春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.03
  どういう関係?
 
*        *        *
 
 
 喫茶・レキシドールの開店時間は午前十時で、閉店は午後九時。今日は開店前にホール教育があったから、途中の休憩を除くと九時間以上も立ちっ放し、動きっぱなしだったという事になる。
 店が空いてきたタイミングで一時間以上休憩をとったけれど、いきなり最初から飛ばしすぎた。そう思っても、後の祭りだけれど。
「指いったぁ……」
 祐麒は着替えながら、そうぼやいていた。料理を載せたトレイは重いし、グラタンをテーブルに置く時軽く火傷するしで、両手とも相当のダメージをくらっている。足も何だかけだるくて、立っているのさえ億劫だった。
「いや、初日からほとんどフルで入ってるとは思ってなかったわ。気合入ってんよなぁ」
 健二はそんな祐麒をみて笑いながら、制服を脱いでいた。慣れればあんな風に、ピンピンしていられるのだろうか。三越さんなんか休憩もほとんど取らず、朝一から居たのに最後の片付けまでやっている。
「健二は元気だね」
「おうよ、そりゃ新しく入って来た子が可愛かったらテンション上がるって」
 彼はニシシ、と嬉しそうに笑った。休憩ですれ違った時に言っていたが、由乃は『最近一番のヒット』らしい。大学での出会いは、あまり芳しくないようだ。
「そういや二人は前から知り合いだったんだよな? ひょっとして元カノ?」
 いきなり核心を突かれて、祐麒はぎょっとした。そんな風に見えたんだろうか。健二で結構、鋭いのかも知れない。
「そんなんじゃないよ」
 思わず口をついてではのは、事実とは正反対の嘘だった。ここで正直に話してしまえば、きっと気を使ってぎこちなくなってしまう。
 それに、色々詳しく聞かれた時になんて答えればいいんだ。別れは一方的だったし、傷ついた由乃の顔を思い出したら、何だか自分が全て悪かったような気さえしてくる。
 おかしな話だけれど、由乃と分かれた時の事を考えると、祐麒だってぐっと胸が痛む。自分に対してのどうしてが渦巻いて、ひょっとしたらもう誰とも上手くいかないんじゃないかという気さえするのだ。
「そうかぁ? ただの知り合いじゃなさそうな雰囲気だったけどなぁ。あ、元じゃなくて、今付き合ってるとか?」
「それも違うよ」
 健二の言葉を受け流しながら、私服のシャツに頭を通した。ロッカーはそれほど広くないから左ひじを壁で打ってしまったけど、何もなかった風を装った。
「じゃあ俺、狙ってもオッケーなわけね?」
「なんでそれを俺に訊くのさ」
「いや、前からの知り合いだし。何もなかったとしても、祐麒だって狙ってるかも知れないじゃん」
 なるほど、と祐麒は心の中で手を打った。健二って意外と、人間関係に細かいというか、気配りができるのだ。まあ自分自身ギクシャクしたくない、というのもあるのだろうけど。
「いいんじゃないの?」
 祐麒は少し投げやりにそう言って、ロッカーを閉めた。さっきマスターから受け取った鍵で、ガシャガシャと施錠する。
 別に祐麒と由乃はもう何もないのだし、別れを切り出した方が相手の恋愛にとやかく言うなんてお門違いだ。最近の由乃の事は何も分からないし、ひょっとしたらもう別の彼氏だっているかも知れない。もしそうだったら、健二の浮かれっぷりはコメディのワンシーンだ。
 祐麒は先にロッカーを出ると、健二も靴をつっかけながらひょこひょこと出てきた。従業員用出入り口が近づいた所で、「ちょっとタンマ」と声がかかる。
「なあ、携帯教えて」
「ん? ああ」
 言われて祐麒は、ポケットから携帯電話を取り出した。大学になって、ようやく持ったのだ。これからどっちかが急用ができた時とか、こういう連絡手段は必要になってくるだろう。
「赤外線で送るから」
「ちょっと待って。どうするんだったかな……」
 祐麒がぽちぽちやってようやく受信できた頃になって、廊下の置くからバタンと扉が閉まる音が響いた。声から察するに、爾衣さんと由乃がロッカーから出てきた所だろう。
「お疲れー」
 祐麒が健二の携帯を鳴らした所で、二人の姿が見えた。爾衣さんが祐麒と目が合うと、彼女はニコッと笑った。裾が少し広がった薄い青のスカートに、襟元の白いカーディガンという私服姿は彼女に似合っていて、なるほど確かに可愛い。
「げ、待ち伏せくんがいるー」
「誰もお前なんか待ってねー」
「じゃあ由乃ちゃん待ち? そっちの方がダメじゃん」
「だから待ってないっつーの」
 爾衣さんと一緒に、由乃もこちらに近づいてくる。制服姿ではあまり気にならなかったけれど、髪が大分短くなっていた。大分と言っても前が長かったからで、それでもセミロングぐらいはある。
 こちらも爾衣さんと似たような格好をしているが、トップはカッターシャツだから少し前と雰囲気が違う。前髪と同じく切り揃えられた後ろ髪が、なんだか『出来る女』的な雰囲気を醸し出していた。
「そうだ、由乃ちゃんも携帯教えて」
「ああ、アド交換してたの? じゃあ祐麒くんも番号教えてよ」
 爾衣さんはカバンから薄いピンク色の携帯を取り出すと、スライドさせて広げた。健二の発言にまた突っ込みが入るのかと思っていたけれど、必要な事だからお咎めはなしらしい。
「赤外線で送るね」
「あ、うん」
 祐麒はさっきやった操作を繰り返して、データを受信したのを確認した。アドレス帳に「藤崎爾衣」という欄が追加されている。
「ふじさき、にい、さんね」
「ふっ、ふふっ……」
 読み仮名がおかしくなっていたので修正していると、爾衣さんは突然笑い出した。
「なんで『さん』付けなの? タメなんだし、呼び捨てでいいよ」
 なるほど、そこが引っかかったのか。祐巳の影響で、女の子はリリアン流に呼んでしまう癖がついてしまっていた。
 けれどいきなり呼び捨てには、少し抵抗がある。ここらへん、祐麒はスレてないなぁと自覚するのだ。
「うーん」
「じゃあ『ちゃん』でもいいよ。『さん』だと何か、距離感じちゃう」
 そう言って「爾衣ちゃん」は笑った。健二に対しては手厳しいけれど、結構よく笑う子なんだなと思った。
「そっちも送ってくれる?」
「あ、うん」
 と言ってみたものの、またまた操作が分からない。祐麒が四苦八苦してデータを送信し終えた頃には、健二と由乃はそのやりとりをじっと見学していた。
「二人はお互いの携帯知ってるんだよね?」
 爾衣ちゃんがそう言ったので、祐麒と由乃は「いや」「ううん」とかぶりを振った。携帯を持っている事すら知らなかった。
「あれ、知り合いじゃなかったの?」
「昔はどっちも持ってなかったからね」
「そうなんだ。交換しといたら?」
 多分連絡とる事になるだろうし、と爾衣ちゃんが進めるので、何だか微妙な雰囲気のままアドレス交換を始めた。
「いつ買ったの?」
 祐麒が送る準備をしていると、由乃の方から話かけてきた。口調は、なんとも普通だ。懐かしさを滲ませる事もなければ、責めるような風でもない。
「大学入る前ぐらい。由乃は?」
「私も、そのぐらいかな」
 アドレス交換の最中の会話と言えば、それぐらいだった。他に何を言えばいいのか、お互い分からなかった。
 祐麒がパタンと携帯を畳むまで、健二と爾衣ちゃんは黙ってそれを見守っていた。何とかして二人はどんな関係だったかを探っているような、そんな表情だった。
「んじゃ、帰るか」
 健二の一言を合図にして、四人は店の外に出た。
 春の風は、まだひんやりと冷たい。
 
*        *        *
 
「携帯の番号知らなかったってことは、本当に何でもなかったんだ?」
 爾衣ちゃんは駅で男の子たちと分かれた後、ホームについてもその話題ばっかりだった。
「さっきもそう言ったじゃない」
 仕事が終わって、ロッカーで着替えている時も、同じような事を訊かれたのだ。「由乃さんと祐麒くんって、付き合ってたの?」って。正直に言ってもよかったのだけど、何故だか咄嗟にそんなんじゃないって言ってしまった。
 何から何まで詮索される事はないだろうけれど、それでもちょっと訊かれただけでまた古傷が痛みそうになるのだ。とても正直に語る気になんてなれない。
「じゃあさ、どんな関係だったの? 二人とも呼び捨てじゃない」
 しかしまあ、嘘はついた所で質問は止まらない。これなら正直に言って、「何で別れたの?」「まあちょっと……」ぐらいで済ませて置いた方が楽だったかも知れない。
「お互いの高校がね、交流があって、文化祭になると生徒会同士で助っ人を出し合うの」
「え、二人とも生徒会の役員だったの? 高校どこ?」
 人の話に興味津々な爾衣ちゃんは、目を輝かせて訊いてくる。
「私がリリアンで、祐麒が花寺」
「うわ、お嬢様とお坊ちゃまだ」
 やっぱりな、と思った。この反応。その二つの名前を聞けば、大抵の人が同じ事を言うのだろう。
 かと言って、距離を感じて欲しくない。お嬢様だから、みたいな事でバカにされる事はないだろうけど、どこかで「ああやっぱりな」と思われるのは嫌だ。
「別に私の家は普通だよ? 親が社長とか役員とか、そんなんじゃないし」
「祐麒くんは?」
「お父さんが小さな設計事務所してる、って言ってたかな」
「ふーん、じゃあ社長子息だ」
 言ってみれば、確かに。はっとして爾衣ちゃんを見たけど、その目にギラギラしたものはなかった。少し安心する。
「祐麒くん、いいよね」
 ――と思っていたら、これだ。でも口ぶりからして、家がどうとかそんなんじゃないらしい。この歳から相手の家がどうとか考えていたら、夢がなさ過ぎる。
「うぅーん」
 いいよね、と言われても生返事しか出来ない。素直に頷いてしまえば、未練が残っているのを認めるみたいだし。
 未練――って、あるんだろうか。改めて考えてみると、どうなんだろう。
 思い返してみれば、今まで祐麒の事を思い出さなかった日はないかも知れない。恋い慕うとか、思い出に浸るとかではなくて、何故だか思い出してしまうのだ。忘れるな、とでも言いたげに、ポカンと顔だけが浮かぶ。想い続けているのとは、少し違った。
「何、恋愛対象じゃないって感じ?」
「そうじゃないけど」
 って、何故そこで即否定するんだ。ここは「そうだね」って言っておいた方が、後々楽なのに。
「まあ、今日逢った時『げ』って言ってたもんね。私と健二みたいなものでしょ?」
「うん……そうかも」
 それだと男女の悪友、みたいな感じで少し違う気もするけれど。まあこの辺で手を打っておこう。
「あ、電車きたよ」
 電車が近づいて来ても乗降口の辺りに動こうとしない由乃を見て、爾衣ちゃんが袖を引っ張ってくる。何だか今日は、考えることが多すぎた。
 
 それから電車に乗って三駅分揺られた所で、由乃が先に下りて爾衣ちゃんと別れた。バイバイ、と手を振って電車の中の彼女を見送った。
 一人になると、急に疲れが襲ってくる。二人で喋っている時は元気だったのに、気が抜けてくると足の疲れとか指の痛みが戻ってきていた。
 駅を出てロータリーを横目に流していると、冷たい風が吹き付けてきた。春とは言え、まだまだ夜の風は冷たい。
 由乃はふと思い立って、携帯電話を開いた。メールの新規作成画面を開いて、宛先に祐麒の名前を選んだ。
『私は絶対、やめないから』
 多分これだけで、何が言いたいかは伝わるだろう。気まずさとか、過去の事とか、そんなのはもう置いておく。気にしていたら、進めない。
 一分もしないうちに、カバンの中で携帯が光った。決定ボタンを押して、メールを開く。
『俺だって、絶対やめない』
 ――上等じゃないの。
 由乃だって、気まずいからそっちがやめて、って意味で送ったわけじゃない。だからこれでいいのだ。
 何だか思わず笑ってしまう。昔は祐麒とこんなやり取りをするなんて、考えてもみなかった。
 
 それからゆっくりした歩調で、由乃は家路を辿った。
 遠目にぼんやりと光る家々の窓を見ていると、ふと祐麒とこの道を歩いた事を思い出した。温かいような、悲しいような、不思議な感情がふわっと胸に沸いてくる。
 きっとこんな感じに、何度も襲われる事になるんだろう。それでも祐麒に背を向ける選択肢はない。そんな事したら、きっと後悔する結果になるだろう、――そう思った。
 
 
 
 
≪02 [戻る] 04≫