藤堂家 -中編-
 
 
 
 
 
*        *        *
 
 育ちが良すぎるのも、それはそれで問題だ、と俺は思った。
 志摩子も賢文も、大きな病気もなく成長している。志摩子の齢が七を数える頃には、同い年の子らとは一線を画した雰囲気を持っていた。
 それほど躾を厳しくしたわけではなかった。志摩子は聞分けがよかったし、怒られるような事をしない子だった。
 だがそれが何故かと考えると、思い当たる節があるのが厄介だ。俺は志摩子が物心付くか付かないかという頃から、本当は両親ではなく、祖父母なのだという話はしていた。後になって知らされるより、ずっといいと思ったからだ。
 だから聞分けのいい子になったか、と言われれば、それは違うとも言い切れないから厄介だ。当然、志摩子を縛り付けたくて事実を教えたわけではない。
 歳を重ねるごとに志摩子は大人しく、人を困らせるような事をまったくしなくなった。親の描く良い娘の典型例をなぞるかのような完璧さだった。
 それが俺たちが本当の両親でないから迷惑をかけたくない、という思いからなのであれば、いたたまれない。志摩子が小学校に入るぐらいには賢文は全寮制の学校に通い、実質一人娘の状態だったから、それも重圧になってしまったのだろうか。
 だけど俺たちは家族なのだ。目に入れても痛くないほど、可愛い娘なのだ。迷惑など、いくらでもかけていいというのに。
 しかし、後悔は絶対にすまい。いずれ志摩子は、俺たちが本当の両親でない事を知る日が来るのだ。後になって知るほど、それはきっと残酷になる。
 
*        *        *
 
 それは賢文が夏期休暇で帰省している時の事だった。外に鳴く虫の声が無神経なほどにうるさい、涼しい日の夜だった。
「賢文」
「はい」
 俺は読経を遮ってそう呼ぶと、賢文は不思議そうに俺を見上げた。無理もないだろう。読経を遮るという無作法を、俺がしたのだから。
「お前、体調でも悪いのか」
「えっ……」
 しかし、今日の賢文の読経は聞くに堪えなかった。経を読むのに気合はいらないが、気概はいる。俺にはさっきまでの読経が、棒読みに聞こえてならなかったのだ。
 賢文の変化を、薄々は感じていた。時たま上の空になったり、折角帰省しているのに家にいる時間も少なくなった。これだけ重なれば、否応無くそう思わざるを得ない。
「まさかお前――」
 そう声に出してしまうと、不安が一層募った。同じような事が一度あったからこそ、嫌な予感がついて離れない。
「好きな女でもできたか?」
 それが異教徒で、その女と駆け落ちでもしようと思っているのか? 続く言葉が出そうになって、危うく堪えた。息子に不安を悟られるほど、格好のつかない事は無い。
 俺はそれを頭から否定して欲しかったのだ。杞憂であると、確信が欲しかった。何もかもが繰り返されるとは思っていないが、確かめずにはいられない。
「そうではなくて」
 そう『では』ないという事は、別に理由があると言う事か。俺は口を開けば矢継ぎ早に質問をぶつけてしまいそうで、黙って口を閉じていた。
 じゃあ何だ、他にやりたい事でもできたのか。宗教学を学んでいくうちに、他の宗派や、別の宗教に興味を持ったというのか。
 喉を突いて出そうな言葉を、必至に飲み下した。そのどれかに正解がありそうで、怖かったのかも知れない。
「何でもないんです。集中力ないだけで」
 そうか、とだけ呟き、俺は押し黙った。その言葉に嘘は見出せなかったから、一先ずは安心する。
 賢文も、もう二十歳になる。通っている大学はいくら女っ気がないとは言え、その年代ならばどこにでも出会いが待っているものだ。恋愛についてまでとやかく言うつもりはなかったが、それが仏の道から外れる理由になるなら話は別だ。
 
 沈黙の間に、八月の虫の声が流れていた。ひたすらにうるさく、どんな声も許さないように。
 
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 明日の法事で使う数珠がないと気付いたのは、夕餉をとって十分もした頃だった。
 今日のうちに出かけの準備をしようと数珠袋を漁ったのだが、どこに置いてきたのか中身は空だった。当然本堂や家の仏間を見てまわったが、見つけられなかった。
 困った。当然数珠は他にも持っているが、あれは俺の親父から譲り受けた大切な数珠なのだ。葬儀では別の数珠を使うが、法事ではあの数珠以外を使った事がない。
 誰か他に心当たりのあるものはないかと思って佳代子や手伝いに尋ねてみたが、一向に手がかりはなかった。台所から戻るついでに志摩子に聞いてみようと思い立ち、冷たく黒光りする廊下を歩いた。
 志摩子ももう、九つになった。賢文も大学を卒業して、住職となるための修行に入る準備をしている。志摩子に訊いて分からなかったら、後で賢文にも訊いてみようか。――そんな事を考えながら、俺は志摩子の部屋の襖を開けた。
「志摩子」
「えっ、あっ、は、はいっ」
 何故、だろうか。こちらに背を向けていた志摩子は俺が襖を開けると、飛び上がるようにしてこちらを振り向いた。酷く動揺して、後ろ手に何か隠しているのが分かった。
「どうした。それほど驚く事か」
 言いながら俺は、そういえば志摩子ももう年頃の娘なのだと思った。まさか俺に一つの隠し事もないとは、思ってもいない。
「い、いえ、何でもありません」
「……そうか。ところで数珠を知らんか。法事用のやつだ」
「さあ……見てませんけれど」
 そう言われて俺は志摩子が隠した物が気になったが、まさか数珠ではないだろう。いたずらをする歳でもないし、今までそんな事をした事がない。嘘などついた試しがないのだ。
 俺は襖を閉めて踵を返すと、軋む廊下を歩きながら今日の出来事を思い返していた。朝起きて、朝食を摂り、それから何をしていたか。
 賢文にも訊きにいくか、と思っていた所で、さっきまで居た居間から光が漏れているのに気付いた。おかしい。俺は躾の意味もあって、襖をきちんと閉めるようにしているのだ。
「賢文」
 その襖の向こうには、丁度いま訪ねようとしていた息子が居た。俺が居間に入ると、賢文は正座して膝の上で拳を硬くしている。
「どうかしたか。襖、閉め忘れているぞ。昔あれほど注意したろう」
「お父様」
 酷く重い口調で、俺ははっとした。その次の瞬間、硬く握られていた賢文の手から、探していた数珠が出てきた。
「おお」
 その瞬間、思い出した。確か昼を過ぎた頃に、賢文から数珠を貸してくれと頼まれたのだった。歳を取ると、これだからいけない。
「探しとったのだ。お前に貸したのを忘れておった」
 俺は数珠を受け取ると、柔らかくそれを包み込んだ。
 賢文は、明日から住職となるための長い修行に出る。三年もの間、先祖代々住職の修行に赴いた寺に世話になるのだ。確か荷造りを終えて、数珠を奥の方に仕舞ってしまったから貸して欲しい、と言ってきたのだった。
「お話が、あります」
 ぞくりと嫌な予感がして、数珠が帰ってきた安堵はすぐにかき消えた。賢文は沈痛と表現するのが相応しいほど重い面持ちで、畳を見ていた。
「お母様にも一緒に聞いて欲しいのですが」
「……分かった。呼んでこい」
 俺がそう言って座布団の上に座ると、賢文はゆらりとまるで幽霊か何かのようにはっきりしない足取りで居間を出て行った。気付けば心臓が高鳴っている。
 腹が減った時に『お腹の虫が鳴く』とはよく言ったものだが、こう嫌なものを抱えている時、この胸に渦巻くものをなんと言うのだろうか。胸騒ぎと言うには重篤だ。何かあったわけでもないのに、鳩尾に一発喰らわされたかのような気分だった。
 そうこうしているうちに、賢文は佳也子を連れて居間に戻ってきた。佳也子も何か感じ取っているのか、表情は明るくない。
「どうしたの、そんな深刻な顔をして」
 俺が何か言うより早く、隣に座った佳也子が言った。
「お父様とお母様に、謝らなければいけません」
 また一つ、胸の中で鐘がなる。これは警笛だ。俺に『備えろ』と、そう言っている。
「どういう事だ」
 俺は何かを噛み潰すような気持ちで、賢文に訊いた。本当は訊きたくなかった。こう前置きするのだ、聞きたくない話に決まっている。その中身がうっすらと想像できるからこそ、先を促したくなかった。
「……」
 あたりに音はない。呼吸の音さえ聞こえるほどの静寂が、俺達三人の間をさまよっていた。
「明日私は、ここを発ちます」
 その言葉を聞いて、俺は僅かながら安心した。明日からの修行には行きたくないと言われたら、どうしようかと思っていたのだ。
「ですが」
 俺の思考を断ち切るように、賢文は続けた。
「住職の資格を取る事は……この寺を継ぐことは、もう少し考えさせて下さい」
 聞きたくない、言葉だった。全身の血が、冷たく沸騰するのが分かった。
 言葉の意味を何度も咀嚼して、その度失望の味が俺を満たす。あれだけ真っ直ぐに准至の後を継ぐようにして住職への道を歩んできた賢文が、今歩みを止めようとしているのだ。
「なん……だと」
 こめかみが割れそうだ。ジクジクと頭の奥が痛む。
「賢文、ちゃんと説明してちょうだい」
 今すぐにでも叫び出しそうな俺とは真反対に、佳也子は必要以上に優しい声で言った。その声色に、沸き立っていた俺の頭も少しだけ冷やされる。
「昔、お兄様に言われた言葉あります」
 不意に准至が話題に上って、俺は思い出すことの痛みに備える暇がなかった。親が一緒なのだから当然なのだろうが、賢文は准至と良く似ていた。まるで准至が生き返って俺の前で喋っているような錯覚を覚えて、息が詰まる。
「お兄様が亡くなる半年前でした。お兄様は、私に『お前も自由にしろ』と言いました。『代々うちの家系が守ってきた寺だが、それに捕らわれる事はない』と」
 余りにも准至らしくない言葉に、俺は驚きを隠せなかった。准至がそんな無責任な事を言うとは、到底思えなかった。
 だが、そう言える様になった事こそが、准至の変化だったのかも知れない。結婚したいと思えるほどの女性と出会い、宗教や家族さえも捨てた准至は、きっと俺の知っていた准至ではなかったのだ。
「お兄様の言葉に、何もかも賛同するわけではありません。けれど私は、お兄様の言葉に従おうと、そう思ったのです。本当に何もかもが自分の意思なのか、自分のやりたい事なのか、こんな迷いを抱えたまま、修行に耐えられるとは思いません。だから――」
「ふざけるな!」
 気が付いたら俺は立ち上がり、声を荒げていた。絶望と激怒しか、俺の中には無かった。
「何故今頃そんな事を言う。お前が『寺を継ぐ』と俺に言った時、どれだけ安心したか、お前に分かるか!? 俺の親父や、爺様がどういう思いでこの寺を守ってきたか、考えた事があるのか!」
 言い終わった後、肩が震えているのが分かった。准至が住職への道を断った時よりも激しい怒りが、俺を突き動かしている。それは数十年ぶりにして鮮烈で、自分を抑えきれない事に虚しささえ伴っている。
 怒りの波の間の縫っているのは沈黙と、筆舌に尽くしがたい痛みと喪失感だった。繰り返そうとしている愚かさ、少しずつ戻ってきた客観性が浮き彫りにする俺の情けなさ。現実を事実として受け入れられないこの感覚は、二度と味わいたくない類のものだったはずなのに、今こうして目の前にある。
「分かりません。分かりたくないのかも、知れません」
 賢文の声は震えているようで、しかし揺ぎ無い意思を宿していた。俺が何と言おうと決して反転しないという思いがありありと伝わってきて、またどうしようもなさが込み上げる。
「お兄様と同じ事をするつもりはありません。僧の修行は続けていくつもりです。けれどお兄様を言葉を、今は尊重したいのです。以前までは私が寺を継いで、志摩子には家の事を考えなくていい……志摩子を自由にする事が私の自由なのだと思っていました。お兄様が、私にそうしてくれたように」
 賢文は俺の目を真っ直ぐ見ていた。その目は裏切るんじゃない、これが誠意なんだと訴えかける。今やろうとしている事は、兄とは違うんだと。
 けれど、何もかもが違うようで、何も変わらないのだ。理由をかこつけて、逃げ出している。その圧倒的な事実は、どんな言葉を持ってしても変えられない。
「お兄様と歳が近づいてきて、それで分かったんです。お兄様があの日私に向かって言ったのは、こんな風に自分を縛るためではないと。身勝手に聞こえるかも知れませんが、私が僧として一生を終える以外の道を示してくれたんです。兄が死を伴って教えてくれた事に、私はどうしても抗う事ができないのです」
 そうだ、身勝手だ。俺も、賢文も、准至も。誰も彼もが身勝手で、勝手に義務を背負っている。
 けれど准至や賢文は知らないのだ。俺の祖父が、どんな思いでこの寺を守ってきたか。戦火の中、後に東京大空襲と呼ばれたあの時でさえ寺を守ろうとした父の背中を、子達は知らないのだ。
「言え」
 俺は苦しい声でそう言った。絞り出した、と言った方が正しいかも知れない。
「回りくどい言い方をしているが、つまり他にやりたい事が出来たんだろう。それは何だ」
「そういう訳では、ありません。……いえ、完全にないとは言い切れないかも知れませんが、きっと言っても信じて貰えません」
 ずっと俺を見ていた賢文が、ふと目を逸らした。バカにされるのが目に見えていると、表情で語っている。
「だから、それは何だと訊いている」
「聞いたって、何も変わりませんよ」
 不貞腐れた態度と、最初から何もかも諦めているような口調に、俺はついに耐える事を忘れた。
「出ていけ!」
 叫んだ次の沈黙に、耳鳴りがした。佳也子までもが肩をすくませて、じっと畳を睨んでいた。
「今すぐ出ていけ。お前の顔など、これ以上見たくない」
「お父様」
「出ていけ! 聞こえんのか。ああ? 出ていけと言っている!」
 俺は大声で喚き散らしながら、これじゃ悲鳴だと頭の片隅で思っていた。悔しくて、情けなくて、久しぶりに涙が出そうだった。
 顔も見たくないと言っているくせに睨み付けている俺の前で、賢文はゆっくりと立ち上がった。自分から全て投げ捨てたくせに、全てを失ったかのような足取りで、居間を出て行く。
「……志摩子」
 賢文のその声に、ハッとした。目を凝らしてみると、暗闇の向こうに志摩子が座っているのが見えた。一体いつから、聞き耳を立てていたのだろうか。
「ごめんな……」
 賢文はそう言って志摩子の横を歩き、やがて襖を開け閉めする音が聞こえ、最後に玄関の締められる音がした。俺達はしばらく、その場から動けなかった。
「閉めろ」
「え……」
 志摩子は初めてみる怯えた目で、俺を見ていた。それが嫌に癇に障って、苛々する。
「襖を閉めて、玄関の鍵をかけてこい!」
「は、い……」
 完全に恐怖の対象を見る目になった志摩子に、俺は怒鳴り散らしていた。志摩子が泣きそうな顔で襖を閉めて廊下を駆けて行く音が聞こえて、俺は今更虚しくなった。本当に、今更。
 
 佳也子は無言で今を出て行く。襖越しに、洟をすする音が聞こえた。
 
 
 
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