というのもあるのだろう、爾衣ちゃんの顔も正直まともに見るのが初めてのような気がする。何故だか由乃の視線を気にしてしまって、無遠慮に見つめるのも気が憚られたというのもある。
「そうだね、やっぱりお昼は私も『うわー』ってなるよ。でも祐麒くん、物覚えがいいよね。もうテーブル番号、全部覚えてるもん」
「そりゃ、まあ」
 覚えなくちゃ仕事にならないし。回転寿司みたいにテーブルの分かり易い所に番号は書いてないし、呼び出しボタンもない。そういう所がレトロなお店なのだ。
「実は影でこっそり努力するタイプ?」
「うん、実はね」
「あは、自分で言っちゃってる」
 喉の中を転がるような声で、爾衣ちゃんは笑った。健二も「顔は悪くない」と言った通り、爾衣ちゃんは看板娘を自称するだけあってかなり可愛い。本当に今更だけれど。
 柔らかい曲線を描く卵型の顔に、整ったパーツが計算しつくされたようなバランスで配置されている。普段優しげな目は、笑うとスッと細められて、女神が笑ったこんな感じなんだろうなと思った。
 顔で選ばれていると噂されている山百合会に居ても、なんら不思議な感じはしない。見た目だけなら、志摩子さんと雰囲気が似ているし。大きな違いと言えば、割りとあっけらかんとしている所か。
「そう言えば、爾衣ちゃんさ」
「うん?」
「結構お客さんから声かけられてたね。看板娘って本当だったんだ」
「もう、何を今更」
 爾衣ちゃんは照れたような仕草で手を振った。自分で言っておいて、いざ言われると恥ずかしいのか。
「でもね、人気者も大変なのよ。今日も水の替えお願いしますって言われて行ってみたら、ポットに電話番号の書かれたナプキンが張ってあったの。水はいっぱい入ってたのに、頑張って全部飲んだのね」
「それで、どうしたの?」
「お水入れて、お店の電話番号書いておいたの」
 そのお客さんには悪いけれど、思わず声を出して笑ってしまった。二人で肩を揺すっていると、テーブルが僅かに揺れた。
「けど、祐麒くんを見てるお客さんも居たよ」
「え?」
 何だそれと、笑いが引っ込む。
「女子大生グループっぽい子達だったかな。注文取った後とか、運んでくる時とか、こそこそ見てたよ」
「そうなの? 全然気付かなかった」
 まさかそんなお客さんがいたなんて。本当に全く気付かなかった。そこまで気付く余裕がなかったという事だろうか。爾衣ちゃんはよく見ているなと思った。
「祐麒くんって、鈍感って言われたりする?」
「……たまに」
「やっぱりねー」
 爾衣ちゃんはそう言って、またふふっと笑った。不意に大人びた笑顔を見せられて、ドキッとする。
「祐麒くんてさ、彼女いるの?」
 笑顔を少しだけ引っ込めて、爾衣ちゃんは言った。その質問には、考えるまでもない。
「いないよ」
「本当に?」
「本当。なんで嘘つくのさ」
「そういうので嘘つく人がいるから」
 そう言って無邪気な笑顔に戻ったから、昔そう言う事があったという訳ではないのだろう。友達とかがそういう目に合ったりすると、当然警戒するものだし。――と、ここら辺の推測は、爾衣ちゃんが演技派ならすっぱり覆されてしまうけれど。
 不意に不自然な沈黙が流れた。パスタを食べ終わった爾衣ちゃんのフォークが食器に当たる音が、何かの合図に聞こえた。
「祐麒くんは、お酒飲めるの?」
「どうだろう。べろべろにはなった事ないけれど、酔い易い気はする」
 祐麒は大学に入って早々に行われたクラスのコンパを思い出した。むさくるしいコンパで、祐麒も結構飲まされたけれど、記憶を失うまでではなかった。当然、仲間内で「マー」と称される事態にもなった事はない。
「じゃあ、全く飲めないわけでもないんだね」
「まあね。強いほうじゃないのは確かだよ」
 強いヤツは、本当に強い。ビールを何杯も一気飲みさせられているのに、顔色一つ変えない。流石に飲みすぎると次の日が辛い、と言っていたけれど。
「じゃあさ、今度お給料が出たら飲みに行こ」
 爾衣ちゃんは期待に輝く目で、祐麒をまっすぐ見て言った。本当に今更だけれど、健二の話す爾衣ちゃんのイメージと実際とはかけ離れているなと思う。
「いいよ。でもどうせならみんなで行こうよ」
 二人っきり、っていうのも悪くないけれど、お酒は大勢で飲んだ方が楽しい。親睦を深めるって意味なら、他にも呼んだ方がいいに決まっている。
 となると当然由乃も呼ぶ事になるだろうけれど、険悪ってほどじゃないから別に声をかけたっていいだろう。前のように、とまでは行かないけれど、酒の力を借りて自然に話せるようになろうというのは、別に悪い考えでもないと思う。
「それでもいいけど……。三越さんとか来るかなぁ」
「マスターと奥さんも、どうなんだろうね」
 仮に全員集まったとしたら、なんだか自ら開く歓迎会みたいになりそうだと思った。飲みに行こうと言ってくれたのは爾衣ちゃんだけど。
「そう言えばさ、今日居たメンバー以外にレキシドールの店員っているの?」
「いるよ。後藤さんと村瀬さんって人。他にもいるけど、平日の昼間働いてて入れ替わりの時に顔合わせるぐらいだから、名前と顔が一致するぐらい」
 そう言えばシフト表に、見たことのない名前があった。爾衣ちゃん曰く、後藤さんは夜間学校に通っていて、村瀬さん昼夜でバイトを分けているフリーター、という事らしい。後はマスターが声をかけて助っ人を頼まれる人たちだから、正規のメンバーとはまた違うようだ。
「多分全員は揃わないだろうなぁ。行くんなら、次の日に仕事がない方がいいでしょ? それだと火曜日だから、多分後藤さんと村瀬さんは無理ね」
 とまあ、飲食店従業員の飲み会というのは、結構予定を合わせるのが大変だ。土日祝日は当然営業だし、定休日である水曜日に祝日が被れば営業。代わりに火曜日を休みにしたりと、他の飲食店がしているような努力は、当然レキシドールもやっている。
「まあ、一応声かけてみよっか。祐麒くんは健二と三越さんと、あとマスターにも訊いてみて」
「分かった。給料日の後だったら……再来週の火曜日かな」
「うん。あ、その日祐麒くんラストまでだったけど、大丈夫?」
「あ、うん。よく覚えてるね」
「だって私もその日、ラストまでだもん」
「ああ、そっか」
 まさか全員のシフトを覚えているのかな、と思ったけれど、違うらしい。それでも二週間後の終業時間まで覚えているというのは、結構几帳面だ。祐麒は今後の予定を見ながらシフトを組むので、四苦八苦しているだけだったのに。
「じゃあ、約束ね」
 そう言って爾衣ちゃんは何だか作ったような、よく出来た笑顔を見せた。
 
 
 
 
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