春の歌
 
 
 
 
≫Chapter.01
日当たりのいい喫茶店
 
*        *        *
 
 大学生になったら、バイトを始めようと思っていた。
 それは自分自身に約束していたと言っていいぐらい、固い意志だった。とにかくこのままじゃいけない、背中を突っつかれている気がしていたのだ。
 高等部三年、生徒会長というお山の大将とはもうおさらば。お坊ちゃま学校育ちなんてステータスじゃなくて、ただのレッテルだ。
 身の回りに変化があった今こそ、新しい自分を得られるチャンス。新しいことを始める絶好の機会だと思う。
「はぁー」
 そんなわけで祐麒は、喫茶店の従業員用出入り口の前に立ち尽くしていた。いつもと違った角度から見るその喫茶店の立派ないでたちに、思わずため息が出た。客として来た一度目、面接にきた二度目、今日から働く三度目の来訪だが、いざ働くとなると気後れしそうになる。
『喫茶・レキシドール』
 オーナーが会社での重役勤めから脱却して始めたというこの喫茶店は、普通の喫茶店の二倍は面積がある。しかも出来て二年も経ってないらしいから、当然見目もいい。面接で祐麒を気に入ってくれた口髭たっぷりのあのマスター兼オーナー、昔は相当バリバリやってきたみたいだ。
「よし」
 祐麒は一人で気合を入れた。バイト一つで大げさだと言われそうだけど、初めて労働というものに就くのだ。家の手伝いとは、わけが違う。
「ちわー」
 そう言いながら扉を開けたけれど、誰もいなかった。まあ、ここら辺は想定内だ。
 従業員専用なのに妙に綺麗な通路を行くと、角を曲がろうとした時に人影が見えた。
「あ、ごめんなさい」
 あわやぶつかる、という所でギリギリよけると、その人は言った。ここの制服を着ているから、当然ここの店員なのだろう。
「? あの……」
 訝しげな視線で、祐麒は気付いた。祐麒はまだ私服だから、出入り口を間違えた客だと思われているのだろう。
「あ、今日からここで一緒に働かせてもらう福沢祐麒です」
 言った後、いまいちうだつの上がらない敬語だと思った。本当なら、「本日よりアルバイトとして働かせて頂く福沢祐麒です」と言う所だけど、それは畏まり過ぎか。
「ああ、あなたが祐麒くんね」
 祐麒と同じぐらいの歳に見えるその女の子は、親しげな口調と笑顔でそう言った。エアリーエアが特徴的な、どことなく妖精を思わせるような雰囲気を持った人だ。
「話は聞いてるわ。ロッカーはこっちだから、ついて来て」
「あ、はい」
 女の子は曲がってきた角を引き返して、奥へと歩いていく。それに続いた祐麒に、彼女は振り返って言った。
「畏まらなくていいよ。歳、同じぐらいでしょ? 私もここ、まだ一ヶ月も経ってないし」
 さっきから彼女は、笑顔を絶やさず祐麒に話しかけてくれている。接客でも笑顔を見せなきゃいけないのに、祐麒に対してまでそれで疲れはしないのかな、なんて余計な事を考えてしまう。
 だけど、とりあえず安心した。初めての職場が『渡る世間は鬼ばかり』って状態だったら、社会に出るのが億劫になってしまうだろう。
「はあ」
「祐麒くんて、いくつなの?」
「十九です」
「あ、じゃあ同い年だ。いいよ、タメ口で。ずっと敬語だと、息が詰まるでしょ?」
「ですけど」
「いいのいいの。うちってそこの所、そんなにうるさくないし。あ、男子ロッカーはここね。もう祐麒くんのロッカーは用意してあるらしいから」
 気付けばもう目的の場所に着いていた。それじゃまた後で、と言って彼女はまた引き返して、本来行くはずだった従業員出入り口の方へ歩いて行った。
「あ、おはようございます」
「おはようございまーす」
 男子ロッカーを開けると、先客が居た。軽く茶色に染めた髪をした彼は、さっきの子と同じく同い年ぐらいに見える。彼は祐麒に視線もくれず、惰性でそう挨拶を返していた。
「あれ?」
 聞きなれない声に今頃気付いたのか、糊のきいたシャツをパッと伸ばした後、ようやく祐麒を見た。
「あ、今日から一緒に働かせてもらう、福沢祐麒です。よろしくお願いします」
 相変わらず、いまいちな敬語だ。
「あぁ、樫本健二です。よろしくお願いします」
 年齢不詳の彼は祐麒が年上かも知れないと思ったのか、新人の祐麒にも敬語だった。ひょっとすると、高校生だろうか。
 祐麒は自分の名札が張られたロッカーを見つけると、その扉を開けた。鍵はかかっていない。
 隣で着替えている彼が身につけている制服を同じものをロッカーの中に見つけると、なんとも言えない感慨に満たされる。これから働くのだ、という実感がようやく沸いてくる。
「福沢さんって、喫茶は初めてっすか?」
「そうですけど……どうして?」
「いや、経験者だったら、色々教えて貰える事もあるかなって。俺、まだ二週間なんすよ」
 なるほど、だから敬語なのか。入りたての頃は、誰に対しても慎重になる。まさしくその最中にある祐麒が、一番それをよく分かっている。
 それにしても、さっきの女の子も同い年でまだ一ヶ月経ってないと言うし、入れ替わりは結構忙しない方なのだろうか。イコール、止めたくなる職場、とは考えたくないものだ。きっと四月は節目だから入れ替わりが激しいんだと、そう結論付けることにする。
「おっ、似合いますねぇ」
 祐麒が制服を着るまで待ってくれていた彼は、そう言ってえくぼを見せた。祐麒も「そうですか?」と釣られて笑う。最初見た目で軽そうな人だな、と思った自分が少し恥ずかしい。
 この店、従業員の間の雰囲気も悪くなさそうだ。
 それから彼に案内されて、ホールに通された。朝のこの時間は、お客さん用の入り口の方から日が入ってくる。まるで光のカーテンのように差し込む日差しは、春の朝を温かく包み上げていた。
「マスター、今日から入る福沢さんです」
 祐麒が声をかける前に、樫本くん――いや、「さん」だろうか――に紹介されてしまった。
 カウンターの中でごそごそしていたマスターは、上半身だけで振り向いて「おお」と言った。
「おはようございます。本日からここでお世話になります――」
「ああ、いやいい、そういう固っ苦しいのは。もっと気楽にいこう。な?」
 今度は折角ちゃんと挨拶できそうだったのに、出鼻を挫かれてしまった。近所の子供がよく懐きそうな愛嬌のある顔でそう言われては、「はい」としか言えないじゃないか。
「よかったな健二ぃ。お前にも後輩が出来たぞ。まあ同い年だけどな」
「え、タメ?」
 樫本さん改め健二くんは、狐に摘まれたかのような顔で祐麒を見た。これだけ同い年が集まれば、それはそれでびっくりだ。
「なんだぁー。じゃあよかった。年上の後輩って、すっごい扱い微妙っすよ」
「だからって偉そうにするなよ」
「しませんって。あ、俺の事は健二でいいよ」
 途端に軽い調子になって、『健二』はそう言った。会って間もないけれど、こういう調子の方が彼には合っている気がする。敬語も祐麒と同じく、危なっかしいものだったし。
「じゃあ、俺の事は祐麒で」
「オッケー」
 そう言うと彼は親指を立てて、前歯を見せながら笑った。まるでコミカルなコマーシャルのワンシーンみたいで、少し笑ってしまう。そんな笑いも彼は友好の印だと思ったのか、何だか嬉しそうだった。
 改めて店内を見回して見ると、広い。東京は所狭しと椅子を並べた喫茶店が多いけれど、この店はたっぷり感覚があって窮屈な感じがしない。広さの割りに人は入らなさそうだけれど、それでも他の喫茶店よりは沢山入るのだろう。
 アイボリーの壁には腰の高さのあたりにレンガのタイルが張られていて、艶のある木目が綺麗なテーブルと合わせて色の釣り合いもいい。木製のハイスツールが並ぶカウンター席の荷物置きには、さりげなくクッションが用意してあって気が利いている。
「そういや、もう一人の子はまだなんですね」
 健二は制服の襟が気になるのか首の辺りを撫で付けながら、マスターに聞いた。もう一人、って事は、祐麒以外にも今日から働く人がいるって事か。彼の口ぶりからすると、女の子のようだ。
「たしか俺らとタメでしたよね?」
「それは言えん」
「何でっすか」
「女の子の年齢をおいそれとは言えんよ。個人情報だしな」
 そう言って唇の端を上げて見せたマスターを見て、やっぱり元サラリーマンなんだなぁと思った。それにしては垢抜けているというか、マスターの言う『固っ苦しい』所は感じられない。
「で、可愛いんすか?」
「もうすぐ分かるだろ」
 そう言ってマスターは更に奥へと引っ込んで言ってしまった。焦らされた健二は、かーっ、もったいぶっちゃって、と楽しそうだ。
「祐麒って、職場恋愛はオッケー派?」
 早速の呼び捨てに、なんともいえないむず痒さを感じる。しかし、そこにぎこちなさはない。
「うーん、考えた事なかったけど……いいんじゃない?」
「だよな、だよなっ」
 なるほど、出会いがあるのもバイトの醍醐味というわけか。祐麒としては早く社会の端っこでもいいから出てみたいという思いが強くて、本当にそんなことを考えた事がなかった。
「そう言えば、もう一人同い年の子いたよね。まだ入って一ヶ月経ってないって言ってたけど」
「ああ、爾衣(にい)? あれはダメ。確かに見た目は悪くないよ。けど恋愛対象にはならん」
 こっちも呼び捨て、となると結構仲はいいらしい。マスターも健二の事を呼び捨て出し、それがこの店の方針というか、空気ってヤツなのだろうか。
「なんで?」
「だってさ、俺より一週間かそこら早く入っただけで先輩風吹かせてさ、それに結構意地わ――」
「ちょっと、それ以上勝手な風評を垂らし込むの、止めてくれる?」
 そう言いながら爾衣さんは彼の脇腹にチョップを入れた。健二は変な声とポーズで仰け反る。
「何すんだよ、おい」
「あっ、改めまして、藤崎爾衣でーす」
 爾衣さんは健二を無視するとにっこり笑って、ふわりと制服のスカートを広げて見せた。やっぱりどこか妖精っぽい子だけど、どうにも裏の顔がありそうなのはさっきから垣間見えている。
「爾衣、新人案内してくれたか?」
 カウンターの奥の方から、マスターが言った。女の子に対しても、下の名前を呼び捨てらしい。
「勿論、ちゃんと。よかったですねぇマスター、看板娘が二人に増えましたよ」
「自分で言うなよ。否定はせんが」
 どれどれ、と健二は爾衣さんの背中に隠れている祐麒の同期を見ようとしたが、あっさり隠されてしまった。
 祐麒の方からはちらりとシルエットが見えたけれど、細身で髪は肩ぐらいまでのセミロング、という事ぐらいしか分からない。肝心の顔が見えないのだ。――って、祐麒の考えることは、どうにも健二の頭とそう大差はないらしい。
「それでは紹介しまーす」
 爾衣さんはたっぷりもったいぶってから、パッと身を横にずらして言った。
 
「レキシドール二人目の看板娘、島津由乃ちゃんでーす」
 
 
 
 
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