春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.02
  知ってる自己紹介
 
*        *        *
 
 げ、という反応は、お嬢様学校在学中とは胸を張って言えない行動だったと思う。
 いきなり明るい店内が目の前に現れたせいか、由乃は眩しさに目を瞑りそうになった。お店の入り口側から入ってくる日差しはまだまだ斜めで、白を基調にした店内をよく照らしている。
 暫くして目が慣れてきて、まじまじと店内とその中の人を見て、思わず由乃はそう言ってしまったのだ。さっきの看板娘発言とか、何やら一生懸命話しかけてくる男の子とか、そういうものを全部頭から吹き飛ばしてしまうぐらいの衝撃が、そこに居たから。
「祐麒」
 そう言った由乃と、それから祐麒を、爾衣(にい)ちゃんと男の子は交互に見ていた。本当に祐麒なのか、という疑る気持ちの方が先立って、祐麒から目を離せない。向こうだって信じられない、って顔で由乃の方を見ているから、多分間違いないのだろう。
 カウンターの方からカチャ、と食器同士が擦れる音がして、我に返る。
「何、知り合い?」
 爾衣ちゃん――私にそう呼べと言った――は次の瞬間意味ありげな笑顔を浮かべて、由乃に訊いた。
「うん、まあ……」
 知り合いと言ったら、まあそうなるんだろうか。本当にちょっと知ってるだけの知り合いだったら、どんなによかったかと思うけど。
 本当にもう、曖昧な苦笑いしか浮かんでこない。初めてのバイトで昔の恋人に遭遇、しかも同じ日に初出勤なんて、神様がそうしているとしたらなんてナンセンスなんだろう。偶然ってこういう時に使うものなのか、一度問い詰めてみたい。
「ふーん」
 男の子の方も、意味を含ませた笑みを口元に浮かべている。二人の間に流れる微妙な空気で、察しがついたのかも知れない。昔から二人とも、隠し事は下手だったし。
「ざいまぁーっす」
 と、そこでその場の空気を切り裂く……というより、カクッと膝を折るような声が響いた。気がつけば由乃を後ろから追い越した人影が、カウンターの中に入っていくところだった。
 ひょろりと背が高くて、ぼさぼさと広がりのある髪の毛をした男の人。――少なくとも男の子とは呼べないぐらいのその人は、遠くからみればレゲエが好きなのかなってぐらい、あまり飲食店には向かない髪形をしていた。
「お、今日のところはみんな揃ったな。ちょっと待ってな」
 マスターはそう言うと、何とも言えない雰囲気になった店員たちを置いてロッカーのある従業員用通路へと引っ込んで行った。この沈黙、どうしろって言うんだろう。この何とも言えない気まずさと間の抜けた感じ、ドラマチックな展開な割りに格好がついていない。
「お待たせ。貴方達が新しい人ね」
 更にその空気を更にぬるくさせるような声が、さっきマスターが消えた通路の先から現れた。以前面接が終わった後に紹介されたから覚えている。マスターの奥さんで、智恵(ちえ)さんだ。
 智恵さんはころころと子犬みたいな笑顔で、由乃と祐麒の顔を見比べた。その間に流れる気まずさなんて、微塵も感じていないみたいだ。……まあ今来たばっかりじゃ、無理もない話だけど。
「よーし、じゃあ自己紹介と行こうか。まず店長の五十嵐源治です」
 マスター、愛嬌のある顔をして意外とゴツい名前だ。採用してもらっておいて何だけど、初めてフルネームを知った。
「妻の智恵です。キッチン担当です」
 店長夫妻が礼をしたら当然雇われの身の由乃達は礼を返すわけで、ははぁーと深くお辞儀をした。本当にみんな角度をつけてお辞儀をしていたから、様になっているけどどこかおかしげで、面白い。
「次、守」
「三越守です。金持ちそうな苗字ですけど、貧乏です」
 それを聞いたみんなが噴出して、くすくす笑ってしまった。マスターがぼそっと給料はちゃんとやっとるだろうが、と言う。さっきから黙々とグラスをチェックしていたけれど、無愛想ってわけでもないらしい。年齢は二十代後半ってところだろうか。
「藤崎爾衣です。看板娘担当でーす」
「また言うとる」
 マスターが突っ込むと、苦笑いが笑いに変わった。面白い子だなぁと思う。ぱっと見が志摩子さんに似ていたから大人しい子かなと思っていたけど、全然違う。リリアンには居なかったタイプの女の子だ。
「それじゃ次、祐麒な」
 ――っと、もう呼び捨てなんだ。名前で呼ぶの、ここの伝統とかそういうのだろうか。
「あ、はい。福沢祐麒です。アルバイト自体初めてなんですが、精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」
 ぱちぱちぱち、と拍手が送られる。今更確かめることもないけれど、やっぱり福沢祐麒その人に間違いはなかった。そう思うと、じくりとした痛みが胸に響いた。
 いや――これじゃいけない。由乃がどれだけの意気でここの面接に挑んだか、忘れられちゃいけない。
 別にどうしてもお金が必要とか、そういうわけではなかった。ただ周りがバイトしだして、勉強もして、生き生きして……というのを見ていると、居ても立ってもいられなくなったのが実情だ。大学からリリアンに入ってきた友達に「バイトしてるの?」って訊かれて、「してない」って答えた時の、やっぱりねって顔。あれはちょっと、鼻持ちならない。
 それに祐麒がいるって分かった瞬間に、逃げ出したいなんて思わなかった。そう、ちょっと動揺しただけだ。祐麒が居ようと居まいと、今の私には何も関係ないのだから。
「次は……ああそうだ、俺はみんなの事を名前で呼び捨てるんだけど、いいかな?」
「あ、はい」
「マスター、私の時は訊かれてません」
「そりゃお前が自分で『爾衣って呼んで下さい』って言ったんだろうが」
 それを聞いて、また少し笑ってしまった。爾衣ちゃん、由乃が緊張しないように、場を和ましてくれているのだ。
「じゃあ次、由乃」
 いざマスターに呼び捨てにされて見ると、嫌な気はしなかった。きっとお父さんが由乃を呼ぶ時と同じトーンだからだ。不思議なぐらい、自然な呼び捨てだった。
「はい、島津由乃です。えっと……看板娘そのニです」
 由乃がそう言うと、ドッと場が沸いた。思い切って言ってみるものだな、と思う。さっきから微笑むぐらいだった三越さんも、声を出して笑っていた。
「よーし言ったな。絶対そうなってもらうぞ」
 マスターは一頻り笑った後、意地悪そうな笑みを浮かべてそう言った。なれるものなら、なってやろうじゃないの。
「それじゃ二人とも初っ端から祝日できついだろうけど、しっかり仕事覚えてもらうぞ。まずは――」
「ちょ、マスター、タイム、タイムっ」
 マスターが仕事の説明に入ろうとした所で、祐麒の隣にいた男の子が手を上げた。そう言えば、私も彼が自己紹介していないのを忘れていた。
「おお、健二もいたのか。じゃあ健二」
「ひっでえなー、二週間でこれかー。あ、樫本健二です。健ちゃんって呼んで下さい」
「きもい」
「更に酷いな、お前」
 爾衣ちゃんの切り捨て御免の一言に、また場が沸いた。由乃としては、マスターと三越さんがぼそっとした声で「健ちゃん」とハモったところが面白かったけど。
「まあこんな感じで頭の緩いのが二人もいるから、二人とも緊張しなくていいぞ。リラックスされ過ぎても困るが」
「緩いのは一人ですよ、あの寝癖みたいなふわふわ頭」
「そう、一人ですよ、あの猿が喋れるようになったみたいな茶髪」
 由乃は指を指しあう二人を見て笑いながら、相性いいなぁ、と思った。実は凄く気が合うんじゃないだろうか、この二人。
「じゃあ二人とも今日はホールからな。接客は頭の緩い二人に教わってくれ」
「はい」
 それからまだ何か言い合っている二人から、ホールの仕事を教えてもらった。
 トレイの持ち方、注文の取り方、テーブルを片付ける際のチェック項目から挨拶の声の響かせ方まで、頭と身体に叩き込む。
 
「いらっしゃいませー」
 開店から五分。今日一番最初のお客さんを迎え入れる。
 まさか自分がこの言葉を腹から出す日が来るとは、昔は考えてもみなかったけれど、いざやってみると悪い気はしない。由乃の中にだってちゃんと、『お持て成しの心』ってヤツがある証拠だ。
 何はともあれ、始まった。ならもう止まることも振り返る事もしちゃダメだ。
 青信号の向こうは、青信号。色んなものが降りかかってきたって、それだけは曲げられない事だから。
 
 
 
 
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